意外と知らない?遣唐使にまつわる18の疑問!

社会科・歴史の授業の、比較的始めの頃に登場する「遣唐使」。誰でも一度は耳にしているはずなのに、その実態は?と聞かれると、答えられる人は非常に少ないのが現状のようです。”使”と付くからには、日本を代表して外国へ赴く重要な役目であったはずですが、残されている文献は非常に少なく、多くの謎に包まれている「遣唐使」。どんな船で海を渡ったの?彼らが日本に及ぼした影響とは?「遣唐使」にまつわる様々な疑問を徹底解明します!

今さら聞けない!「遣唐使」の基礎知識

1.ひとことで言うと「遣唐使」とは?

遣唐使とは、日本が中国に送った使者のこと。
630年から894年までの200余年の間、時代で言うと飛鳥時代~奈良時代~平安時代にかけて、数年~数十年間隔で派遣されています。
この時代、中国大陸を統一していたのは唐(という王朝であったため「遣唐使」という名がつきました。

630年というと、日本初の女帝、推古天皇(すいこてんのう)が亡くなったすぐ後、舒明天皇(じょめいてんのう)が即位して2年の頃のこと。
聖徳太子が政治のトップに立っていた時代の、数年後。
今から1400年近くも昔のことです。

遣唐使は200年もの間に、中止になった回も含めると合計20回、計画・任命されています(中止になったものなどを省くと15回)。
その役割・目的は、朝貢(ちょうこう)、つまり、日本が唐の皇帝に貢物を差し出し、唐の皇帝に日本という国の存在を認めてもらうためだったようです。
当時の唐王朝は大変強大な力を持っており、日本だけでなく、朝鮮半島の国々も頻繁に朝貢を行っていました。
日本側の記録では、唐との立場は対等であったとの認識だったようですが、唐は日本を冊封国(さくほうこく)として迎え入れていたようです。

派遣の目的は朝貢であったようですが、日本側にはそれ以外にも、交易、世界の情勢を知るための情報収集、政治制度や文化の習得・吸収、仏教の経典の収集などが大きな目的であったと考えられています。
そのため、遣唐使の一団の中に、留学生や僧侶も大勢含まれていました。

2.「唐」とはどんな国?

2.「唐」とはどんな国?

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は618年~907年まで中国大陸を統一していた王朝。
7世紀中盤ごろには大陸の西方の砂漠地帯まで支配していたとされる大国で、軍事力だけでなく、政治や文化面でも大きな影響力を持っていました。
都は長安(現在の西安市)。
当時既に100万人以上の人々が暮らしていたと伝わっており、日本の平城京や平安京のお手本となったとされる大都市でしたが、海(渤海)からするとかなり遠く、かなり西の方にありました。
遣唐使たちは大陸に上陸した後、数千キロにも及ぶ旅を経て、長安へ向かったのです。

大変強大な力を持っていた唐ですが、ずっと順風であったというわけではありません。
内部でいざこざが起きて混乱し、政治に影響が出た時期もありました。
国土を広げ過ぎたことも一因だったのかもしれません。
地方豪族や役人たちが力を持つようになり、8世紀半ば頃になると唐は西方一帯から退かざるを得なくなって、国土はどんどん小さくなっていきます。

ところで、唐という時代には、日本でもよく知られた有名な女性が2人います。
ひとりは、中国史上唯一といわれる女帝、武則天(ぶそくてん・則天武后とも呼ばれる:624年~705年)。
もうひとりは第9代皇帝玄宗(げんそう)の妃、世界三大美女のひとりでもある楊貴妃(ようきひ:719年~756年)。
武則天が夫の高宗に変わって即位し無理やり周王朝を建てたり(690年~705年)、楊貴妃に骨抜きにされた玄宗皇帝が政治への意欲を失ったり、この2人の女性が唐に与えた影響は測り知れません。

やがて10世紀に入ると、力を持った地方役人たちが次々と国を打ち立て始め、唐は衰退・滅亡してしまいます。

3.「遣隋使」とどう違うの?

中国大陸を統一していた王朝への朝貢使、技術や文化などを学ぶための派遣、という意味では、遣唐使も遣隋使(けんずいし)も同じです。
ただ、派遣先の国が、遣隋使の場合は隋(ずい:581年~618年)という王朝であったところに違いがあります。

隋は唐の前に権勢を振るっていた大国でしたが、2代目皇帝の贅沢や無謀な土木工事などの悪政で早くも国が傾き、国内のあちこちで反乱が頻発。
反乱軍のひとつであった李氏が起こした唐に取って代わられ、滅亡してしまいます。
この2代目皇帝の煬帝(ようてい・ようだい)に遣隋使として派遣されたのが、聖徳太子の命を受けた小野妹子(おののいもこ)です。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との太子からの書簡を出し、煬帝を怒らせた(隋のほうがずっと立場が上のはずなのに、対等な立場で物を申すのは無礼だ)のは有名な話。
607年のことでした。
ちなみに小野妹子の遣隋使は第2回目で、初回は600年なのですがなぜか日本書紀に記載がなく、詳しいことはよくわかっていません。

遣隋使はその後も18年間で5回、派遣されました。
最後の遣隋使は614年~615年で、618年には隋は滅びてしまいます。

隋は短命でしたが、6世紀後半まで300年以上もの間、国同士の争いや分裂が絶えなかった中国大陸をひとつにまとめた強大な国家でした。
煬帝の、庶民を省みない強硬な姿勢は隋を滅亡へと導いてしまいましたが、政治や文化、経済、制度など、様々な分野で非常に進んだ国でもあったのです。
日本は大国・隋に使者を送ることで、友好関係を築き、様々な文化や技術を学ぼうとし、その考え方は遣唐使へと受け継がれていきます。







遣唐使はどうやって海を渡ったのか

4.遣唐使船はどんな船だった?

4.遣唐使船はどんな船だった?

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現代なら、日本から中国への渡航はさほど大変なことではありません。

例えば大阪や神戸から上海までフェリーで行こうとしたら、だいたい2日間くらいの日程で到着するようです。
しかし遣唐使が大陸に渡ったのは今から1000年以上も昔のこと。
舟もそれほど大きくはなかったでしょうし、航海技術も、航路に関する知識や経験も未熟であったはず。
まさに命がけの旅路であったと考えられます。

残念ながら、遣唐使船がどのような船であったかについては、ほとんど資料が残っていません。
そんな中、平成22年に開催された平城遷都1300年祭では、会場内に原寸大の遣唐使船が復元され、大変話題を呼びました。
記録に残っている渡航人数や船の数、当時の造船技術などから大きさなどを割り出し、見た目は平安時代に描かれたと思われる「吉備大臣入唐絵詞」という絵巻物の絵の中に描かれている船を参考にしたそうです。
この絵はアメリカのボストン美術館が所蔵しています。

こうした、イベント展示用の復元作業や、現存する美術品などから推定される遣唐使船の大きさは(史料に基づくものではなくあくまでも推測であるとの前提で)長さが約30m、幅は8mほど。
帆柱の高さは18mほどの2本立て平底箱型で、色は白と朱で美しく塗られています。
ただ、構造としては単に箱が水に浮いているようなもので、強風や波浪に弱く、遭難することも多々あったようです。

5.一度に何人くらい?

5.一度に何人くらい?

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そんな遣唐使船に、どれくらいの人が乗っていたのでしょうか。

遣唐使200年余りの歴史の中で、実際に渡航したのは15回であったと言われています。
残りの5回は天候不良や他国との緊張状態などの理由で、実際には出発していません。
また、その15回の中にも、前回、大陸に渡った遣唐使たちを迎えに行った船であったり、厳密には遣唐使が乗っていない回もあったと考えられていて、どのようにカウントするか、見解が分かれるところではあるようです。

遣唐使開始当初、630年から、660年年頃までの数回は、上記のような船2隻編成であったと考えられています。
そして、気になる渡航人数ですが、1隻におよそ100人ほど乗っていたようです。
これが、700年頃から船の数が4隻になり、人数も多いときで600人ほど、1隻に160人ほどが乗っていたこともあったとか。
全長30mほどの、決して丈夫とは言えない造りの船に、大の男が100人以上乗り込んで大海原に出ていったと考えると、やや無謀な気もします。
甲板は人で溢れんばかりであったでしょう。
前述の「吉備大臣入唐絵詞」を見ると、小さな船から身を乗り出して海に落ちそうになっている人々が描かれているのですが、これはあながち誇張ではないのかもしれません。

これだけの人を乗せ、海を渡ったとなると、逆に、航海技術は優れていたのではないか、との考えも浮かびます。
しかし残念ながら、渡航時の詳細な記録は残されていないため、遣唐使たちの航海技術がいかほどであったかは、想像するより他にないのです。

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