江戸幕府の基礎を作った?「生まれながらの将軍」徳川家光とは?

江戸幕府の3代目将軍の徳川家光とはどんな人で、どのような逸話があり、どんな政策を行ったのでしょうか?また、この人は初めての「生まれながらの将軍」で、江戸幕府の基本体制を作った人とされていますが、果たして有能な人だったのでしょうか?さらには弟忠長との将軍後継者争いや紫衣事件、日光東照宮造営、島原の乱の制圧と鎖国の完成など、家光の時期にたくさんの事件が起こっていますが、これらのことについて細かく説明していきたいと思います。さて、まずは家光が幼少の頃から見ていきましょう。

幼少の頃の竹千代(家光)は?

両親にはかわいがってもらえなかった竹千代

両親にはかわいがってもらえなかった竹千代

image by PIXTA / 13631015

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍で、在職は1623年から1651年。
2代将軍秀忠の次男(嫡男)で、母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江(ごう、淀君の妹)で乳母は春日局(福)。

15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜と3人のみで、さらに家光のみが将軍の御内室(御台所、正室)が生んだ将軍です。

慶長9年(1604年)7月17日、江戸城西の丸に生まれ、父・秀忠には長男がいましたが早世し家光は世子として扱われ、祖父の家康と同じ幼名である「竹千代」を与えられました。
誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三(としみつ)の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となります。

慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所に。
幼少時の家光は病弱で吃音(声が「どもる」)があり、美麗な容姿とも言えなかったと言われています。
慶長11年(1606年)に弟の国松(のちの忠長)が誕生。
家光と忠長の間で世継ぎ争いがあったとも言われ、この忠長についても後で紹介します。
『武野燭談』によれば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代が廃嫡される危機を感じた福は伊勢参りに行くと言って江戸を発ち、駿府の家康に実情を訴えました。

弟をかわいがる両親に家康はどう対処した?

家康はお福に対し、「女の了見で何を申す。
将軍家のお心をいいかげんに推し量ってはならぬ。
黙れ、黙れ」とお福を追い返しましたが、すぐにお供も少なくふらりと江戸に出かけて「急に孫の顔を見とうなってきた」と言い、秀忠は家康の宿所の西の丸に竹千代と国松を連れてきました。

すると、家康は竹千代には「竹千代や、大きくなったのう、ここへここへ」と自分の座っている上段の座に呼び寄せて座らせ、いとも丁重にもてなしましたが、国松が兄に続いて上段の間に座ろうとすると、「国は下にいよ」と下段に座らせ、また菓子を与えるにも竹千代に先に与えて嫡庶の分を立てて見せました。
これで秀忠夫妻と家臣にも家康の考えていることがわかり、竹千代を大事にするようになったそうです。

家康がこんなことをしたのは、竹千代の方が器量が優れているからではなく、徳川家のこの後のために長子相続のルールを確定しておきたかったのだと言われています。
竹千代がかわいいとかではなく、あくまで政治的な意図だったのですね。

またこれにより家光はお福こと春日局を生涯大事にし、局の子の稲葉正勝は老中となり8万5千石、その子正通(まさみち)の代には14万石となっています。
堀田正盛は母が稲葉正成が最初の妻との間に儲けた女子で、正成の2度目の妻が春日局であり直接の血縁はありませんが、家光は正盛も取り立てて老中にし、15万石の大身にしています。
家光が局をあまりに大事にするので、この時代の書物には「家光は実は局の子」と書いたものさえあるそうです。

家光の弟・徳川忠長とは?







甘やかされた忠長

甘やかされた忠長

image by PIXTA / 13141730

ここで敢えて家光の弟の忠長について見ていきたいと思います。
両親に可愛がられていた国松はこの後どのように成長するのでしょうか?忠長は秀忠の三男として生まれ、秀忠や母の江は、病弱で吃音(どもり)があった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗で才気煥発な国松を寵愛しましたが、これは春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着。
しかし、秀忠より松平姓(庶子扱される)を与えられ、松平を称します。
後継ぎが家光に決まっても、父から贔屓(ひいき)にされていたのかもしれませんね。

元和2年もしくは4年(1616年/1618年、ハッキリとは分かっていません)の9月に甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主に。
信濃の小諸藩も加えられ、国末は元服前かつ幼少だったので、実際に入部することはなく、家臣団や代官衆により藩は運営。

しかし、元和4年(1618年)10月9日に国松は自ら撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠の膳として出し最初は喜ばせたものの、西之御丸の堀で撃ち取った鴨だと秀忠が知らされると、「江戸城は父・家康が修築し、将来竹千代に渡さねばならない所。
国松の身で兄の竹千代の住む西の丸に鉄砲を撃ち込む事は、天道に背き、父・家康への敬意も無いことで、たとえ悪意が無くても、将軍となる竹千代への反逆となる行為だ」と、逆に秀忠の怒りを買ってしまい、秀忠は箸を投げ捨て、退出してしまうほど。
忠長は甘やかされて育てられた感があるのですが、気を使えない人だったのでしょうか?しかし逆に言えば、秀忠も少し過敏なまでに将軍の権威を大事に思っていたのですね。

忠長はなぜ自刃することになった?

元和6年(1620年)9月に忠長は元服し、金地院崇伝の選定により諱は「忠長」に。
元和9年(1623年)7月、兄家光の将軍宣下と同時に権中納言に任官。
寛永元年(1624年)7月、駿河国と掛川藩領である遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を知行しました(この際に小諸藩領は領地から外されています)。

しかし寛永8年(1631年)5月に、家臣を手討ちにしたという不行跡を行い、素行が荒々しいということを理由に甲府への蟄居(謹慎させること、事実上武士としての生命を絶たれるに等しいこと)を命じられます。
その際、秀忠に許しを乞いますが許されず、寛永9年(1632年)の秀忠の危篤の際に江戸入りを乞いましたがこれも許されませんでした。
秀忠は妻のお江の機嫌を取るために忠長をかわいがっていただけで、妻がなくなるとそういう気分ではなくなった様です。

秀忠死後、甲府に秀忠の供養のための寺院建立や、加藤忠広が改易された際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞(ひっそく、門を閉ざし、昼間の出入りを許さないこと)の処分に。
寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において自刃しました。
享年28。

忠長の自刃は家光が忠長を嫌っていたからではなく、土井利勝など幕閣の判断によるもので、理由としては加藤忠広の改易に関与した、大坂城と畿内55万石の所領を求めたなど説がありますが、家臣を殺すなど側近が近づかなくなるほどの忠長の狂気が原因だとされています。

ふと思い出したのですが、豊臣秀吉の甥の秀次もこんな感じで自刃に追い込まれたんでしたね(大河ドラマ「真田丸」では良い人になっていましたが、この人も人をやたらと殺して「殺生関白」と言われていました)

家光はどんな性格だった?

次のページでは『「生まれながらの将軍」とは?』を掲載!
次のページを読む >>