江戸幕府の基礎を作った?「生まれながらの将軍」徳川家光とは?

第一次鎖国令はどのように完成されていった?

大船破却令で大名は朱印船貿易から手を引かざるを得なくなりましたが、なお明国に投資したり、明国人名義で貿易をするものもいたので、幕府は一層厳しく貿易を取り締まる必要がありました。

その上1620年(元和6年)、平山常陳(じょうちん)が船長をつとめる朱印船が2名のキリスト教宣教師を乗せて、マニラを出航し日本に向かっていたところ、台湾近海でイギリスとオランダの船隊によってとらえられ、幕府のキリシタンへの不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金になった事件(平山常陳事件)以来、朱印船もキリシタン布教ルートになることから、制限を厳しくする必要がありました。

そこで幕府は寛永8年(1631年)に奉書船制度を施行。
従来の朱印状の他に老中奉書を長崎奉行に提示し、出港を許可されるようになり、それまでも少数の特権商人に限られていたのを、幕府の代官的または幕吏に準ずる御用商人に限って奉書を支給したのでした。

さらにその年、糸割符制(いとわっぷせい、特定の商人集団(糸割符仲間)に生糸の独占的輸入権と国内商人への独占的卸売権を与えました)が今まで除外されていた明国船にも適用。
すでに生糸貿易の主導権はポルトガル船からオランダ・明国船に移行していて、糸割符制をポルトガル船だけに適用しても意味をなさず、また貿易統制の徹底は当然オランダ・明国船にも及ぼされるべきでした。
ただオランダには従来の関係から強力に施行できませんでしたが、それもいわゆる、寛永10年(1633年)の第一次鎖国発令後、適用されました。

こうしていわゆる鎖国に至る諸令が相次いで発令され、あとはそれらを統一的に実施するのみ。
そこで幕府はそれら諸令をまとめて、寛永10年2月28日、十七条の覚書(おぼえがき)を長崎奉行に発行。
これによって邦人の海外来往が禁止され、朱印船の活躍とともに南洋各地にあった日本人町は衰滅の一途を辿ることになり、これがいわゆる第一次鎖国令です。

島原の乱はなぜ起きた?

島原の乱はなぜ起きた?

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島原の乱の舞台となった天草の地は、キリシタン大名天草種元に次いで小西行長の所領でしたが、関ヶ原の合戦ののち背教者寺沢広高(長崎奉行時代の文禄3年(1594年)、キリシタンに改宗しましたが、慶長2年(1597年)の二十六聖人処刑を契機に棄教したため背教者と呼ばれることに)の所領となり、島原の乱ののちもまたキリシタン大名有馬晴信の所領でしたが、岡本大八事件があったのち松倉重政の所領となり、領民は悪政に苦しめられていました。

これら背教者たちは幕府への忠誠を示すためにキリシタンに激しい迫害を加え、とくに重政は築城のほか江戸城修築には所領の倍の課設を進んで望み、またルソン(フィリピン)征討計画を進めるなどして、領民に重税を課しました。

寛永7年(1630年)、子の勝家が跡を継ぎましたが暗愚でますます政治を乱し、連年打ち続く不作にもかかわらず、年貢の先取りをなし、貢租を納めない者を捕らえて「蓑踊り」と称して蓑に火をかけ、あるいは婦女を税の抵当にとるなど、手段を選ばず農民を苦しめたので、領主を恨む声が次第に高まり、忍苦服従の信仰もしだいに内攻し、終末観的狂信に。
耐え忍ぶのがキリシタンの教義ということですが、その我慢も限界に達して爆発寸前で島原の乱の爆発の火種のようなものはこうして出来上がったのでしょうね。

島原の乱はどのように終結した?

寛永14年(1637年)、将軍家光が病み、死去の風説が立ち、また連日のように空が赤く焼けて人心が動揺したのを機に、この地方に帰農して機を伺っていた小西・有馬の遺臣らは、益田時貞(天草四郎)という少年を「天人の降ったもの」として擁立し、迫害と悪政に苦しむ島原・天草領の農民を誘い、一揆を起こし、有馬氏の旧城の原城に女子供をまじえ、3万数千人が立て篭もりました。

幕府は板倉重昌を上使とし九州諸藩に命じてこれを討たせましたが、幕府軍に統制がなく、一揆はますます勢いを得て、重昌は戦死。

ここで幕府は一揆勢があなどれないと知り、老中松平信綱を上使とし、オランダ船の助けを借りて海陸から原城を砲撃し、12万の大軍をもって包囲、食糧攻めを行い、5ヶ月をかけてようやく落城させました。

この乱は本質的には領主の悪政に対する農民一揆ですが、農民にキリシタンが多く、指導者がまたキリシタン大名の遺臣たちだったので、キリシタン信仰による民心の統一・団結をはかり決起したため、宗教戦争の様相を呈しています。

農民の不満、かつての主家が取り潰されたことへの不満、そしてキリシタン弾圧への不満という三重の不満が重なって爆発した乱だったのですね。







幕府は島原の乱をどう利用した?

この乱は幕府に大きな衝撃を与えましたが、それはまた幕府の基本的政策の遂行に絶好の口実を与えることにも。
オランダ船デ・カイプ号を回航させて砲撃した上使に対して、江戸城中から「万一また急に攻めることがあれば、日本国内に溢れるほどの武士がいるのに、オランダ人の助けを乞うとはどういうことか。
理解できない」という矢文が発せられています(匿名での投書でしょうか?忠臣蔵の赤穂浪士事件の時など、江戸時代にはこういう政治を皮肉る投書や落書きなどがよくあった様ですが)。

しかし幕府は自分のことは棚に上げて、日本にいる外国人が諸悪の根源なわけでもなく、もちろん外国とのつながりも何もないこの農民一揆を「キリシタンによる国際的な陰謀」とし、すでに形成されていた侵略的邪宗門観に訴えてその証拠とし、鎖国発令を正当化したのでした。

要するに自分に都合の良い情報を流して、世間一般の考えを都合の良い方に誘導していく情報操作だったのですね。
そのため、一般には島原の乱の結果、鎖国令が敷かれたように考えられるようになったのです。

しかし、この乱によりいわば鎖国の大義名分が実際的に証せられたことになり、当局者も農民の半年に渡る頑強な抵抗の影にある恐るべきキリシタンの力を経験し、邪宗門観を強めたわけであり、いわゆる鎖国・禁教政策はますます厳しくされることになりました。

その後の家光

その後の家光

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寛永18(1641年)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させ、家光の代までに取られた江戸幕府のこれらの一連の強権政策は「武断政治」と言われています。

寛永11年(1634年)、家光は上洛し、後水尾上皇が院政を行うことを認め、紫衣事件から冷え込んでいた朝幕関係を再建し、国内政治の安定を図りました。
天皇でなくともいろいろなことに力が持てることを認めて、紫衣事件での幕府に対する恨みを和らげようとしたのですね。

ところが寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生。
諸大名と百姓は大きく打撃を受け、さらに正保元年(1644年)には中国大陸で明が滅亡し、満州族である清が進出するなど、内外に深刻な問題が出て、家光は体制を立て直す必要を迫られました。
正保元年(1644年)、全国の大名に郷帳や国絵図(正保国絵図)、城絵図(正保城絵図)の作成を命じ、農民統制のために田畑永代売買禁止令を発布。

なお、家光は江戸の繁栄を願い、江戸城を取り取り囲む形で5色の不動尊を配置。
風水の「陰陽五行説」(木・火・土・金・水)に由来するという説もあり、「目白」や「目黒」などは今でも山手線の駅名として残っていますね。

慶安3年(1650年)に病気になり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去。
享年48。
家光の死に際し、堀田正盛らが殉死。
遺骸は家光の遺言で東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺(りんのうじ)に葬られました。
尊敬する祖父の廟所である東照宮のすぐ近くですね。

献上品の茶碗を見ていた時、震えが突然止まらなくなり、そのまま倒れて意識が戻ることなく、翌日にそのまま亡くなったそうです。
死の直前からすでに歩行障害もあったと言われ、死因は脳卒中だったとも。

しかし、残念ながらここまで見てくる内に、家光が自分の力で何かを定めたという印象はなく、土井利勝など重臣の助けがあったからこそ、江戸幕府の基本体制や鎖国を完成させられたということになるでしょうか。
家光が優秀だったという証拠は残念ながら出てきませんでした。
しかし、この後の将軍も将軍自身の力だけでなく、家臣に助けられて力を発揮したとも言えますので、家光とその家臣団が力を合わせて幕府の元からあった力を利用して、江戸幕府の基礎を作ったといってもいいのではないかと私は思います。

家光は優秀な人ではなかったかもしれないけれど、この時に江戸幕府の基礎ができた

このように、家光は男色や、家臣を斬り捨てようしたり、歳を取っても無茶をしたりするなど、優秀とは思えない様な性格でした。
しかし、土井利勝など優秀な家臣達や乳母の春日局などに助けられ、弟との将軍後継者争いに勝ち、参勤交代、老中の職制などを定め、紫衣事件など朝廷といさかいを起こすも、尊敬する祖父のために日光東照宮を幕府の力で建て、島原の乱を鎮めて鎖国を完成させました。
「生まれながらの将軍」として幕威を高め、家光の時にたくさんの江戸幕府の基礎ができたのは事実ですね。
それではここまで読んでくれてありがとうございます!
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