桜田門外の変にはこんな事実が…幕府衰退のきっかけになった暗殺事件を追う

日本の政局が一転したといっても過言ではない桜田門外の変。現在の総理大臣的存在の大老が暗殺されたという大事件です。黒船来航をきっかけに大きく日本が生まれ変わる過程で、犠牲となった井伊直弼(いいなおすけ)は、自身が暗殺されることを知っていたとか?今回は、桜田門外の変について少しだけ触れてみたいと思います。

悪名高き井伊直弼っていったいどんな人?

悪名高き井伊直弼っていったいどんな人?

image by PIXTA / 730695

井伊直弼は、彦根城内で14男として生まれましたが、当時兄弟が多く庶子の子だったので、家督を継ぐことはないと「埋木舎(うもれぎのや)」と自分が名付けた屋敷に住みました。
この名前は、「自らを花の咲くこともない(世に出ることもない)埋もれ木と同じだ」との意味を持つ歌を詠んだことから名付けられたようです。

世捨て人のように不遇の時代を送っていた直弼は、兄たちが亡くなったことで、35歳で彦根藩主となりました。
井伊大老は、一端こうしようと思ったことは納得するまでやり遂げるという性格だったようです。
この性格が、悪名高き大老にさせてしまったという説があります。

実は名君だったといわれる井伊直弼

実は名君だったといわれる井伊直弼

image by iStockphoto / 84052297

安政の大獄で処刑された吉田松陰は、井伊直弼のことを兄に向けて「直弼は憐みのある名君だ」と手紙に書いています。
また、彦根藩主になった時は藩政改革の際、藩が貯めていた15万両ものお金を領民に分配し、名君とも呼ばれているんですよ。

真面目で勉強熱心で藩政にも尽力していたといわれる井伊大老が、どうして暗殺されたんでしょうね。
井伊大老の時代には2つの大きな問題がありました。
13代将軍の徳川家定の将軍継嗣問題と修好通商条約の締結の2つです。
この問題がこじれて、どんどん井伊大老への不満が募っていきました。

そもそも何が政府の権威を揺るがした?

そもそも何が政府の権威を揺るがした?

image by PIXTA / 16259308

井伊直弼がどうしてこんなに多くの藩から反発を食らってしまったんでしょうね。
中でも、水戸藩は最も井伊大老に反感を抱いていました。
きっかけは、先ほどお話しした2大問題の一つ、将軍継嗣問題です。

この時の有力候補は、南紀派の徳川慶福(とくがわよしとみ)と、水戸派の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)でした。
まず、徳川慶福は、旧来の体制維持をめざす、将軍家との血筋が近い(11代家斉の孫)として有力候補に挙がっていました。
井伊直弼は、保守派の幕臣だったのです。

もう一方、慶喜は年長で聡明と名高い人物で、攘夷派の親藩と外様大名など開明的な幕臣の推薦を得ています。
因みに、慶喜は水戸の徳川斉昭の7男で、一橋家の養子になっていました。
何となく継承問題の図が見えてきたでしょうか?

なんで一橋慶喜が将軍に推された?

なんで一橋慶喜が将軍に推された?

image by PIXTA / 19885902

海防参与を辞任した一橋慶喜の実父徳川斉昭は、3ヶ月の速さで幕政参与として返り咲いています。
これで、名実ともに幕府のご意見番としての地位に就きました。
ここで、浮き上がってきたのが、将軍継承問題だったんです。
今度は、何が何でも我が子を将軍にし、自分の地位を揺るぎないものにと考えたのでしょう。
実は、こいつが黒玉?

この時は、薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)や越前藩主松平慶永(まつだいらよしなが)と協力してことを図りましたが、失敗に終わりました。
島津斉彬って言ったら、13代将軍家定の正妻篤姫の実家ですよね。
最強の協力者を持ちながら、何で負けたんでしょうね。
それだけ、井伊大老が名君だったのでしょうか?







井伊大老を憎んでいたのは徳川斉昭

井伊大老を憎んでいたのは徳川斉昭

image by PIXTA / 5208186

斉昭にしてみれば、実子の慶喜を将軍にして攘夷への改革を進めたかったのですが、そんなことになったら大変と突っぱねたのは老中や譜代大名たちでした。
ここで井伊直弼が大老に就任します。
そこで、家茂(慶福)を将軍にしたのです。

これで、斉昭の思惑は失敗に終わりました。
水戸藩の井伊大老への恨みは募るばかり。
これからどうなっちゃうんでしょうね。

修好通商条約を起因にアンチ幕府を作った水戸藩

修好通商条約を起因にアンチ幕府を作った水戸藩

image by PIXTA / 3405068

先ほど、徳川斉昭が海防参与を辞任したと書きましたが、これは黒船来航から始まり、ペリーによる鎖国やハリスが下田で結んだ不平等条約という名の通商条約を締結したことに対する辞任です。
アメリカに対して譲歩しすぎており、この条約締結は国辱だと引責辞任という態度に出ました。
アメリカとのことは譲歩しすぎたから、責任を取るといった具合。

アメリカの凄さを知っていた老中は、「さっさとアメリカのいうことを聞いて自分たちの身を守るべき」と考え、斉昭は「恥をさらすぐらいなら死んでしまう」といった状態でした。
井伊大老が天皇の勅許を待たずに、ハリスと日米修好通商条約に押印したのは許せないとしたのです。
決まり事を守らずどうして調印した!天皇の意見を聞くのが規則だろう!といった具合に水戸藩は、諸国の大名たちと共に井伊大老への攻撃を始めたのです。

天皇の無知が引き金だったのか!

藩主だけでなく、条約調印に激怒した孝明天皇までが動きました。
何と!水戸藩に「攘夷」を命じたのです。
まぁ、天皇にとっては、これを機に政権から全ての政を手中に収めようといった魂胆だったんでしょうか?でもあんまりに無知だったのは天皇でした。
だって、この頃の天皇って御所にいるだけで対外的なことはほとんど知らない浮世暮らしをしていたんだから。

ここから、井伊大老の有名な安政の大獄が始まります。
安政の大獄は攘夷派を始め幕府の方針に逆らったものを弾圧したというものです。
もちろん斉昭も蟄居謹慎を言い渡されています。
でも、斉昭の恨みは大変なもの。
だって、自分の政治生命を一気に失わせたんですもん。

次のページでは『起こってしまった桜田門外の変』を掲載!
次のページを読む >>