「本能寺にて信長死す」から始まった、清須会議の真相とは?真相はこうだった!

戦国時代最大の歴史ミステリーとされる「本能寺の変」。そこから始まった清須会議は、三谷幸喜監督の映画などいろんなところで話題に上ることも多いのですが、「いったんどんなものだったんだろう?」って思いませんか?今回は、そんな清須会議の歴史について少しだけ触れてみたいと思います。

清須会議の起因となった本能寺の変はなんでこの日に起こったの?

清須会議の起因となった本能寺の変はなんでこの日に起こったの?

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天正10年(1582年)6月2日に本能寺に宿泊していた織田信長が、明智光秀の謀反によって襲われて殺された「本能寺の変」から始まりました。
信長が珍しいものを集めて楽しむ、コレクターだったことは有名な話ですね。
実は、前日の6月1日に信長は本能寺で茶会を催したのです。
その理由は、伝説の茶入れ「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」を手に入れたかったからだとか。
ただ単に、茶入れが欲しいがために開いた茶会が、自分が絶命する場所になるなんて…。
天下の信長の一生って儚すぎ。

茶会が成功して、茶入れを目にした信長はご満悦で眠っていたのです。
その隙を狙ったのが、明智光秀でした。
光秀はこの時「敵は本能寺にあり!」と号令をかけて、京都へと出陣しました。
3日前からこの時を狙っていたといわれています。
光秀はこの日に「愛宕」という地で連歌会を行っています。
その時に、詠んだ句は「ときは今 天が下しる 五月哉」です。
光秀の本家は「土岐家」でした。
天が下しるは、天下を治めると読めなくもなく、「土岐は今、天下を治める、五月哉」とも読めるのです。
理由については、日常の信長に対する個人的な恨みといわれていますが、本当の理由は分かっていません。
しかも、数名で陰謀を図ったとの説もあります。

信長の死から清須会議までの時間

信長の死から清須会議までの時間

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この時信長は、100ほどの兵しか置いていなかったようです。
しかし、織田軍最強といわれた明智軍は13000人もおり、信長を討ち破るのはたやすかったといわれています。
これじゃあ要塞のようだったといわれる、本能寺も跡形無し。
信長については本能寺を小姓の蘭丸に命じて焼かせ自刃したと伝わっていますが骨すら見つからず、生存説もあります。

しかし、ここで大活躍した人物がいます。
信長の死を知った秀吉は、敵の毛利と和議を結び仇討ちのために京都への「備中大返し(びっちゅうおおがえし)」をやってのけたのです。
岡山市北区にある備中高松城から京都の山城山崎城までの200キロメートルを5日間で踏破した後、6月13日に見事に明智光秀軍を討ち破りました。
戦いに負けた光秀は坂本城に逃げようとしますが、途中農民に竹槍で殺されたと伝わっています。
悲しい最後ですね。

後継者を誰にする?清須会議のはじまり

後継者を誰にする?清須会議のはじまり

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仇討ちが終わったら次は後継者選びですね。
「清州会議っていったい何なの?」って思いませんか?本能寺の変で死んだとされる織田信長の後継ぎ問題を織田家の重臣4名で話し合った会議が清須会議です。
実は、本能寺の変の前に信長は、既に家督を長男の信忠に譲っていました。
どうして長男が跡を継がなかったのでしょう。
この本能寺の変で信長を助けようとした信忠も、光秀の軍に囲まれ自害し命を落としています。

さて、清須会議の出席者は誰だったんでしょう?見事仇討ちを果たした羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)、織田家の筆頭家老の柴田勝家、信長の信頼が厚かった丹羽長秀(にわながひで)と池田恒興です。
このメンバーで6月27日に行われました。
実はもう一人滝川一益がいましたが、北条氏政との対陣中で清須会議には出席できませんでした。
信長には後2人、信雄と信孝という息子がいましたが、二人とも後釜を狙っていたため会議には出席できませんでした。

誰が誰を後継者に押していたの?

誰が誰を後継者に押していたの?

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まず筆頭家老の柴田勝家は、次男をすっ飛ばして3男の信孝を擁立しました。
この時、丹羽長秀は勝家に賛成。
池田恒興は様子見でした。
秀吉が次男を推奨していたと伝わっています。
大河ドラマなどで「三法師」という信長の孫で、信長を助けるために絶命した信忠の長男を黒田官兵衛の作により、秀吉が推したというのは単なる物語上のこととの説があるんです。
歴史の謎って面白いですね。

実は、勝家も秀吉も一歩も譲らないことから、武力行使へと発展することを懸念した丹羽長秀と池田恒興が、三法師を推したという説もあります。
後継者は三法師で決まりのようですが、その後見人は柴田勝家が推した3男の信孝だったといわれています。







後継者が決まったら次は領地分け

後継者が決まったら次は領地分け

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三法師は、織田家当主の居城安土城と近江国坂田郡を相続しました。
戦国武将にとって領地を分配する話し合いは絶対的なものですね。
次男の信雄は尾張を、3男の信孝は美濃を相続しました。
信長の4男で秀吉の養子の羽柴秀勝は、明智光秀の丘陵だった丹羽を相続しています。

勝家は秀吉の領地長浜城と北近江3郡の割譲が認められ、長浜城を養子の柴田勝豊に渡しました。
自分の領地を明け渡すなんて、なんだか仇討ちの功労者の秀吉は損をしたような…。
でも秀吉には、播磨、山城、河内丹波山が与えられました。
ほっと。
やっぱり功労者は、ご褒美をいっぱい貰わないといけないですもんね。
丹羽長秀は若狭安堵、恒興は近江の2郡と摂津から3郡を貰っています。

清州会議の背景

清州会議の背景

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これまで織田家随一の権力を誇っていた柴田勝家ですが、この会議で影響力が低下したのです。
これまでは最大の発言力を持っていた柴田勝家ですが、秀吉が重臣筆頭の地位を占めることとなり、これまでの織田家の組織図とはがらりと変わってしまいました。
実は、信長生前の頃から、勝家と秀吉の中は険悪で、勝家は成りあがりの秀吉を見下し実力を認めなかったことで仲たがいを起こしたこともあるようです。
この織田家の変遷は、勝家と秀吉の内紛へと成長していきます。

10月15日に膨大な費用をかけて、織田信長の葬儀が行われました。
この葬儀は秀吉が行ったことは有名ですね。
秀吉が3歳だった三法師を利用して、信長が亡くなった今は自分が権力者であることを示したといわれています。
葬儀には、柴田勝家はもちろん、信孝、お市、お市の3姫の茶々、お初、お江は当然参列していません。
それどころか、秀吉が当主として推薦した信雄や三法師も参列しなかったようで、記録に名前が残っていません。
秀勝は、信長の妹お市の方を喪主として、後に百日忌の法要を行っています。

起こってしまった賤ヶ岳の戦い

起こってしまった賤ヶ岳の戦い

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この頃から見せるという面でも、秀吉の方が優れており、やはり天下人となる人物だと人々に知らせしめたようです。
この葬儀からの一連の様子を見ても、柴田勝家と秀吉の中は凄く悪いということが分かりますね。
10月16日には勝家は堀秀政に覚書を送り訴えたのです。
清須会議で自分の地位が目に見えて下がったことも起因しています。
勝家は清須会議での不当な領地の再分配や宝寺城の築城を非難しました。
勝家は秀吉の領地が勝家の領地を遥かに超えてしまい、重臣筆頭に躍り出たことも気に食わなかったのです。
だって清須会議で秀吉と勝家の立場が一挙に逆転してしまったんですもん。
腹に据えかねていたのだと思います。

天正10年(1582年)末には、賤ヶ岳の戦いが始まってしまいました。
翌年4月には秀吉が勝利し、勝家とお市の方は共に自害しました。
この柴田勝家の自害は本能寺からほんの11ヶ月のことです。
後にお市の方が前に嫁いでいた浅井長政との娘茶々(淀殿)は、秀吉の側室となり後継ぎの秀頼を産みました。

次のページでは『清須会議という、ひとつの会議が大きく日本の運命を変えたといっても過言ではないでしょう』を掲載!
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