俵やタルで陣地を作った?指揮官が逃げまくった「鳥羽伏見の戦い」とは?

徳川幕府の命運を決したと言われる戊辰戦争の始まり、鳥羽伏見の戦いはどのような経緯で起こり、戦場となった鳥羽・伏見とはどんな場所で、どんな状況で開戦したのでしょうか?また歴史的にどんな意味合いを持った戦いで、またどのような段階を踏んで戦いは進んでいき、どんな武器が使われ、どんな陣地を構築し、どのように戦場が移動して、そして、将軍徳川慶喜はどうなるのか?ということについて見ていきたいと思います。激しい戦いの上に驚きの結末が待っていますので、じっくり読んでみてくださいね。

鳥羽伏見の戦いはなぜ起こった?

日本の歴史の上でどんな位置付けを持っている?

日本の歴史の上でどんな位置付けを持っている?

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鳥羽伏見の戦いは傾きかけていた徳川家の命運を決した一戦で、慶応4年(1868年)の年頭の1月3日から6日までの4日間、京都の南の鳥羽と伏見で、薩摩藩を中心とする新政府軍と、徳川慶喜を中心とする旧幕府軍が激戦を交え、両軍合わせて約2万人の兵士が激突した戦い。
砲煙が立ちこめて昼間から空が暗くなるほどだったそうで、戦死者は新政府軍から約100人、旧幕軍から約290人だったそうです。

戦国時代の戦いなどとくらべると少ない気もしますが、兵器や戦術が進歩したため少なくなったりしたのでしょうか?ちなみに同じ戊辰戦争の北越戦争での死者は400人、関ヶ原の戦いの戦いは諸説ありますが4000人の説から32600人という説まで。
ただ戦国時代に両軍通じての死者を数えるのは難しかったんじゃないかと思いますが。

脱線しました。
話を戻しましょう。
この敗北で徳川家復権の望みは絶え、連日の戦勝に勢いを得た新政府軍は江戸に退去した慶喜の追討を命じて征討軍を東下。
慶喜の恭順で江戸は無血開城しますが抵抗する佐幕派諸藩との間に内戦が始まり、明治2年(1869年)5月に箱館五稜郭が降伏するまで約1年5ヶ月に渡って、関東・奥羽・蝦夷地(えぞち、北海道南部)を戦地にして、「戊辰戦争」が繰り広げられます。

鳥羽伏見の戦いは幕末から近代日本が生まれた維新内乱の始まりで、刀剣よりも銃砲が主役になった幕末の戦争。
私もこの戦いからハッキリと時代が変わり、日本がが特に軍事の面で近代化して(この戦いから戦闘服が鎧じゃなくて洋装になったりしてますよね)、明治政府、もしくは日清戦争や日露戦争などに繋がっていく感覚があります。

大政奉還から始まる武力倒幕

この幕末の最終局面は、慶応3年(1867年)1月14日、徳川慶喜が「大政奉還」を建白し、幕府創設から260年余り保たせてきた政権を思い切りよく朝廷に返上したことから始まります。

慶喜にとって大政奉還は「将軍職を差し出す代わりに徳川家の実権を残しておこう」という捨て身の技。
しかし、長州征伐での勝利で幕府の力のほどが知れて、薩摩・長州を中心とした反幕府勢力はいよいよ攻勢に転じます。
武力倒幕の方針を固め、岩倉具視(いわくらともみ)は薩摩の大久保一蔵(利通)、長州の広沢真臣(さねおみ)などと「倒幕の密勅」(偽物ではあったそうですが)を下しますが、慶喜の大政奉還は偶然にもそれと同日で絶好のタイミング。
朝廷は意外にもそれを簡単に受理し、機先を制された岩倉は慌てて密勅を揉み消しました。

慶喜の背中を押したのは、土佐藩の山内容堂に渡された大政奉還の建白書。
これは元々坂本龍馬の「船中八策」に発するアイデアだったということはよく知られていますが、龍馬からこの構想を聞かされた後藤象二郎(しょうじろう)が長岡謙吉(けんきち)に成文化させて容堂に進言したもの。
(また余談ですが、龍馬が生きていれば戊辰戦争などの武力倒幕は起こらなかったと言われていますが、本当なのでしょうか?)慶喜は「徳川家抜きでは日本の政治は動くまい」と思っていたそうです。

殺伐とする幕府側

殺伐とする幕府側

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ところが事態は慶喜と土佐藩の思惑通りには運ばず、諸侯会議に11月中に上京(この時代は京都に上るのが「上京」)してきたのは全国260藩のうち、わずか16藩。
もちろん大政奉還という奇策で慶喜追討に水を差された倒幕派の薩長側もこれを黙視するつもりはなく、戦略を練り直しています。

会津・桑名など佐幕派諸藩は大政奉還を行ったことに憤激し「薩摩藩邸を攻撃しよう」などと言い出しこれをなだめるのは一苦労で、10月17日には江戸城で大評定があり、小栗忠順(ただまさ、上野介とも)など革新派官僚が政権返上に強く反対。
老中格兼陸軍総裁・松平乗謨(のりかた)などが軍艦順動に乗って西上し、28日には若年寄兼陸軍奉行・石川総管(ふさかね)が歩・騎・砲の三兵を引き連れ、軍艦富士山に搭乗し駆けつけ、全員が大政奉還に反対。
徒党を組んで無許可でで東上する旗本もいて、当時流行していた「ええじゃないか」踊りの輪を縫って京の市中を巡回していた新選組も殺気立ち、方々で薩長土の藩士とことを構えていました。

王政復古の大号令で慶喜はどうなった?

倒幕派は最後の仕上げを急ぎ、勤王藩と見込んだ長州・土佐・芸州・尾張4藩の重役に働きかけ、倒幕計画に誘い込み、西郷吉之助と大久保は土佐の後藤象二郎を抱きこみます。

その後慶喜と京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)と京都所司代の桑名藩主松平定敬(さだあき)は長州処分のための朝議を、いわばボイコット。
このため長州など徳川の敵は復権、さらに岩倉具視が朝議に参加できる身に。
この翌日の12月9日、西郷が薩摩藩兵を配備し芸州と土佐の兵とともに宮門を全て閉鎖し御所を制圧。
そこで岩倉具視が参内し明治天皇に王政復古その他文案を入れた一函を捧げ、天皇は王政復古の大号令を発しました。

それに続いた組織変革は摂政など旧官職を撤廃し、臨時に総裁・議定・参与の「三職」を置くもので、議定に尾張・越前・安芸・土佐・薩摩の各藩主を置くなど倒幕派一色の人事で、そしてそこに徳川慶喜の名前はありませんでした。

そしてその日の夜に生まれたばかりの三職による、徳川家処分のための小御所会議が開かれ、山内容堂と岩倉具視と有名な論戦があり、小御所会議は慶喜に内大臣の官位を返上し、土地人民を朝廷に返納することを命ずることに決定。
これにより幕府軍のいる二条城の将兵の不満は爆発寸前に膨張。
そして慶喜率いる幕軍と会津・桑名の藩兵は淀・枚方を経て大坂に下っていきました。

江戸での小競り合いが開戦を誘発

江戸での小競り合いが開戦を誘発

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大久保一蔵は慶喜の二条城退去を「倒幕派と一旦離れて挽回するもの」と見て警戒。
その後慶喜はイギリスなど6国代表と謁見。
外交権までは手放してはいず、しかも岩倉はうっかり旧幕府から国庫を引き継ぐのを忘れていて、職員の弁当代を払えないほどお金に困り、新政府の出納係の戸田忠至(ただゆき)が慶喜に泣きついて金5万両を引き出したという話もあるほどで、維新政府が引き継いだのは権力だけだったといいます。
三職会議は土佐・尾張・越前3藩の公議政体派が巻き返し、大坂では西上してくる兵力に力を得て、諸藩に高姿勢の動員令を発するほど。
これは岩倉や越前藩主松平春嶽(しゅんがく)が揉み消しますが、これで「慶喜が自主的に辞官納地をするなら、非武装上京であれば認める」と倒幕派は軟化。
しかし倒幕派はこれでは気が済まず、なんとしても戦争に持ち込み、徳川家の息の根を止めなければ、真の意味での王政復古は実現しないと考えました。

以前から西郷は益満休之助(ますみつきゅうのすけ)と伊牟田尚平(いむたしょうへい)を江戸に潜入させ、500人の浪士隊を組織させ、いわば保険にし、挑発活動をさせ、彼らにより12月22日に庄内藩の屯所に銃弾が撃ち込まれ、23日に江戸城二の丸が炎上。
このため25日に幕府から薩摩藩邸焼き討ちの命令が下され、庄内藩など千余人の兵士が包囲。
大砲が撃ち込まれ銃弾が飛び交い、壮絶な市街戦に。
江戸ではすでに両軍が戦闘状態に入っていたのですね。
西郷は鳥羽伏見の戦いが始まる直前になってこの策の大成功が飲み込めたようで、これが鳥羽伏見の戦いを誘発。
大阪城内の幕府軍にもこのニュースが伝わり、一気に好戦気分となりました。
将軍のも新政府軍の主要人物もいない所で開戦された様なもので、少し意外ですね。

宣戦布告時の旧幕府軍はどのような状況にあった?

兵庫港には旧幕府軍の開陽などの軍艦5隻が碇泊(ていはく)していましたが、開陽艦長の榎本武揚(えのもとたけあき)に江戸で薩摩藩邸を焼き討ちした報告が伝わり、12月30日に薩摩藩の軍艦の春日と平運が入港。
翌慶応4年の1月2日に開陽が平運に砲撃を加え、薩摩は抗議しますが榎本は「尊藩は旧幕府軍の敵」と通告し、戦闘状態にあることを正式に宣言。
江戸湾を脱出してきてボロボロになった翔鳳(しょうほう)が兵庫港にたどり着き、3隻は連れ立って脱出し砲撃を受けながら遁走。
海上ではもう戦争が始まっていたのですね。

大坂城では慶喜が風邪を引き板倉勝静(かつきよ)が主戦派に押されて率兵状況を勧めましたが、慶喜は「譜代・旗本の中に西郷・大久保の様な頭の良い人物はいるか?」といい、板倉が「いません」と言うと、慶喜は「じゃあ戦っても勝てるわけがない」と言い、板倉は不服そうに引き下がりましたが、最後に「将士らの激昂ぶりはすさまじく抑え切れません。
もし彼らの意向を拒み続ければ上様を刺して脱走しかねない勢いですよ」と言い、慶喜がため息をつく場面も。
上の人間は戦いを避けたくても、兵士の方が爆発しかねない勢いで、もう戦いは避けられない状況だったのですね。
余談ですが、もう少し後年の西南戦争も同じように西郷隆盛が血気盛んな下の者に担ぎ出された感じでした。
そして慶喜は慶応4年元日に「討薩の表」を発し、この中に「君側の肝を除く」という表現をし、薩摩藩に宣戦布告します。

1月3日、鳥羽・小枝橋の戦い

鳥羽と伏見はどんなところ?

鳥羽と伏見はどんなところ?

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鳥羽は鴨川と桂川が合流する地点に開けた土地で、平安時代に京都の外港として鳥羽津が開かれ、鳥羽の作道(つくりみち)が朱雀大路とつながって羅生門まで直線道路で行ける水陸交通の要衝。
白川法皇が壮麗な離宮を造営してから風光明媚な副都心として発展し、院政末期の騒乱時には拠点として争奪された土地でもありました。

伏見の由来は「伏水」だとする説があり文字通りの伏流水で、注ぎ込む川水が無数の細流に分かれ、湧き水・溜まり水が至る所にあったそうで、この辺り一面は草の生い茂る湿地帯。
豊臣秀吉が伏見桃山城と太閤堤を築き大工事を行い、この里の景色を一変させ、秀吉は宇治堤と淀堤を築き伏見を整備された河港とし、大坂への舟運ルートを作りました。

徳川の世になると伏見城が廃棄され、城下町は一気に寂れ、城跡は桃が植えられて桃山に変わり、江戸時代には商業交易と宿駅の街として繁盛。
現在はどちらも京都市の一部になり住宅地となっていますが、幕末には伏見は水陸交通の交差点として賑わう河港、鳥羽は旅人相手に茶店などを副業とする街道沿いの平和な村落。
田畑の間に伏見街道と竹田街道が淀を起点に京都に通じていました。

幕末にピリオドを打った戦乱は洛南のこの田園風景を舞台に選び、陸の街道を歩兵隊が進軍し、重い大砲や弾薬、兵糧が水路で運ばれ、軍勢の流れは吸い寄せられる様に運命の鳥羽・伏見へ収束していったのです。

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きで、城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べていて、過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。 よろしければブログも読んでみてください。http://tatsuyakawakami.hatenablog.com

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