黒船来航は日本に知らされていた?日本を開国させた大事件を追う

日本にいきなり4隻の黒い船が現れ、江戸幕府に開国を迫ったという黒船来航。実は、この黒船来航は事前に日本に知らされていたって説があるんです。でも、日本が西洋の列国の植民地になることなく現在あるのは、黒船の指揮官ペリーが、日米友好の先駆者になってくれていたからではないでしょうか?今回は、黒船来航の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

日本に黒船がやってきた理由

日本に黒船がやってきた理由

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1853年6月3日に現在の神奈川県浦賀に4隻の黒船がやってきました。
黒船に乗っていたのは、アメリカ海軍の司令官マシュー・ペリーです。
開国を求めた米大統領の国書を浦賀奉行に渡すのが今回の彼の役割でした。
ペリーは、「言うことを聞かないとアメリカ軍が誇るこの船で日本を責めることになるかもしれない」と、強く迫ったそうです。
それどころか、黒船から時々空砲を打ち放って脅したとも言われています。
でも、どうしてこんな小さな島国をアメリカほどの大きな国が、脅すほど必死に開国を迫ったのか不思議に思いませんか?

アメリカは大国中国との貿易を考えていました。
南を周る航路だと、大西洋を横断し南回りで、4か月かかったそうです。
でも、太平洋を横断すれば約20日で中国に行くことができます。
途中にある小さな国を開国させて、燃料や水、食料の補給基地として利用しようと考えていたのです。
鎖国をしている日本には、近づくこともできません。
だからどうしても日本に開国させる必要があったのです。
他にも、北大西洋で活発に捕鯨をいていた関係もありました。
1度捕鯨船が航海に出ると数年戻りません。
そのための燃料、水、食料確保も課題だったようです。
こうやって見ると、日本の重要性が分かる気がしますね。

実は日本は黒船来航を知っていた

実は日本は黒船来航を知っていた

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鎖国はしていたものの、長崎の出島でオランダと清とだけは貿易が認められていました。
貿易をする代わりに、外国の最新情報を、日本に「風説書」として提出するのが決まりとなっていたのです。
特にオランダの風説書はしっかりしたもので、1840年のアヘン戦争を機に列強の動向などを幅広く教えてくれています。
オランダから日本に黒船来航の情報が届いたのは嘉永5年(1852年)7月のこと。
アメリカ大統領が通商を求める国書を送ってくるというもの。
旗艦は「しゅすけはんな」で指揮官は「ペルリ」ということも風説書に書かれていたのです。

風説書を見た福岡藩主の黒田長溥は建白書を提出。
本格的な軍艦と海軍を創設するよう進言しました。
でも幕府は、焼失した江戸城西の丸の再建や飢饉などで窮迫しており、日本の一大事と予期できなかったのです。
一応江戸湾の入り口浦賀港に来るだろうと予測し、奉行所の与力たち90人を配置し、24時間見張っていました。
しかし、半年たっても一向にやってきません。
誤報だろうと、厳戒態勢を解きました。
やってきたのはその後の6月3日でした。

とうとうやってきた黒船4隻

とうとうやってきた黒船4隻

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突然、見たこともない巨大な船が4隻もやってきました。
これを見た江戸の人々は大騒ぎ。
この頃の日本の船は帆か手漕ぎだったのです。
ペリーが乗ってきた船は、蒸気船という軍艦で最先端の技術を乗せていました。
ここで既に力の差を見せつけられています。
しかも、空砲を打ち圧力をかける始末です。
日本は黒船に浦賀奉行所の役人を船に送りましたが、ペリーは政府高官でなければ交渉できないと突っぱねました。

これまでに、外国船が江戸湾に入ってきたのはペリー艦隊が初めてではありませんでした。
浦賀を中心に6回も外国船が来航し、その都度長崎へ回航させていたようです。
しかも、アジアの他の国々も、清がアヘン戦争で英国に香港を割譲され、上海、広東なども開港しており、列強国によって世界は変化していることも幕府は知っていました。
だから、日本もはぐらかし外交をやって凌いでいたようです。

黒船対策に翻弄する幕府

黒船対策に翻弄する幕府

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浦賀の与力、香山栄左衛門が長崎へ行くよう求めたものの、ペリーは全く相手にせず強硬な態度で接したのです。
空砲を打ちながら脅しをかけられる中、幕府は上陸を認め久里浜に仮設の応接所を造り国書を受理しました。
幕府の責任者に大統領の国書を手渡ししたペリーは、1年後にもう一度来るのでそれまでに答えをまとめるよう言い日本を去っています。
ここから日本の奔走が始まったのです。

幕府は全大名から下級幕僚にまでアメリカの国書を公開し諮問しました。
やっと国を揺るがす一大事が起こったと悟ったんですね。
全国から国書に関する建白書が、800件も集まります。
体制存続と戦争回避を念頭に、どこまで譲歩するか周りの情勢を把握しながら模索しました。
幕府はロシアや英国も進出を狙っている中、組むならアメリカと決めたのです。
最初の条約締結国に選ぶなら、新興国のアメリカが一番との意見からでした。

一方ペリーも日本への情報収集に余念がなかったようです。
シーボルトが書いた「ニッポン」という本を約2000万円で買っており、彼の部屋は日本の資料で一杯。
しかも、日本人に対するマニュアルまで作成していたとか。
アメリカはどうしても和解という形で終結させたかったのです。
日本を武力で制圧するのは簡単でした。
でも、ここで日本に打撃を与えると、物資補給できる国へと再建するには時間がかかりすぎるからです。
1日も早く中国での権益を獲得し、ヨーロッパ諸国に追いつきたいというのがアメリカの考え方でした。







黒船再訪

黒船再訪

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1854年1月再びペリーが、9隻の艦隊を引き連れて来日しました。
日本も200年続いた鎖国を解くと腹をくくっており、最初の時のような戸惑いはありません。
それどころか、前回ペリーが去ってからの日本の対応については、高評価を得ています。
ペリーは訪れるとすぐに、開国し船の燃料補給や水や食料を提供するよう、改めて要求してきました。

ペリーは神奈川県の横浜に上陸し、同年3月に日本は外国と初めて条約を結びます。
これが「日米和親条約」です。
ここで幕府は下田と箱館(現函館)の2港を開き、要求通り燃料や水、食料の提供を約束しました。
4年後にはアメリカは、貿易を開始するよう要求します。
幕府は、1858年6月に「日米修好通商条約」を結び、アメリカと貿易を始めます。
しかし、日本にとってとても不利益な条約でした。
大きな問題は3つありました。
まずは、函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の5港を開港することに始まり、日本で外国人が罪を犯しても日本の法律ではさばけない「治外法権」や輸入される品物に対する関税の税率を日本が決めることができない「関税自主権を日本が持たない」というものです。

開国によって崩壊した幕府

開国によって崩壊した幕府

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こんな不道徳な条約を結んだのは、井伊直弼です。
外国からは激安の糸や綿製品が輸入され、自国の産地は全く品物が売れず藩の財政は圧迫。
これに対抗するべく日本で作られた質の良い生糸やお茶などはどんどん外国に輸出され品不足になったのです。
米や塩など生活必需品なども高騰し、人々の生活は貧窮しました。
日本人の幕府への不満はどんどんたかまりました。

徳川幕府には、日本は任せられないと倒幕運動が始まります。
人々は天皇中心の新しい国を造ろうと動き出したのです。
もちろん、日本との国交を望んでいた他の国々は黙っていません。
1858年7~9月の間に、順次オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも通商条約を締結しました。
これが安政の五か国条約です。

色々なことが起こりましたが、条約締結という平和的な解決で鎖国を解くことができたのは、幸運でもありペリーのお陰かもしれませんね。
列強国から植民地とされることなく現在の日本があるのは、ある意味黒船来航時の幕府がとった対応がおかげだと思います。

日本を震撼させた黒船来航は、15年続いた鎖国時代を終焉させた一大事件です

黒船は、江戸時代末期に日本にやってきた大型の蒸気船。
船体にタールで黒く塗っていたことから黒船と呼ばれていました。
最新設備を備えた黒船は、日本人にとって恐ろしいものに映ったでしょうね。
だって、日本人がかつて描いたペリーの顔ってとっても怖いんですもの…。
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