幕末の悪名高き大老!井伊直弼が断行した「安政の大獄」とはどんなものだったんだろう?!

長州藩士で松下村塾において弟子たちを教育した吉田松陰や越前藩医の橋本佐内ら8人が死罪になり、公家や大名、志士など100人を罰した弾圧事件「安政の大獄」って、言葉はよく聞き何となくは知っているけどなんだか記憶に薄い事件だと思いませんか?でも、なぜだか気になっちゃう「安政の大獄」について、ご紹介したいと思います。

安政の大獄って何?安政の大獄の概要

安政の大獄って何?安政の大獄の概要

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超簡単にいうと安政の大獄とは、安政5~6年(1858~1859年)に、時の大老井伊直弼(いいなおすけ)が尊王攘夷派を徹底的に弾圧した一連の経緯のことです。
この安政の大獄がきっかけとなり、後に井伊直弼は江戸城外で暗殺されました。
これを「桜田門外の変」といいます。

大老とは現在の内閣総理大臣のような存在で、井伊直弼が異例の大出世で大老に就任しました。
朝廷の許可をすっとばして、安政5年6月19日に、日米修好通商条約に調印したのが大問題となりました。
それを、攘夷派(外国人を実力行使で排斥しようという思想)が、強力に反対してこれが革命のような状態になったのです。
それに、13代将軍が男子に恵まれておらず、後継者を巡る争いも加わり大事件へと発展しました。
それでは、もう少しだけ詳しく「安政の大獄」を見ていきましょうね。

安政の大獄の発端

安政の大獄の発端

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安政の大獄は黒船来航から始まっているんです。
黒い船でアメリカ人のペリーがやってきて、開国しないと徹底的に打ちのめしちゃうぞ!と脅しをかけました。
日本は開国に応じ港を開きましたが、それだけでは満足しなかったアメリカは、次にペリーに代わってハリスをよこし「貿易をしよう」といってきました。
天皇に、「アメリカからハリスが「貿易しましょ」といってきてますがどうしましょう」とお伺いを立てたのです。
でも天皇は外国が嫌いでした。

この頃の幕府は天皇から政治を任されているといった立場で、国政を揺るがす重大な事柄は天皇の許可は必須条件でした。
だから、幕府は天皇に「アメリカとの貿易どうしましょう?」って相談していたんです。
でも、天皇はなかなか許可を与えようとしませんでした。
でも、ハリスは「返事はまだ?早くしてよ!」ってせっつく始末。
板挟みになった幕府は天皇からの許可を待つことができずに、アメリカと貿易を結んでしまいます。
この条約調印を決定したのが、当時の総理大臣にあたる大老の井伊直弼だったんです。

なんで、返事を急いだの?

なんで、返事を急いだの?

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こうやって見てみると、大老だし仕方なく悪役を買って出なければならなかったんじゃない?だってアメリカって怖くないですか?でも、一説には大老井伊直弼は最後まで朝廷の返事を待とうという姿勢を取っていたのですが、待ちきれなかったのは老中の松平忠固(まつだいら ただかた)だったようなんです。

ハリスって気が短いのか、「アメリカと早く条約を結ぼうよ!そうしないと今度はヨーロッパからイギリスが攻めてきて、日本を植民地にしちゃうよ!」って脅す始末。
この頃アジアの他の国は、清がアヘン戦争で英国に香港を割譲されていました。
ヨーロッパの侵略を受ける国もでてきていたのです。
もちろん、鎖国をしていたころからこんなことは幕府も知っていました。
植民地なんて冗談じゃない!と思ったんですかね。

結ばれた不平等条約を批判する尊王攘夷派

結ばれた不平等条約を批判する尊王攘夷派

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とうとう、日米修好通商条約は安政5年1858年に条約に調印。
結ばれちゃいました。
これが日本にとって大変不利な条件でした。
まぁ、日本には選択権がもうなかったといった方がよかったのかもしれませんが。
だってイギリスの植民地になってたら今の日本はなかったんですものね。
恐ろしや先進国め!でも、治外法権や関税自主権を持たない悲劇的な条約でした。
この件に関しては井伊直弼もかなりのご立腹で、松平忠固と堀田正睦(まさよし)を、後に報復人事で左遷しています。
恐ろしや恐ろしや。

天皇の許可も下りていないのに、日本に不利な条約を結んだだと!けしからんと息巻いたのは尊王攘夷派の一橋派でした。
一橋派の徳川斉昭(なりあき)、松平慶永(よしなが)は条約調印の5日後に江戸城に登城し、なんてことをしたんだと怒鳴り込んだのです。
井伊大老は、異例の出世をしていたことで、内閣での味方があまりにも少ない人物でした。
悪い老中たちは「条約の調印を決めたのは井伊大老だ!」全責任を井伊大老に押し付けてしまいました。
攘夷派からは、幕府を糾弾する声が上がったのです。







ブチ切れた井伊直弼

ブチ切れた井伊直弼

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しかし、井伊大老も負けていません。
「呼んでもないのにお城にきた!不法な登城は犯罪だぞ。」と処罰するという強硬手段にでたのです。
続いて、孝明天皇(こうめいてんのう)も、井伊直弼に条約締結の説明をするために上京せよとの命を下しました。
井伊大老は、思いっきり無視!それはそうですよね。
だって朝廷だってハリスの時、決断を伸ばし伸ばしにしたんですもん。
頭にきますよね!

天皇に対する態度でさらに攘夷派はカンカン!尊王攘夷運動が全国に広まりました。
いってみれば、井伊大老に対するテロが起こったのです。
なんだか、井伊大老ってアメリカのトランプ大統領のように見えませんか?この後、井伊大老は反対派の人間を処罰するようになります。

安政の大獄開始!

安政の大獄開始!

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まず、江戸城に押し掛けた、徳川斉昭を謹慎。
徳川慶勝と松平慶永を隠居謹慎処分に、慶篤と一橋慶喜も登城禁止としました。
7月6日将軍家定が病死しました。
この時家定には継承者がおらず、一橋慶喜と慶福が後継者争いをしていましたが、家定は遺言で次の将軍は慶福と指名したのです。
一説によると南紀派の画策だったとも言われています。
慶福は家茂と改名し、14代将軍となりました。
徳川慶頼を将軍後見職にして、安政の大獄(反対派の粛清)が始まります。

条約の調印や今回の登城に対する処罰問題で更に反対運動はエスカレートしました。
尊王攘夷派の志士は、井伊大老に不信感を抱いている公家たちと組んで、排斥運動に展開。
条約調印の説明と公武合体・攘夷の実行を求める勅書が下され伝達されたのです。
これは、「戊午の密勅」と呼ばれています。
この事件では、小浜藩士の梅田雲浜を逮捕。
これに続き水戸藩の鵜飼父子や福井藩の橋本左内らが捕らわれ死罪になりました。
これは井伊大老の腹心長野義言(よしとき)が暗躍したといわれています。

安政の大獄の終焉

安政の大獄の終焉

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この流れに乗って幕府を倒し、国をより良いものにと目論んだ人物がいます。
この代表格は吉田松陰でした。
このような人々も、処分の対象となりました。
吉田松陰が捕まった時は、「老中を何人か暗殺するつもりだった」と暴露しています。
井伊大老は、厳しい手にでて、多くの志士を投獄・処刑しており、その数は100人以上にものぼりました。
また、一橋派の重鎮は謹慎処分に処せられました。
このような人たちを入れると1000人を超えるほどの人々が巻き込まれたのです。

井伊大老が、勝手にアメリカと通商条約を結び、吉田松陰をはじめ尊王攘夷派を弾圧し、反対派の徳川斉昭に謹慎を命じたことなど、全てにおいて失敗の連続だったような気がします。
攘夷派がこのまま力を持っていたら、国内は荒れ放題となり、今の日本はなかったのでは?攘夷派弾圧は、日本がどうしても通らなければならない道だったのかもと思ってしまいます。
だって、フランス革命やイギリス革命など、どの国もテロなどの活動を通して発展しているんですもんね。
先ほどもお話ししましたが、江戸城の桜田門外で、水戸と薩摩の浪士など18人が、彦根藩の行列に襲い掛かり井伊大老を暗殺しました。
でもなんだか井伊直弼を責める気にならなくなったのは私だけでしょうか?

次のページでは『安政の大獄という弾圧は、日本の宿命だったのではないでしょうか?』を掲載!
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