奇跡を起こさない聖人――東洋道徳の祖〈孔子〉の歴史

〈少年老いやすく学成りがたし〉〈四十にして惑わず、五十にして天命を知る〉〈遠方より友来る、また楽しからんや〉――中学校の漢文の授業で習ったなつかしい言葉。今なお強い人気と影響を誇る『論語』の一節の数々です。2500年も前の人でありながら、今なお私たちを導き教える言葉を残した孔子とは、一体どのような人物だったのでしょう?また、彼の生きたそのときの中国とは一体?奇跡を起こさず、人間を信じ続けた聖人。「君子」「道」「天」「中庸」を説き、世界に絶大な影響を与えた巨人、〈儒教〉の祖でもある〈孔子〉の歴史を今回はご紹介します。


孔子と、孔子の生きた当時の中国

孔子と、孔子の生きた当時の中国

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孔子が生まれたのは、紀元前552年(『史記』によると紀元前551年)。
西洋ではアケメネス朝ペルシャや古代ギリシャがイケイケの時期です。
中国は主要な国だけでも7ヶ国が林立する、群雄割拠の戦国時代!歴史上では〈春秋戦国時代〉に区分されます。
この混沌とした中国大陸の小国・魯(ろ)に孔子は生をうけました。
これからご紹介するのは秦の始皇帝が中国大陸を統一するよりも、もっと前の話。
ていねいに追っていきましょう。

〈春秋戦国時代〉って?「孔子以前」の道徳はどんなの?

〈春秋戦国時代〉の前は〈周〉という国が中国をおさめていました。
しかし〈周〉が2つに分裂。
〈周〉の弱体化とともに有力諸侯が乱立し、中国大陸は群雄割拠の時代に突入。
この戦国時代はなんと550年にも渡って続くのです。

この〈春秋戦国時代〉を終わらせ、中国大陸を統一する秦の始皇帝が出るのは紀元前221年。
孔子は始皇帝より300年も前の人間なのです。
〈先秦時代〉つまり「中国統一される秦以前」の巨人として、孔子は中国史に大きな足跡を残しています。

ところで気になるのは、孔子以前の「道徳」。
孔子の教えをベースに後世作られた〈儒教〉は「道徳」の代名詞です。
しかし〈孔子以前〉の中国大陸とはどのような道徳で秩序立てられていたのでしょうか?正解は〈天〉に対する敬い。
すべてを見ている〈天〉が人間に災いも喜びも与える、〈天〉に恥じないように失礼のないように生きよ、という教えです。
孔子の言行録である『論語』にも頻繁に〈天〉という言葉が登場します。
孔子はまったく新しい教えを作ったのではありません。
これまで中国の聖人たちが尊んできた考えを完璧に踏襲した上で、自分の思想を編み出していったのです。

思想の巨人、小国の貧しい家に生をうける

孔子はそんな時代の激流のただなか、中国東部、3つの大国に囲まれた小国。
魯(ろ)に生をうけます(現在の山東省南部)。
父親は70歳の軍人戦士、母親は16歳の巫女という年の差夫婦。
3歳のときに父を亡くし、17歳のときには母も鬼籍に入ります。
貧しい生活の中で孔子は孤児として苦しい暮らしをしました。
とは言うものの、孔子の幼少期について詳しい記録はあまり残っていません。

さて孔子の故郷・魯国では〈三桓氏(さんかんし)〉一族が実験を握っていました。
〈三桓氏〉の実権は強力。
政治から軍事まですべてを掌握していました。
後年、政治の舞台に乗り出す孔子もこの〈三桓氏〉相手になかなか手こずることになります。
晩年の孔子の君主・哀公(あいこう)はこの〈三桓氏〉ファミリーを除こうとして失脚しています。

この魯に孔子は36歳まで留まります。
その後、ある理由でこの小さな魯国を飛び出していくですが――それについては後に譲りましょう。

若き孔子、家庭生活と野心

若き孔子、家庭生活と野心

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聖人イメージの強い孔子。
「えっ結婚してたの?」そう、孔子は19歳のときに〈幵官氏(けんかんし)〉という女性と結婚していたのです。
孔子の息子・伯魚は『論語』でもちゃんと登場しています。
孫息子・子思は孔子の死後も、祖父や父の教えを受け継ぐ儒教学者の1人として活躍しているのです。
なんだか意外な感じですね。
ちなみに孔子の死後、「自分は孔子の子孫!」と主張する人が多く出てきました。
その数は膨大で、現在直系かどうかを問わななければ400万人を超えるとされています。
実際に孔子の末裔が生きていると考えると、ちょっと感慨深いですね。

「女と小人は扱いにくい」!?息子のネーミングで大モメ

幵官氏は19歳のときに孔子と結婚します。
彼女について詳しくは後世に残っていません。
ただ伝わっているのは「悪妻伝説」。

孔子に念願の息子が生まれます。
孔子の君主である昭公は孔子に祝いとして魚の鯉を下賜しました。
幵官氏ははじめての子供の名前をいろいろと考えていたことでしょう。
しかし孔子はすべての案を、頑として聞き入れません。
「陛下から賜った『鯉』と名付ける」

だから孔子の息子の名前は〈孔鯉〉。
ついでに字(ニックネーム)は〈伯魚〉です。
まともな神経を持ちあわせた母親なら激怒ですよね。
ソクラテスの妻と同じように常識人間だったのを、孔子のまわりの弟子たちが「先生の心も知らずに!」と解釈して伝えたのでしょう。
ちなみに一説によれば幵官氏はその後、孔子と離婚。
幵官氏の死去にあたっては、母の逝去を悲しむ伯魚を「母親の死に嘆きすぎだ」と叱責したという記録もあります。
聖人とも言われる孔子、女心がわからない人間だったのでしょう。

政変――故郷を飛びだす

息子に鯉って名前までつけて、立身出世をはかろうとした?なかなか薄情なエピソード。
しかしここで覚えておいていただきたいのは、孔子はあくまでも人間であったということです。
聖人とは周囲のつけた評価であり、孔子本人にも野望や欲望はあったことでしょう。

孔子も一般の青年らしく出世欲に燃えます。
倉庫や牧場を管理する役人などの官職を経ます。
しかし35歳のとき一度官位を返上し、孔子は周の都・洛陽へと留学の旅に出ます。
この留学と同時期にはじめての弟子を得たと記録にはあります。
その後、留学を終えて魯に帰還した孔子はふたたび士官せず、弟子をとって教育することに熱を注ぎました。
この時すでに〈師〉として〈立つ〉ことを決意したのです。

36歳孔子に転機が訪れます。
政変です。
魯国の君主・昭公は、先王が急死だったためにあわてて即位が決まった王様。
魯では〈三桓氏〉があいも変わらず大きな権勢を振るっています。
昭公はクーデターを決意。
しかし〈三桓氏〉に追い落とされてしまいました。
孔子は主君・昭公にしたがって魯国から斉国へと亡命していくのです。
その後も孔子と〈三桓氏〉はたびたび対立することになります。

孔子の主だった弟子をご紹介!

孔子の主だった弟子をご紹介!

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ここで、孔子と苦楽をともにした弟子たちのごく一部をご紹介します。
3000人いると言われる孔子の弟子。
そのうちでも非常にすぐれた10人の弟子は〈孔門十哲〉と呼ばれ、孔子と弟子の言行録『論語』にも頻繁に登場します。
しかし似たような字面、本名やあだ名が混在してややこしい!そこで数ある孔子の弟子の中でも「この3人だけおさえておけば、孔子の人生をたどる上では大丈夫!」という人をピックアップしてみました。

Writer:

文学少女が世界文学の時代背景に興味を持ち、調べていたら大学では文学部じゃなくて歴史学部に入ることになっちゃった。生粋の文学好き美術好きの27歳です。現在はライターとして活動中。夢はロシアのサンクトペテルブルクでドストエフスキー「罪と罰」ごっこをすること。楽しくおもしろい歴史と本の世界を少しでも伝えられれば幸いです。

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