俵やタルで陣地を作った?指揮官が逃げまくった「鳥羽伏見の戦い」とは?

徳川幕府の命運を決したと言われる戊辰戦争の始まり、鳥羽伏見の戦いはどのような経緯で起こり、戦場となった鳥羽・伏見とはどんな場所で、どんな状況で開戦したのでしょうか?また歴史的にどんな意味合いを持った戦いで、またどのような段階を踏んで戦いは進んでいき、どんな武器が使われ、どんな陣地を構築し、どのように戦場が移動して、そして、将軍徳川慶喜はどうなるのか?ということについて見ていきたいと思います。激しい戦いの上に驚きの結末が待っていますので、じっくり読んでみてくださいね。
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鳥羽伏見の戦いはなぜ起こった?

日本の歴史の上でどんな位置付けを持っている?

日本の歴史の上でどんな位置付けを持っている?

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鳥羽伏見の戦いは傾きかけていた徳川家の命運を決した一戦で、慶応4年(1868年)の年頭の1月3日から6日までの4日間、京都の南の鳥羽と伏見で、薩摩藩を中心とする新政府軍と、徳川慶喜を中心とする旧幕府軍が激戦を交え、両軍合わせて約2万人の兵士が激突した戦い。
砲煙が立ちこめて昼間から空が暗くなるほどだったそうで、戦死者は新政府軍から約100人、旧幕軍から約290人だったそうです。

戦国時代の戦いなどとくらべると少ない気もしますが、兵器や戦術が進歩したため少なくなったりしたのでしょうか?ちなみに同じ戊辰戦争の北越戦争での死者は400人、関ヶ原の戦いの戦いは諸説ありますが4000人の説から32600人という説まで。
ただ戦国時代に両軍通じての死者を数えるのは難しかったんじゃないかと思いますが。

脱線しました。
話を戻しましょう。
この敗北で徳川家復権の望みは絶え、連日の戦勝に勢いを得た新政府軍は江戸に退去した慶喜の追討を命じて征討軍を東下。
慶喜の恭順で江戸は無血開城しますが抵抗する佐幕派諸藩との間に内戦が始まり、明治2年(1869年)5月に箱館五稜郭が降伏するまで約1年5ヶ月に渡って、関東・奥羽・蝦夷地(えぞち、北海道南部)を戦地にして、「戊辰戦争」が繰り広げられます。

鳥羽伏見の戦いは幕末から近代日本が生まれた維新内乱の始まりで、刀剣よりも銃砲が主役になった幕末の戦争。
私もこの戦いからハッキリと時代が変わり、日本がが特に軍事の面で近代化して(この戦いから戦闘服が鎧じゃなくて洋装になったりしてますよね)、明治政府、もしくは日清戦争や日露戦争などに繋がっていく感覚があります。

大政奉還から始まる武力倒幕

この幕末の最終局面は、慶応3年(1867年)1月14日、徳川慶喜が「大政奉還」を建白し、幕府創設から260年余り保たせてきた政権を思い切りよく朝廷に返上したことから始まります。

慶喜にとって大政奉還は「将軍職を差し出す代わりに徳川家の実権を残しておこう」という捨て身の技。
しかし、長州征伐での勝利で幕府の力のほどが知れて、薩摩・長州を中心とした反幕府勢力はいよいよ攻勢に転じます。
武力倒幕の方針を固め、岩倉具視(いわくらともみ)は薩摩の大久保一蔵(利通)、長州の広沢真臣(さねおみ)などと「倒幕の密勅」(偽物ではあったそうですが)を下しますが、慶喜の大政奉還は偶然にもそれと同日で絶好のタイミング。
朝廷は意外にもそれを簡単に受理し、機先を制された岩倉は慌てて密勅を揉み消しました。

慶喜の背中を押したのは、土佐藩の山内容堂に渡された大政奉還の建白書。
これは元々坂本龍馬の「船中八策」に発するアイデアだったということはよく知られていますが、龍馬からこの構想を聞かされた後藤象二郎(しょうじろう)が長岡謙吉(けんきち)に成文化させて容堂に進言したもの。
(また余談ですが、龍馬が生きていれば戊辰戦争などの武力倒幕は起こらなかったと言われていますが、本当なのでしょうか?)慶喜は「徳川家抜きでは日本の政治は動くまい」と思っていたそうです。

殺伐とする幕府側

殺伐とする幕府側

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ところが事態は慶喜と土佐藩の思惑通りには運ばず、諸侯会議に11月中に上京(この時代は京都に上るのが「上京」)してきたのは全国260藩のうち、わずか16藩。
もちろん大政奉還という奇策で慶喜追討に水を差された倒幕派の薩長側もこれを黙視するつもりはなく、戦略を練り直しています。

会津・桑名など佐幕派諸藩は大政奉還を行ったことに憤激し「薩摩藩邸を攻撃しよう」などと言い出しこれをなだめるのは一苦労で、10月17日には江戸城で大評定があり、小栗忠順(ただまさ、上野介とも)など革新派官僚が政権返上に強く反対。
老中格兼陸軍総裁・松平乗謨(のりかた)などが軍艦順動に乗って西上し、28日には若年寄兼陸軍奉行・石川総管(ふさかね)が歩・騎・砲の三兵を引き連れ、軍艦富士山に搭乗し駆けつけ、全員が大政奉還に反対。
徒党を組んで無許可でで東上する旗本もいて、当時流行していた「ええじゃないか」踊りの輪を縫って京の市中を巡回していた新選組も殺気立ち、方々で薩長土の藩士とことを構えていました。

王政復古の大号令で慶喜はどうなった?

倒幕派は最後の仕上げを急ぎ、勤王藩と見込んだ長州・土佐・芸州・尾張4藩の重役に働きかけ、倒幕計画に誘い込み、西郷吉之助と大久保は土佐の後藤象二郎を抱きこみます。

その後慶喜と京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)と京都所司代の桑名藩主松平定敬(さだあき)は長州処分のための朝議を、いわばボイコット。
このため長州など徳川の敵は復権、さらに岩倉具視が朝議に参加できる身に。
この翌日の12月9日、西郷が薩摩藩兵を配備し芸州と土佐の兵とともに宮門を全て閉鎖し御所を制圧。
そこで岩倉具視が参内し明治天皇に王政復古その他文案を入れた一函を捧げ、天皇は王政復古の大号令を発しました。

それに続いた組織変革は摂政など旧官職を撤廃し、臨時に総裁・議定・参与の「三職」を置くもので、議定に尾張・越前・安芸・土佐・薩摩の各藩主を置くなど倒幕派一色の人事で、そしてそこに徳川慶喜の名前はありませんでした。

そしてその日の夜に生まれたばかりの三職による、徳川家処分のための小御所会議が開かれ、山内容堂と岩倉具視と有名な論戦があり、小御所会議は慶喜に内大臣の官位を返上し、土地人民を朝廷に返納することを命ずることに決定。
これにより幕府軍のいる二条城の将兵の不満は爆発寸前に膨張。
そして慶喜率いる幕軍と会津・桑名の藩兵は淀・枚方を経て大坂に下っていきました。

江戸での小競り合いが開戦を誘発

江戸での小競り合いが開戦を誘発

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大久保一蔵は慶喜の二条城退去を「倒幕派と一旦離れて挽回するもの」と見て警戒。
その後慶喜はイギリスなど6国代表と謁見。
外交権までは手放してはいず、しかも岩倉はうっかり旧幕府から国庫を引き継ぐのを忘れていて、職員の弁当代を払えないほどお金に困り、新政府の出納係の戸田忠至(ただゆき)が慶喜に泣きついて金5万両を引き出したという話もあるほどで、維新政府が引き継いだのは権力だけだったといいます。
三職会議は土佐・尾張・越前3藩の公議政体派が巻き返し、大坂では西上してくる兵力に力を得て、諸藩に高姿勢の動員令を発するほど。
これは岩倉や越前藩主松平春嶽(しゅんがく)が揉み消しますが、これで「慶喜が自主的に辞官納地をするなら、非武装上京であれば認める」と倒幕派は軟化。
しかし倒幕派はこれでは気が済まず、なんとしても戦争に持ち込み、徳川家の息の根を止めなければ、真の意味での王政復古は実現しないと考えました。

以前から西郷は益満休之助(ますみつきゅうのすけ)と伊牟田尚平(いむたしょうへい)を江戸に潜入させ、500人の浪士隊を組織させ、いわば保険にし、挑発活動をさせ、彼らにより12月22日に庄内藩の屯所に銃弾が撃ち込まれ、23日に江戸城二の丸が炎上。
このため25日に幕府から薩摩藩邸焼き討ちの命令が下され、庄内藩など千余人の兵士が包囲。
大砲が撃ち込まれ銃弾が飛び交い、壮絶な市街戦に。
江戸ではすでに両軍が戦闘状態に入っていたのですね。
西郷は鳥羽伏見の戦いが始まる直前になってこの策の大成功が飲み込めたようで、これが鳥羽伏見の戦いを誘発。
大阪城内の幕府軍にもこのニュースが伝わり、一気に好戦気分となりました。
将軍のも新政府軍の主要人物もいない所で開戦された様なもので、少し意外ですね。

宣戦布告時の旧幕府軍はどのような状況にあった?

兵庫港には旧幕府軍の開陽などの軍艦5隻が碇泊(ていはく)していましたが、開陽艦長の榎本武揚(えのもとたけあき)に江戸で薩摩藩邸を焼き討ちした報告が伝わり、12月30日に薩摩藩の軍艦の春日と平運が入港。
翌慶応4年の1月2日に開陽が平運に砲撃を加え、薩摩は抗議しますが榎本は「尊藩は旧幕府軍の敵」と通告し、戦闘状態にあることを正式に宣言。
江戸湾を脱出してきてボロボロになった翔鳳(しょうほう)が兵庫港にたどり着き、3隻は連れ立って脱出し砲撃を受けながら遁走。
海上ではもう戦争が始まっていたのですね。

大坂城では慶喜が風邪を引き板倉勝静(かつきよ)が主戦派に押されて率兵状況を勧めましたが、慶喜は「譜代・旗本の中に西郷・大久保の様な頭の良い人物はいるか?」といい、板倉が「いません」と言うと、慶喜は「じゃあ戦っても勝てるわけがない」と言い、板倉は不服そうに引き下がりましたが、最後に「将士らの激昂ぶりはすさまじく抑え切れません。
もし彼らの意向を拒み続ければ上様を刺して脱走しかねない勢いですよ」と言い、慶喜がため息をつく場面も。
上の人間は戦いを避けたくても、兵士の方が爆発しかねない勢いで、もう戦いは避けられない状況だったのですね。
余談ですが、もう少し後年の西南戦争も同じように西郷隆盛が血気盛んな下の者に担ぎ出された感じでした。
そして慶喜は慶応4年元日に「討薩の表」を発し、この中に「君側の肝を除く」という表現をし、薩摩藩に宣戦布告します。

1月3日、鳥羽・小枝橋の戦い

鳥羽と伏見はどんなところ?

鳥羽と伏見はどんなところ?

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鳥羽は鴨川と桂川が合流する地点に開けた土地で、平安時代に京都の外港として鳥羽津が開かれ、鳥羽の作道(つくりみち)が朱雀大路とつながって羅生門まで直線道路で行ける水陸交通の要衝。
白川法皇が壮麗な離宮を造営してから風光明媚な副都心として発展し、院政末期の騒乱時には拠点として争奪された土地でもありました。

伏見の由来は「伏水」だとする説があり文字通りの伏流水で、注ぎ込む川水が無数の細流に分かれ、湧き水・溜まり水が至る所にあったそうで、この辺り一面は草の生い茂る湿地帯。
豊臣秀吉が伏見桃山城と太閤堤を築き大工事を行い、この里の景色を一変させ、秀吉は宇治堤と淀堤を築き伏見を整備された河港とし、大坂への舟運ルートを作りました。

徳川の世になると伏見城が廃棄され、城下町は一気に寂れ、城跡は桃が植えられて桃山に変わり、江戸時代には商業交易と宿駅の街として繁盛。
現在はどちらも京都市の一部になり住宅地となっていますが、幕末には伏見は水陸交通の交差点として賑わう河港、鳥羽は旅人相手に茶店などを副業とする街道沿いの平和な村落。
田畑の間に伏見街道と竹田街道が淀を起点に京都に通じていました。

幕末にピリオドを打った戦乱は洛南のこの田園風景を舞台に選び、陸の街道を歩兵隊が進軍し、重い大砲や弾薬、兵糧が水路で運ばれ、軍勢の流れは吸い寄せられる様に運命の鳥羽・伏見へ収束していったのです。

旧幕軍・新政府軍はどんな兵力を持っていた?

旧幕軍は会津(新選組も含めて)・桑名・高松・大垣・伊予松山などの藩を含めて10000の兵を持ち、大阪城の後詰めの人数と合わせると15000ほど。
主力は歩兵隊ですが非常に弱体だったそうです。

これに対し新政府軍は初戦ではほぼ薩長のみが戦力ですが、薩摩の兵は上士と下士を身分的に差別する濃厚な封建的気風にも支えられ無類の強さを誇り、長州兵は王政復古でようやく「朝敵」でなくなり、入京が遅れ兵力はあまりありませんでしたが、有名な奇兵隊など、農民・町人など非武士身分の者で組織されているという特色があり、なおかつ長州戦争の実戦経験で鍛え抜かれた精鋭部隊。
土佐藩は全藩主の山内容堂が慶喜擁護派のため、「この戦は徳川家と薩摩藩の私戦」とし不介入を命じ、土佐兵には戦闘意欲はありませんでした。
ここで不安に浮き足立った朝廷は薩長土3藩に伏見の警備を命じます。
事実上、朝廷が新政府側に付いたということになるでしょうか。

名神高速道路の京都南ICの近くの小枝橋に「鳥羽伏見開戦地」と記された小さな石碑が立っていますが、ここで鳥羽伏見の戦いの火蓋が切られたのです。

どんな状況で戦いは始まった?

どんな状況で戦いは始まった?

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1月3日午前に新政府軍の山口仲吾と椎原小弥太の指揮する5番隊と旧幕軍の佐々木只三郎の見廻組が遭遇。
5番隊と6番隊はすぐに街道左右の田畑に散開し、大砲を路上に据えて待ち構え、近くの農家を交渉場所とし見廻組の肝煎(きもいり、隊長格のこと)と談判。

すると肝煎は「我々は慶喜公が朝廷に上京するために先行してお供をする者です」と言い、新政府軍は「京都に問い合わせるのでちょっと待ってください」と言ったので、「それならば分かり次第お知らせください」と引き下がりました。

見廻組は小枝橋を越え後退したため、薩摩の兵はこれに付け込んで徐々に前進し、その機会を逃さず「ここぞ絶好の地形」と迅速に展開して陣地を構えました。
少しズルく感じますが、戦場ではこういった駆け引きが出来る方が強いということになるでしょうか。

もちろん薩摩軍に京都に問い合わせる気などなく、時間を稼いで発砲のタイミングを見計らっているだけ。
真に受けて返事を待っている旧幕軍がお人好しにも思えますが、時間が経つと焦り出し、強引に突破しようとしました。
騎馬武者二人が押し通ろうとし、新政府軍の番兵に止められ、逃げる騎馬武者を鉄砲で打とうとした者がいて「早まるな」と止められます。

ここで旧幕軍はようやく止められているのが敵だと分かり体形を整えて、おびただしい人数で前進。
ここで大量の兵が進んでくるのを見た薩摩の兵は緊張し、猛烈な闘志を湧き上がらせたそうで、薩摩軍は「ここで手切れになるだろうから戦闘準備をしておけ」と言い含めます。

突然の開戦で旧幕軍はどうなった?

薩摩側はここで開戦するつもりでいたようで、見廻組が業を煮やして「もう日が暮れる。
押し通るぞ」と最後通牒を放つと、椎原らは「ご勝手にされよ。
(戦いの)お相手をしましょう」と言い返し、急転直下で開戦の決断が下されます。

山口と椎原は「手切れだ!手切れだ!」と叫んで知らせ、薩摩兵の銃砲が一斉に火を吹き、旧幕軍の先頭の歩兵たちは打ち倒され、薩摩軍の放った砲弾が旧幕軍の大砲を壊し、旧幕軍は京都に入るまでは戦闘せずに穏やかな行軍をするつもりだったそうで、まさか戦闘になるとは思わず、鉄砲に弾すら込めていなかったほど。
大目付の滝川具挙(ともあき)の馬が一目散に逃げるほどの大混乱に陥る銃弾の雨で

大混乱の旧幕軍と対照的に、薩摩軍の死傷者は0だったそうです。

大苦戦しているところを桑名藩の砲兵が後ろから進み出て、薩摩藩の一方的な展開を食い止め、旧幕軍は再三反撃を試みますが大砲隊は旧幕軍の立て篭もった民家に焼夷弾(しょういだん、家や敵の基地などを焼くための兵器)を放ち、燃える火に照らし出されて旧幕軍の兵が黒いシルエットとなり、くっきりと見え、格好の銃弾の的に。
結局7度の反撃の末に旧幕軍は下鳥羽まで退却しました。

1月3日、伏見奉行所の戦い

伏見奉行所の攻防戦の始まり

伏見奉行所の攻防戦の始まり

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伏見奉行所は港を出入りする船舶の取り締まりや往来する西国大名の監視する関係から京都・大坂両奉行に次ぐ要職ですが、伏見奉行が空席のまま大政奉還を迎え、奉行所の建物は手付かず。
陸軍奉行の竹中丹後守は1月2日の夕刻には、この伏見奉行所へ入ります。

1月3日の朝には薩摩軍は奉行所周辺に包囲の陣形を固め、9門の大砲が東と北に火線を敷き、小銃隊は奉行所の東と北に布陣。
両軍の前線はわずか109mの距離で睨み合っていました。

午後2時頃から薩摩兵が伏見街道の路上に竹矢来を張った急造の関門に会津藩兵と遊撃隊士が詰め寄り、先ほどの小枝橋と同じように「通せ」「通さない」の押し問答が。
もちろん薩摩兵はまともに取り次ぐ気はなく、時間を稼いでいるところ、鳥羽方面から砲声が響き、「開戦だ!」と朝からこの瞬間を待っていた新選組と遊撃隊が躍り出て、薩摩兵も9門の大砲が火を吹き、いきなり激戦に。

奉行所の北柵門から会津兵や新選組の刀槍隊が戦闘に立って突撃し、その後は両軍の猛烈な銃の打ち合い。
剣士たちは民家から持ってきた畳を銃弾の盾に使っていたそう。
薩摩兵の射撃が少しでも途絶えると、会津兵と新選組が白刃を閃かせて迫ってくるので薩摩兵も必死。
4段の構えで射撃を途切らせず、旧幕軍も突入できず夜に入っても激戦は続きました。

伏見奉行所の戦いはどう推移した?

御香宮(ごこうのみや)周辺では長州兵が交戦し、市街戦の経験もあったので場慣れし、畳で即席のバリケードを作って左右交互に射撃しながらジリジリ敵に接近。

乱戦の中、夜8時頃に慶喜討伐の詔勅が発され、薩摩兵はいっそう奮戦し、砲弾が旧幕軍の弾薬庫に命中して大爆発。
旧幕軍は麻痺状態に陥りますが、大事な北門は一歩も引かずに死守したため、薩長軍は高櫓から射撃したり、町家を放火して牽制したり、携臼砲(けいきゅうほう)で近距離から曲射し集中攻撃。
これにひるんだ旧幕軍は後退し、長州兵を先頭に一気に攻め込み、竹中丹後守は自分が踏みとどまって指揮しなければならない所を、部下が止めるのも聞かず淀に引き上げたため、旧幕軍は残らず奉行所から逃亡しました。
鳥羽も伏見も指揮官が逃げてしまったのですね。
この戦いすべてを象徴するようでもあります。

8時間に渡った猛攻と死守が終わり、野戦病院には死骸が山のように積み重ねられていたそう。
薩摩軍は病院で息のあるものを見つけ出して斬っていったそうです。
そこまでやる必要があるのでしょうか。
怖いですね。

新選組と京都御所はどんな状況だった?

新選組と京都御所はどんな状況だった?

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少し新選組についても触れさせてください。
新選組隊士は打って出ようとすれば銃弾の雨を浴びせられるので身動きが取れず、奉行所内に釘付けに。
そのため土方歳三は永倉新八に奉行所の塀を乗り越えて切り込む決死の作戦を命じます。
ところが薩摩兵は向かいの民家の障子を破り一斉射撃し、さらに民家に火を放って逃げたため、生き残った新選組隊士は塀を乗り越えて奉行所内に戻ります。
奉行所内に焼夷弾が打ち込まれ方々で火の手が上がり、手のつけようがなくなり、新選組は堀川の対岸に後退。
全隊がが舟で淀まで下りました。

一方、開戦の報が伝わった京都御所は険悪な雰囲気で、有栖川宮をはじめとする公卿、徳川慶勝や山内容堂などの大名がいて、公卿と大名の身分の差で部屋が違ったこともあってか、三職会議は大紛糾。
大名側が揃って辞職を願い出し、容堂が討幕派の公卿を罵ったため、その公卿がピストルを取り出し、容堂が動揺する騒ぎもあったそう。
容堂でなくても会議室のような狭い部屋でピストルを出されたら「それってどうよ〜?」って思いますよね。

しかし、薩摩軍有利というニュースが入ると見る間に雰囲気が変わり、公卿たちは露骨に大名たちに向かって笑顔を向けて接近したそうです。
ここまでみんな「薩摩が勝手に戦争を始めた」とあてつけがましく思っていたのですが、ここで反薩摩感情が緩んだと思い、薩摩藩主島津忠義が参内し、大久保一蔵はすかさず次の手を打ち、諸藩に慶喜追討を命じさせ、これで慶喜は公的に「朝敵」となりました。
大義名分が立ち、すべての藩と世論を味方につけた様なものですね。

1月4日、俵陣地・酒樽陣地の戦い

鳥羽・俵陣地とは?

鳥羽・俵陣地とは?

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旧幕軍の坂本柳佐という人が「京都の方に目を開けて立っていられないほどの風。
これが官軍を助けた」と悔しがるほど、1月4日は激しい北風が吹き、これが旧幕軍の不運。
風下で戦うと、当時の鉄砲は火薬を入れると白煙を上げ、目に入って狙いがつきにくくなり、また、自分の発射した弾は勢いが弱くなり、敵の打った弾は伸びてきて、つまり風下は不利なのです。

1月4日の戦闘はまだ霧の濃い午前6時頃、旧幕府軍が下鳥羽の陣地から赤池を越えて攻撃前進を開始。
大沢顕一郎歩兵第7連隊と窪田備前守の歩兵第12連隊が前に出ますが戦法は拙劣で、「狭い地域だから薩摩軍を包囲するように広く展開すればいいものを、ろくに偵察もせずに密集の二列連隊に展開し、敵の包囲網の真ん中に突っ込んでしまった」という資料も。
つまり非効率な正面突破をし続けたということです。

午前8時頃、霧が晴れるのを待って薩摩軍は攻撃に移り、先頭が下鳥羽の入り口に来ると村落に旧幕軍の防護線が張られているのを発見、正面と、左の乾田から攻撃を加え、右の桂川の河原から敵の左翼に回って迫ったため、旧幕軍の前線は後退し台場に篭り、公卿の菊亭家から持ち出した米俵を積んで胸壁(敵に向かう側に外堀を掘って前方へ土を肩の高さまで積み上げて作る防壁のこと)を築きました。

この「俵陣地」を作ったのは第一次長州戦争の時に結成された旧幕軍の土工兵。
当時の銃の使い方に合った胸壁の作り方で、さらに米俵を積んで堅固に防戦。
このため薩摩兵は3時間もの間寒さに耐えながら、俵陣地の前に釘付けにされました。

正午ごろ、薩摩兵が大砲を活用し均衡が破れます。
4門あった大砲は2門破損し残り2門を本道の5番隊、河原の6番隊に振り分けて俵陣地へ必死の砲撃。
すると、これが命中したらしく相手は沈黙。
そこへ伏見から回ってきた小銃1番隊・外城2番隊が側面攻撃を加え、この猛攻に旧幕府軍歩兵は俵陣地を放棄し逃亡。
ここで旧幕軍は歩兵奉行並みの佐久間近江守信久と窪田備前守鎮章(しげあき)が撃たれて死ぬという不覚。
前線で兵を叱咤(しった)していたため弾が当たって死んだということですが、これを連隊の指揮官かまするというのは、不用意で無警戒なことなのです。

鳥羽・酒樽陣地とは?

旧幕府軍の退却で前線はさらに南へ移動。
下鳥羽から南2kmの地点にある富ノ森で、旧幕軍の土工兵が今度は酒樽に土砂を詰め、畳・戸板などを積み重ねて予備の胸壁が築きます。
水が豊富な伏見は酒造業が盛んで、そこから四斗樽を非常調達し、これが「酒樽陣地」。
変な表現をしますが、地産地消でDIYな戦場陣地で面白いですね。

下鳥羽を攻略した薩摩軍はここで部隊を入れ替えて休憩させ、新たに到着した部隊を前面に押し立て、酒樽陣地に攻めかかります。
この陣地の防御は薄く、旧幕軍はあっさり富ノ森の南方に退却しますが、これが旧幕軍の狙い?だったかもしれず、勢いに乗って追撃した薩摩軍は手痛い反撃に合います。
富ノ森は沼のほとりのびしょびしょの低湿地で、枯れたしげみが広がり、そこに会津・大垣の兵が隠れて不意打ちをしかけ斬り込みます。
銃と大砲が主力の近代的な戦場で古風な戦法を取られ、薩摩軍は狼狽し押しまくられて退却。
会津藩は追撃し、思いがけない反抗で薩長軍は下鳥羽まで後退。
なんと旧幕軍は俵陣地の戦いで奪われた富ノ森の陣地を取り戻したのです。
この戦いで旧幕軍が勝ったのはここが初めてではないでしょうか。

しかし、ここでもう一押しすれば大分局面が変わったそうなのですが、総大将の竹中重固(しげかた、丹後守)は変に自重。
会津藩は敵の薩摩軍が感心するほど勇敢に戦ったため、会津藩の勇将・佐川官兵衛は呆れ果て、「お前にはもったいないからその馬をよこせ」と要求し、竹中もその馬をおとなしく贈ったという話も。
正直、総大将なのに情けないですね。

この戦いで双方に多大な損害が出て、旧幕軍は川船で遺体を運びましたが、士分の戦死者しか運ばれず、戦場に取り残された歩兵は死体は放置され、生きていても薩摩軍に始末されるという悲惨さ。
路上に死骸がゴロゴロ倒れ、連日の砲煙による粉塵で太陽が異様に赤く大きく見え、世界の終わりを思わせるような光景になっていたそうです。

放棄された伏見の戦場と、ひるがえった錦旗

放棄された伏見の戦場と、ひるがえった錦旗

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伏見では奉行所を追い出された旧幕軍が堀川右岸、つまりは高瀬川左岸で踏ん張っていました。
新政府軍は朝霧に紛れて探り打ちをかけるだけで全面攻撃ににはまだ出てこず。

旧幕軍が守っている地点は堀川を渡って市街地に入るルートのちょうど橋頭堡(橋を守るため、その前方に築く砦)に当たっています。
伏見街道は中書島から淀までの4kmは宇治川の右岸に沿い、かつ川向こうも巨椋池(おぐらいけ)で、街道の西北側は横大路沼を中心とした湿地帯。
到底大軍を投入できる地形ではなく、新政府軍はいくつかの隊を鳥羽方面に転身させます。

旧幕軍は指揮官の竹中丹後守が前線にいなかったため、数千の軍隊が何の指示も与えられず自己の判断だけで戦っていたため混乱し、各隊は勝手に引き上げを始め、結果的に伏見の部署が放置されることに。

本営では宇治を回って新政府軍の本営を桃山の背後から叩く作戦を採り、会津藩の白井五郎太夫に命じましたが、白井と本営の意見が割れてグズグズしている間にチャンスを失いました。
この作戦は実行されていれば、かなり効果のあるものだったそう。
ここに鳥羽で破れた兵が戻ってきたため、本営の竹中丹後守は「宇治を捨てて鳥羽を助けよ」と方針を転換。

この日、新政府軍は伏見街道を進撃せず、終日戦いはありませんでした。
大阪城でここまでの戦況を聞いた慶喜はぼうぜんとし、打てる手は自分に好意的な大名への内部工作のみ。
鳥羽の戦線は富ノ森で押し返したに過ぎず、伏見は放棄され、「せめて一勝ぐらいはせねば」と慶喜は焦ります。
さらに1月5日の早朝に征討将軍とされた仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)が戦場の視察に出発、岩倉具視と大久保一蔵が用意した錦旗(きんき、天皇の旗)がひるがえり、新政府軍の士気を上げたことで慶喜はさらに動揺し、心理的に追い詰められました。

1月5日、千両松の激戦と慶喜の大坂城演説

鳥羽・新政府軍が酒樽陣地を奪回

鳥羽・新政府軍が酒樽陣地を奪回

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1月5日、新政府軍は三手に分かれ、鳥羽街道、桂川左岸の山崎街道、伏見街道からそれぞれ進撃。
同時に3つのルートから攻めかかり、一気に淀の旧幕軍本陣を突こうという作戦です。

鳥羽街道の戦闘は4日に旧幕軍が奪い返した富ノ森陣地(酒樽陣地)の攻防で始まり、会津兵を主力とした旧幕軍に激しく抵抗され、鳥羽街道での新政府軍は苦戦。
本道のみならず左右の田畑を進んだ隊も難戦し死傷者が相次ぎ、3日に鳥羽街道で見廻組と押し問答をした椎原小弥太もここで戦死。
前線から続々と「小銃だけではやられてしまう!」という切実な伝令が届き、大砲隊6門が砲撃しますが旧幕軍の放火はまったく衰えず、富ノ森村の外れに歩兵が集結して躍動出撃の気配を示します。

ここで2番大砲隊長の大山弥助(巌(いわお)、日露戦争の陸軍大将)が小荷駄から20ドイム臼砲(山なりの弾道を描いて上から落下する砲弾)を取り寄せて発射を命じ、歩兵の密集は蹴散らし躍動出撃の危機は去りました。

しかし、全般の戦況は動かず、旧幕軍の銃砲火は依然激しく、2番大砲隊は故障砲が続出した上に横から刀で斬り入れられ白兵戦となり、機能が麻痺しかけていました。

ここで隊長の大山弥助は、戦闘中に耳を撃ち抜かれ頰かぶりをした奇抜な格好でしたが、砲兵全員に「銃を取れ!」と命じ、一斉に散開して小銃を構えて前進。
これを見た小銃隊は「砲隊に遅れては名折れ」と総攻撃に移ると、近距離からの正確な射撃が効いて、旧幕軍は前日に奪い返した酒樽陣地を放棄しました。

伏見から淀へ、千両松とはどんなところ?

伏見から淀への陸路は「淀堤」(よどづつみ)と呼ばれる宇治川沿いの狭くて長い堤防道。
宇治川の向かいの左岸には巨椋池(おぐらいけ)の水面、右岸は大小の沼が散らばる湿地帯で、どこを見ても気分が悪くなるような冬枯れの風景、そしてこの日も強烈な北風。
ここまで大砲がメインの武器で、前回の酒樽陣地奪回は小銃で新政府軍が勝ったので、やはり風は風上の新政府軍に味方していると言って良さそうです。

この寒々とした風景に彩りを添えているのが淀小橋から1kmほど離れた千両松と呼ばれる松並木。
伏見街道を前進する新政府軍は旧幕軍が撤収してガラ空きになった淀堤を前進しますが、旧幕軍は何としてもここで敵の進出を阻止せねばならず、淀の本営から体勢を立て直して押し上がり、路上に大砲を据えて迎撃。
両軍が力を振り絞って激突したのがこの千両松付近でした。
並木の松や竹やぶ、小低木の群落、斜面の小突起などあらゆる物を盾に利用して野戦陣地を作り、新政府軍を待ち構えました。

しかし、俵陣地や酒樽陣地など、「余裕がなかったから」ということも言えますが、旧幕府軍はいろいろな物を利用して陣地を作るので面白いですね。

千両松の激戦とは?

千両松の激戦とは?

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狭い一本道に兵士が密集するので、両軍共に動きが遅くなり、「銃弾は百や千の雷が一度に落ちる様で、砲煙が空中を漂い、どちらが敵か味方か見分けがつかないほど」というすさまじい状況に。
この戦いに新選組も加わっていますが、すさまじい銃弾の幕に得意の剣はなすすべもなく、古参の井上源三郎や監察の山崎丞(すすむ)など14名が戦死。

緒戦は先頭を進んだ長州第5中隊がまず敵の前衛を撃破した後大砲2門を奪取しますが、横の芦藪に隠れていた兵20人ほどに槍で突かれ、道が狭いので被害は大きく退却。
これに変わり鳥取藩の砲隊と長州第1中隊が進み出ますが、砲車が被弾して破損し苦戦。
そこで後方で待機していた薩摩藩12番隊が鳥取兵をかき分ける様に前進しますが、再び会津藩の槍隊突撃に遭遇し乱戦に。

そこへ一旦後列に下がって息を整えた長州第1中隊が堤を下って敵の潜んだ芦の茂みを打ち、怒ってそこから飛び出してきた会津兵を銃で倒し、被弾した会津兵は(この時代は弾が腹に当たるとまず助からないため)自分の短刀で喉を突き自決。
生き残ったのはわずか一人だけだったということです。
千両松の阻止線が破られると旧幕軍はもう踏ん張りが効かず、一本道を前進してくる薩長勢の圧力に押されて後退し、淀まで退却。
さらに鳥羽街道からも別隊が敗走してきて、淀城下は敗兵がひしめく過密状態。
大将の竹中丹後守も完全に自信をなくしていました。

淀藩の裏切り、新政府軍へ淀城開城

新政府軍は午後2時頃、宇治川にかかる淀小橋に達し、この橋を渡れば淀の市街地。
旧幕軍本営は自軍の劣勢を立て直すために淀城に入って拠点にしようとしましたが、なんとその淀藩が拒絶。
淀城は老中職の稲葉正邦(まさくに)の居城ですが、正邦は江戸にいるため、家臣が独断でこの拒絶を判断。

稲葉家は譜代大名なので当初は旧幕軍の味方をする予定でしたが、尾張藩主徳川慶勝に「中立を守れ」と言われ、藩目付の石崎郁蔵が三条実美(さねとみ)の元に出頭する途中、薩摩藩の島津式部と出会い、「旧幕軍を淀城へ入れるな」と強要。
城中は動揺し、さらに戦火がすぐそこまで迫り、旧幕軍が負け続けているのを見て、旧幕軍を拒絶することを決めたのです。

城門を閉ざされた旧幕軍は悲しみ怒りながら淀を出て、宇治川の淀小橋、木津川の淀大橋を焼いて敵の追撃を断ち、南下して橋本関門で陣容を立て直そうとしました。

追撃する薩摩軍は前年末から西国で流行っていた「ええじゃないか踊り」のリズムで進撃。
調子の良く意気揚々なものだったのですね。
橋を焼かれたので舟で宇治川を渡りますが、あっけない開城に拍子抜けし、「罠ではないか?」と疑う者も。
「これから城攻めでしんどいなあ」と思っていたところにこれですから、私もこんな状況に合ったら罠かと疑ってしまうと思います。
そして淀藩は「城を焼かないでくれ」と必死に懇願したそうです。

慶喜の大坂城演説、そして最後の激戦へ

慶喜の大坂城演説、そして最後の激戦へ

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この日、大坂城の大広間に会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)に両藩の重役、また幕府の諸将や有司役人を集めて、慶喜が演説。
「ことは決定的段階に至った。
たとえ千騎の味方が討ち死にして最後の一騎になろうとも決して退くな。
たとえ大坂で敗れても江戸がある。
江戸で敗れても水戸がある。
最後の最後まで戦おうではないか」というもの。

慶喜は普段から謡曲で声を鍛えてあり、大広間によく通り、名調子だったそう。
万座の人々は悲壮感に酔い、城を枕に死のうと覚悟を決め、馬を飛ばして前線にも伝わり、連日の負け戦で疲労の濃い旧幕軍はこれでまた力を奮い起こし、橋本関門で敵を食い止めるために陣容を整えました。

名演説だったそうですが、私には慶喜がこの後したことへの前振りというか、そういうものだったように見えてなりません。
歴史の教科書にも乗ってることなので知っている人も多いと思いますが、この後慶喜はとんでもないことをするんですね。

そして、戦いは鳥羽伏見の戦いの最後の日、4日目の1月6日へ。
旧幕軍最後の防御線となった橋本関門は宇治川が淀川となり、木津川も合流して大阪平野に向かうところで、山崎地峡と呼ばれ、天正10年(1582年)の山崎の戦いで豊臣秀吉が明智光秀を打ち破ったところ。
現在では狭いところを東海道新幹線、東海道本線、名神高速道路が通っている交通の要衝で、東海道本線がこの辺りを通った時にサントリーの山崎工場を見たことがある人も多いのではないでしょうか。
最近ではNHKの朝のドラマ「マッサン」の舞台になったことでも有名ですね。
この一帯が最後の激戦城になったのです。

1月6日、藤堂藩の裏切りと慶喜逃亡

藤堂藩の裏切り

藤堂藩の裏切り

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旧幕軍は男山の東側山麓と橋本前面の科手(しなで)に胸壁を作り、橋本に台場を構築して新政府軍を待ち構えました。
前日淀大橋が焼き落とされてしまったため、新政府軍はこれに対して渡河作戦を仕掛けますが、これに正対した旧幕兵はあまり戦意が高くありませんでした。
川を渡る敵を攻撃すれば効果が大きいというセオリーがあるのですが、ただボーッと見ていただけで、鬨の声(エイエイオーのような)をあげて一斉に攻めかかるとあっさり陣地を放置し、この八幡方面は制圧。

しかし、科手方面は旧幕軍の精強な主力を配置され陣地も堅固で犠牲者が続出。
ここでは珍しく刀傷の負傷者も。
旧幕軍の奮戦で薩長軍も橋本を攻めあぐねますが、ここで淀川の対岸の山崎関門を警備していた津藩藤堂家が寝返るという事件が。

午前11頃所属不明の兵士が白旗をかかげ、小鼓を打ち鳴らして行進し、山崎関門に入っていくのが見られ、しばらくするとラッパが鳴り、山崎台場から大砲の連発し旧幕軍へ。
藤堂藩が裏切ったのです。
これに桑名藩や生駒隊、小浜隊が砲撃し、同士討ちのような状況になり、そこを新政府軍が「今が好機!」と総攻撃。
ここで旧幕軍の士気は下がり、八幡・橋本の守備は崩壊。

難関を突破した新政府軍は破竹の勢いで進軍し、現地の住民は歓迎。
また、橋本陣地には大砲や小銃、弾薬や兵糧などがたくさん残されていて、相争って分捕られたそうです。

旧幕軍は橋本を退却した後枚方に陣地を作り軍議をしますが、竹中や滝川が地理を見ようと山の上に登ると敗兵が守口方面に引き上げるのが見え、仕方なく枚方を後に。
旧幕軍はもう統制が取れてなかったのですね。
通った村で金品を強奪する兵士もいたそうです。
しかしまだこの時点では、将士たちは大坂城籠城を覚悟し、慶喜が出陣して指揮すれば大勢を立て直せると信じていました。

慶喜逃亡

ところがここでとんでもないことが起こります。
慶喜の意向を伺いに行った滝川具挙が青い顔で戻ってきて「慶喜公が江戸へ戻られた」と。
このことは誰もすぐには信じ難かったようで、慶喜の部屋を見に行くと書類や器具が散乱していたそうです。

慶喜は腹心の板倉勝静や永井尚志(なおむね)、松平容保や定敬にもこの「東下」を明かさず、1月6日午後9時頃、容保・定敬の兄弟と板倉・永井などを連れ、こっそりと大坂城を出て天保山沖に向かい、徳川家軍艦の旗艦開陽へ。
艦長の榎本武揚が公用で大坂に上陸していたため、副長の沢太郎左衛門に無理やり命令し、開陽を動かさせ江戸に戻ったそうです。

少し前にあれほどの大演説をした慶喜がいなくなったことは大坂城を大混乱におとしいれ、悪くいえば「シラけてしまった」ということに。
歩兵隊や会桑二藩の兵は紀州を通って江戸まで帰ることになり、榎本武揚は大坂城の金蔵に残っていた金18万両を軍艦富士山に搬送し、後に箱館戦争の資金としたそうです。

また京都では岩倉具視が土佐藩をおどして抵抗を潰し、徳川慶喜征討令を公示。
土佐藩に続き薩摩、尾張、宇和島、熊本、鳥取などの藩が請書を差し出し、政治的に鳥羽伏見の戦いに勝ったことになりました。

新政府軍は大坂城に全将兵がいなくなったことにびっくりし、抜け駆けの長州兵が城に近づくと白旗が振られ、長州兵が旧幕軍の妻木多宮と城引き渡しの交渉をしていると城が燃え始め、天下の名城はあっけなく全焼。
出火の原因はわかっていないそうです。

結果として鳥羽伏見の戦いでは両軍合わせて400人が死に、旧幕軍の敗因としては「将士に良い人がいなかった」「京都と大坂の間の狭い道に大軍がいたので大混雑して命令が届かなかった」「戦わなくても京都に入れると思っていて、開戦すると狼狽した」ということとされています。

激戦の末、将軍慶喜の逃亡で終わった鳥羽伏見の戦い

鳥羽伏見の戦いは大政奉還のあと、薩摩藩などが徳川家を武力で完全につぶそうと企て、鳥羽の小枝橋で開戦。
伏見でも戦いが行われ、旧幕軍は米俵や酒樽で陣地を構築。
戦闘は大砲や小銃が主役となり、剣の出番は少なく、また淀藩や藤堂藩が裏切るという事件もあり、大将クラスが逃げる場面も多い中、なんと将軍慶喜が江戸に逃げるという事件で終結。
激しい戦いの末、あっけなく戦いが終わったという感じがありました。
戦場となった鳥羽や伏見に、京都のついでに行ってみるのもいいかもしれませんし、他の戊辰戦争の戦いについて調べてみると面白いかもしれませんね。
それでは、読んでくれてありがとうございます!
photo by PIXTA

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きです。城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べてもいます。過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。

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