西へ西へと航海し世界一周を達成!世界周航初の達成者マゼラン艦隊の軌跡を追う

マゼランと言えば世界一周をはじめてなしたことでも有名ですね。マゼラン自身は途中で戦死してしまうも、一行が成し遂げた、航海士が夢にまで見た世界一周。いったいどんなものだったんでしょうね。今回は、マゼラン艦隊が果たした、初の世界一周航海に迫ってみたいと思います。

世界周航の立て役者!マゼランってどんな人

世界周航の立て役者!マゼランってどんな人

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フェルディナンド・マゼランは、ポルトガル下級貴族の出身で航海者です。
ポルトガルで軍務に就くも、国王に嫌疑をかけられたため、隣国スペインに亡命し宮廷に仕えた人物。
しかし、正確な記録はなく、確実なことは分かっていません。
ポルトガル宮廷の小姓時代にコロンブスの新世界発見やバスコ・ダ・ガマのインド航路発見の業績を知り、航海への関心を深めていったようです。

その後、スペイン王の命により、西回りで香料の原産地マルク諸島への航海を開始。
マゼラン海峡を発見し、太平洋を横断しフィリピンに到着するも、一部族が反抗したため戦闘となり絶命した人物です。
マゼラン自身は世界一周を達成することはできませんでしたが、その一行が成功しその名を世界中に広めました。
これは、地球が球体であるという、地球上の歴史が証明された瞬間でもあります。

世界周航に出かけるマゼラン

世界周航に出かけるマゼラン

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マゼランの生きた時代は大航海時代と言われるころで、コロンブスやバスコ・ダ・ガマに次ぐ大航海として有名なのが、マゼランの世界一周航海です。
スペイン王・カルロス1世の命令により、インドネシアにあるモルッカ諸島(香料諸島)へ西回りで達成することが、マゼラン一行の与えたられた役目でした。
カルロス1世は1519年8月10日を出帆日と決めてこの日に出発するように命じました。
この頃は、我先に航路を発見しようと、各国が躍起となっていたからです。

彼は、予定通り5艘の船と237名を引き連れてセビリアを出発しました。
でも、まだ準備ができておらず、王の手前の出向で、9月20日まで120キロメートル先のサンルーカル・デ・バラメーダ港に留まって最終的な準備をし、出発しています。
実はこの航海は未知の海域を通るため、マゼランはスペインより航海技術が上だったポルトガルの乗務員で出向するつもりでした。
艦隊の提督はポルトガルのマゼランですが、船員たちはスペイン人でなければ意味がないとの意見を持つ、上層部との衝突もあったようです。
経験豊富なポルトガル人が、5人だけと条件が付けられましたが、それでは足りないと24人にまで釣り上げました。
実は、採用段階で37人のポルトガル人を採用しています。
結構、険悪なムードでの出港だったようです。
でも、先見の明があると思いませんか?実に長期にわたり過酷な航海となったんですから。

パタゴニアでの過酷な状況下で起こる反乱

パタゴニアでの過酷な状況下で起こる反乱

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ブラジルに着いたマゼラン艦隊は、現在のリオ・デ・ジャネイロ地方に到着しました。
彼らとは友好関係を保つことができ、マゼランたちのために家まで建てたと言われています。
彼らは人食い人種でしたが、敵とみなされず被害もなく無事に旅を続けることができました。
次に香料諸島に通じる海峡を求めて南下したマゼランたちが出合ったのは、パタゴニアのサン・フリワン湾でした。
ここでは、厳しい現実に不満が募った乗組員たちの中から反乱が起こりました。

実はこの航海が始まりスペイン人とポルトガル人の間で軋轢が起こり、船全体のムードも悪くなっていました。
マゼランとスペイン人の首脳部は出港してすぐに対立状態で、ブラジルに到着するころには一触即発の状態だったのです。
このパタゴニアでの劣悪な環境に耐えきれなくなった、4人のスペイン人がクーデターを起こしてしまいます。
30名の武装した乗組員が、艦隊の中で最強の火力を誇るサン・アントニオ号の制圧に乗り出し、反論した副船長を見せしめに殺し、船長を捕虜としました。
しかし、弱腰のスペイン首謀者たちは、「謝れば許してやる」と子どもの喧嘩のような和解を求めてきました。
しかし、マゼランは臆することなく首謀者の親玉を殺害、クーデターにより奪われた船を挟み撃ちにし、敗北させ鎮圧しました。
彼は、迅速に素早くクーデターを鎮めたのです。
更に見せしめのために、殺した親玉を八つ裂きに、副船長を殺したものも斬首しています。

エスティバン・ゴメスの裏切り

エスティバン・ゴメスの裏切り

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5隻の艦隊の内1隻が座礁し4隻になりましたが、船長全てがポルトガル人に統一され、体制は万全となりました。
しかし、スペイン人たちのマゼランへの反感は根強く残ってしまいます。
1520年8月24日に再出発し、10月21日についに海峡を発見しました。
この西へと抜ける海峡はマゼラン海峡と名付けられました。
この海峡を抜ける途中に、艦隊最大のサン・アントニオ号がはぐれてしまいます。
ここに来るまでにはサンティアゴ号が難破しており、3隻になってしまいます。

サン・アントニオ号は、マゼランとはぐれたことをきっかけにスペインに帰郷しました。
この船の船長がエスティバン・ゴメスです。
ゴメスはマゼランに船長を外されたことがあり、それによる恨みとの説と航路の発見という当初の使命を全うしたことを、スペインに帰還して報告後スペインの指示を仰ぐのが妥当と思ったという説があり、後者であればゴメスはむしろ船長としてふさわしく、逆にマゼランは無謀なことを勝手に続けた無能な船長ということになりますね。







マゼランの死

マゼランの死

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マゼランは1521年3月6日にフィリピンに、4月7日にセブ島へ辿り着きます。
セブ島の王とマゼランは親密になり、ここでマゼランはキリストの布教を精力的に行います。
セブの王たちはキリストに改宗し、周辺諸国にもセブ王への服従を要求しました。

次にマクタン島では、1500人を超える兵で襲ってきたラプラプ王が襲いました。
この時マゼランは60人足らず。
これは無謀な戦いでありマゼランは戦死。
生き残った乗組員は命からがら逃げだしました。
マゼランが死んだと聞いたセブ王は態度を翻し、40人の船員が捕らえられました。
この中にマゼランの親族で後継者がいましたが、セブ王に殺されています。

マゼラン死後の艦隊

マゼラン死後の艦隊

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乗組員は慌てて逃げだしました。
3隻の船の内、コンセプシオン号は運行が難しく乗り捨てています。
残った2隻は、マゼランが乗っていたトリニダード号とビクトリア号です。
この2隻は迷走しながらも、1521年11月8日に香料諸島に辿り着きました。
反乱や裏切り、島の人々による攻撃など散々な目に遭ってきた乗組員たちでしたが、ここの王には厚遇を得ることがで北のです。
でも、トリニダード号はグローブの積み過ぎで浸水してしまいます。

ビクトリア号は、60人の乗組員と出発しましたが、栄養失調や壊血病などで死者を出しました。
記録者のピガフェッタを始め18人だけが1522年9月6日にスペインに帰還しました。
失ったものは大きかったのはもちろんですが、持ち帰ったスパイスが生みだした利益は、航海で使用した金額よりもはるかに上回っていました。

世界一周でマゼラン艦隊が得たもの

世界一周でマゼラン艦隊が得たもの

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残念なことに、この西周りの航路は、事実上第二の艦隊を送り出すものの、提督が2人とも死んでしまいマゼラン以上の損失を出しました。
その後も船を出すも失敗。
危険が多すぎるとのことでポルトガルに売却されるも結局最終的には閉ざされてしまいました。

世界一周をやってのけたという功績はもちろんですが、実は新しい航路開拓は、ヨーロッパ諸国には収穫をもたらしています。
新航路開拓によりスパイスが手に入りやすくなったのもその一つです。
また、地球が球体ということも証明しました。
他にも、太平洋の発見、マゼラン海峡、マゼランペンギン、マゼラン星雲など新しいものもたくさん開拓しています。

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