江戸幕府の基礎を作った?「生まれながらの将軍」徳川家光とは?

家光はなぜ日光東照宮を造営した?

家光はなぜ日光東照宮を造営した?

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家光の時に起こったこととして、忠長との確執、参勤交代や諸制度の確立、日光東照宮の造営、紫衣事件、島原の乱と鎖国の確立などがあり、順に紹介していきます。

家光にとって、家康はとてもありがたい存在で、家康がいなければ将軍になれなかったのは前述の通り。
そのため家光は祖父の廟所(びょうしょ、先祖や貴人の霊をまつってあるところ)を壮麗に営みたいと考えていましたが、秀忠がいる間にはできませんでした。
というのも、秀忠が堅実好みの人なだけでなく、一度は自分を廃嫡しようとまでした人なので「これが父に対する当て付けの様に考えられてしまうのではないか?」という心配があったと言われています。
秀忠も父・家康にコンプレックスがあったと思われていますので。

秀忠が寛永9年正月24日に死に、翌年に忠長を自殺させると、その翌年の11年には工事設計にかかり11月から着手、13年には完成。
壮麗を極めたのは現在見る通りです。

この造営は13年の長年月を費やしたとか、諸大名の財力を削ぐためにお金を出させたり、建造物を寄進させたりして、幕府自身はお金を使わなかったという説が支配的でしたが、近年の研究では工事日数は1年半、費用は幕府が全て出し、金56万8千両、銀100貫目、米5千石とのこと。

私も東照宮は好きですが、建設に13年もかかるほど巨大な建物ではない気はしますね。
東照宮に諸大名から献納している鳥居や、石灯籠、五重塔に有名な杉並木の杉などは、すべて後年の寄進だといいます。
「誰からの寄進も受けない。
私が一人でやる」という家光の意志が感じられますね。

ただこれは、ありがたくてならない存在と思っている孫が、祖父のために立派な廟所を営んだというだけのことで「家光がすごいというわけではない」という話にもなるとのこと。
たしかに、家光本人がお金を稼いで東照宮を建てたわけではないので(織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城などとは違って)、家光は「生まれながらの将軍」な分、生まれる前からある幕府の力を利用して東照宮を建て、参勤交代などを制定して幕府の権力を示しましたが、それは家光でなくともできたことなのかもしれません。

しかし、東照宮が今日立派な文化財として存在し、世界の人々を驚嘆させているのは事実。
余談ですが、私も以前に訪れたのは10年ほど前なのですが、また行きたくなってきました。

紫衣事件とは?

紫衣事件で幕府は朝廷にどう対応した?

紫衣事件で幕府は朝廷にどう対応した?

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「紫衣」(しえ)とは高官が身に付けるべき高貴な色とされ、原則として庶民や低い位の官吏は着用できませんでしたが、特別に許されることがあり、名誉とされるものでした。

元和元年7月17日に家康が出した公家法度(くげはっと)の中に「諸寺の僧に対する紫衣の勅許は幕府に相談あってなさること」という条目があり「上人号の授与なども慎重であるべし」との条目があります。

しかし、この紫衣勅許は朝廷の一つの収入源であったので、公家法度発布後も、朝廷だけの判断で勅許。
つまり神主や刀鍛冶や浄瑠璃語りに領地を与えるのと同じ様にしていたのです。

ところが、寛永4年(1627年)に幕府はこれを問題として取り上げ、当時の後水尾天皇がこれまで大徳寺、妙心寺などの僧数十人に与えていた紫衣着用の勅許・上人号などを「無効である」として取り上げました。

僧らの間にも抗論が起こり、朝廷も「公家法度に背いたのは元よりよくないが、すでに綸旨の出ていることであるから、これまでの許可した分は大目に見てくれないか。
以後は大いに慎むので」と幕府に申し入れましたが幕府は聞き入れませんでした。







紫衣事件はどのような結果に終わった?

最も強硬に抗論した大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうほう、吉川英治の「宮本武蔵」に出てくる僧ですね。
実際には二人は会ったことはないそうですが)、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、江月宗玩(こうげつそうがん)の3人は奥羽各地へ流罪となり、天皇は激怒。

「これで十余年の数十通の綸旨が無になってしまった。
天皇の尊厳がどこにあるか。
まろは退位する」と言い、いろいろと面倒なことが重なり、幕府は春日局を上洛させることに。
後水尾天皇の中宮(天皇の妻、東福門院)は家光の妹和子で、局から中宮を通じて天皇の心をなだめようという考え。
局は京の清水寺参詣という名目で上京しました。

朝廷では、局は幕府の大奥でこそ権勢第一の女ではあるものの、無位無冠のもの。
そんな者が参内して天皇のお顔を拝した先例はないと、難しい事になりましたが、局がかたく参内を願ってやまないので、色々と詮議があり、ついに武家伝奏(ぶけてんそう、武家の奏上を朝廷に取り次ぐ公家の役職)の三条西実枝(さんじょうにしさねえだ)の妹分ということにして、緋の袴を許され参内、天顔を拝し「春日局」の称号を下賜されました。
春日局と呼ばれる様になったのはこの頃からです。

しかし、後水尾天皇は局の強引さにやむなく会いはしたものの、怒りは一層かき立てられ退位し、皇女の一ノ宮が即位。
これが女帝・明正天皇です。

紫衣事件は幕府側に全く利益はなく、後水尾天皇の言う通りに今後のことを約束して看過すれば、幕府の威も天皇の面目も立ったのですが、幕府が権威を立てるのに急だったため、この様な結果になりました。

鎖国と島原の乱

幕府はどれほど厳しく外国人を退去させた?

幕府はどれほど厳しく外国人を退去させた?

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大坂の陣の後、徳川政権の基礎が固まるとともに、幕府は積極的にキリシタン禁圧と貿易統制の両方を推進。
元和2年(1616年)の貿易制限令で明国船を除くすべてのヨーロッパ船は平戸・長崎の2港に限り、諸大名に独自で貿易をすることを禁止し、幕府の統制と独占を強め、鎖国への傾斜を一段と進めました。

家光が将軍になったのは、このような鎖国体制が整ってきたころ。
キリシタンが邪宗門だということはこの頃には一般的な固定観念となり、南蛮貿易は実質的に力を失っていたので、鎖国政策は容易に強化することができました。
元和10年(1624年)フィリピン使節を追い返し、スペインと断交。
またイギリスは日本とオランダの挟み撃ちにあってついに退去し、鎖国体制は大きく前進。
さらに元和9年にはポルトガル人の日本永住を禁じ、寛永5年には来航したマカオ船をシャム(タイ)における日西衝突事件の報復として抑留するなど強硬策を取りました。

キリシタン弾圧もいよいよ激化し、家光が将軍になって10年の間にめぼしい主要信徒らはほとんど根絶。
その間寛永7年(1630年)の禁書令をはじめ、踏絵などたくさんの方策が採用され、全国の末端に至るまで取り締まりが厳しく励行されました。
随分厳しく、しかも急に外国人の退去とキリシタンの弾圧が行われたのですね。

次のページでは『第一次鎖国令はどのように完成されていった?』を掲載!
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