お花見で訪れたい!末っ子大名が作った「津山城」とは?

津山城に残っている石塁と、再建された備中櫓、衆楽園はどんなもので、また江戸時代の天守閣と津山の城下町はどんな姿をしていたのでしょうか?

また津山城を建てた森忠政はどんな人物で、どういう経緯で森家の家督を継ぎ、どのように美作に来て、なぜ津山に城を建てることにしたのか?また、森家の刃傷事件とはどんなものだったのか?また森家と松平家の歴代藩主は何をしたのか?

そして、津山を訪れた時はどんな周り方をすれば楽しめるのか?

それらについて見ていきたいと思います。

津山城にはどんな建物が残っている?どんな建物があった?

津山城はどこにある?どんな城?

津山城はどこにある?どんな城?

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津山城は岡山県の北東部にあり、新幹線の止まる岡山駅から津山駅までJR津山線に乗り1時間10分ほど。
大阪や広島方面から車だと中国自動車道を通って、岡山市を通らずに直接アクセスすることもでき、津山駅から津山城まで徒歩10分、中国自動車道津山ICからは車で10分です。

津山城は森忠政によって慶長9年(1604年)から元和2年(1616年)の12年間をかけて築城された平山城。
明治の初年に天守閣をはじめとする全ての建物は取り壊され、現在は築城当初の原型をほぼ残している石塁とその縄張り、地元をはじめ各地に収蔵されている数点の城絵図によってのみ、往時の面影をしのぶことができます。

迷路のように入り組んだ石垣は高さ10mもあり、遠くからでも石垣を見渡すことができ、登るのがしんどいほど。
2005年に備中櫓が再建され、また津山城のある鶴山公園(かくざんこうえん)は「日本のさくら名所100選」にも選ばれるお花見スポットで、石垣をバックに桜が乱れ咲く姿は圧巻です。

では、津山城には石垣と備中櫓の他にどんな建物があったのでしょうか?まずそこを見ていきたいと思います。

津山の城下町はどんなものだった?

まずは江戸時代の津山の城下町の姿を説明します。
総曲輪の南・西・北の3方に堀が巡らされ、さらに城下町を広く取り巻いて東を宮川、南を吉井川、西を藺田川(いだがわ)が巡り、天然の河川の流れが外堀の役目を果たし、3方の堀が内堀の役目を担っています。

城下の南を東西に出雲往来が通り、往来の両側には町屋を配置。
出雲往来は城下に入るといくつもの道に分かれ、他兵の侵入に備えて鍵の手に屈折して道の見通しを遮っています。

藩士の屋敷は城の西北部の田町・城代町(じょうだいまち)・椿高下(つばきこうげ)・御北(おきた)に集中し、他は東の林田(はいだ)丘陵の丹後山南麓の上之町、南西部の吉井川畔の東鉄炮町などの要衝に置かれ、さらに西部に西寺町、丹後山南麓に東寺町を造り寺院を集め、東西の防備に備えました。

津山城は慶長9年(1604年)から元和2年(1616年)の、13年をかけて完成しましたが、城下町の完成には半世紀もかかったそうです。
津山の町は結構広いですから、堀を作ったり地面をならしたり、たくさんの家を建てることに時間がかかったのでしょうね。

津山城の石段と石塁はどんなもの?

津山城の石段と石塁はどんなもの?

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現在、津山城には石塁と2005年に復元された備中櫓、大名庭園である衆楽園などが残っているのですが、残っているものを説明しようと思います。

三の丸の表中門があったところから二の丸に登る石段は、城内の石段の中でも最も幅が広く段数も多く、豪壮さのある石段。
石段から正面を見上げると、本丸の長局の石塁が覆いかぶさる様に迫ってきます。

大手口の冠木門の上辺りから三の丸・二の丸・本丸の石塁を望むと、3本の線が3列に並行していて、石というものは自然のもので、決して直線を作りやすいものではないのに、直線的な美を感じ取ることができます。
これは中世末期から近世にかけて各地の城郭の石塁構築に携わっていた、近江の穴生衆(あのうしゅう)という石工の集団によるものだったそう。
石材は吉井川右岸の、現在石山と呼ばれる久米南郡八伏村の谷奥や金屋山(ともに今は津山市)から切り出されたといいます。

津山城には石塁が細かくたくさん残っているのですが、それらの石塁の上に櫓などが建っているのを想像すると、江戸時代の城の雰囲気が想像しやすいのではないでしょうか。
津山城には櫓が35棟もあったそうです。

本丸から三の丸にかけてのすべての側壁は石塁で構築され、特に二の丸から本丸を見上げる石塁の表面は「扇の勾配」と言われる曲線美。
石塁と石段で構成される通路はいくつもの鍵の手に曲げられ、要所には武者溜(むしゃだまり)と呼ばれる兵の待機所も設けられていました。







再建された備中櫓とは?

2005年に再建された二重櫓の備中櫓は南面の張り出した石塁上にあり、城下を見渡すことができる津山城の代表的な櫓の一つです。
「築城400年記念行事」として復元されたもので、その名は鳥取城主池田備中守長幸(ながよし)に由来するとされています。
美作の国なのに「備中」とついているのは、お隣の国ではありますけど変な感じがしますもんね。

忠政は長女の於松(おまつ)を長幸に嫁がせていて、長幸が津山城を訪れた際に完成したのが備中櫓であったと考えられ、池田家の紋の付いた瓦が見つかるなど、池田家と関係が深かったことが分かっています。

内部は御座之間や茶室などを備え、建具には「唐紙(からかみ)」を用いるなど、完全に御殿建築であり、なおかつ女性的な繊細な仕上げで、本丸御殿の再奥部であったことから、城主に近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられています。

私も備中櫓に行ったことがあるのですが、南側を見渡せて、景色も内部も立派なので、再建したいと思った津山市民の思いがわかる気がします。

大名庭園「衆楽園」とは?

大名庭園「衆楽園」とは?

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2代目藩主森長継は津山城の北の山北村に北屋敷を建て、北の山々を借景として取り入れ、中央に広く泉水を巡らせた庭園を作りました。
これが衆楽園で、その景色は京の仙洞御所の庭を模したそう。
北屋敷に至る道筋の両側には松並木が並べられ、近年まで「御北の松並木」として市民に親しまれていました。

明暦3年(1657年)には完成され、その後も増築が行われ、延宝3年(1675年)長継の側室のお貝が北屋敷に隠居し、長継の88歳の祝賀が行われたり、松平時代も藩主一族や重臣たちの清遊の場であったそう。

明治3年、最後の藩主・松平慶倫(よしとも)が庭園に付属する座敷に衆楽園の額を掲げ、庭園での曲水の宴が催されました。
それまではただ「北屋敷の庭園」という感じでそれ自体の名前はなく、ここで初めて「衆楽園」という名前が付けられたことになるでしょうか。

明治4年、衆楽園は松平家から北条県に引き継がれ、偕楽園と名称を変更。
水戸の偕楽園と同じで紛らわしいですね。
やがて管理は北条県から岡山県に移りましたが、この間の管理は不充分で、松平家が園地存続のため管理費用を負担したこともあったそう。
松平家からしてみれば、「市民の公園にしたんだから、ちゃんと管理してくれよ」っていう感じですよね。

松平家の熱意もあり、明治18年には岡山県立「津山公園」となり、大正14年には津山町に移管され、再び衆楽園の名が蘇りました。

天守閣とその回りの建物

文字だけで書いてもイメージがし辛いとは思うのですが、天守閣が往時にどんな姿をしていたか、説明してみようと思います。
津山城には5層の天守閣が石塁の上にあったとされ、下層から上層へ三角錐状に小さいものになっていくもの。
姫路城などのように、一般に天守閣の屋根は千鳥破風(はふ)や唐破風の様式施され、外見上の装飾美を一切排除誇るものが多いのですが、津山城の天守閣はそうした装飾美を一切排除したというのが特徴だったそう。
この型は津山城が参考にしたという豊前(福岡県)の小倉城の天守閣と同一です。

最上部の5層目は高欄が付いた廻縁(まわりぶち)が4方に巡らされていたそうで、遠望すれば4層の天守に見え、最上部に高欄(欄干、手すりのようなもの)付きの建物が乗った形に。
上層部に変化を持たせることにより単純な姿になるのを防ぐためという美的感覚的なものからそうなったそうです。
やはり、お城って「カッコつける」必要があるのですね。
大名の力を示すものですから。
言ってみれば、東京タワーやスカイツリーも日本という国の力を示すものですしね。

天守閣の南・西・北の3方は強固な石塁を築き、その上に平櫓をこしらえ、特に西側には長屋状の多聞(たもん)櫓を据えられていました。
多聞櫓は内部が廊下状の走櫓(はしりやぐら)で両側に二重櫓。
多聞櫓下の二の丸には南北一列に櫓が置かれ、南から昇櫓(のぼりやぐら)・塩櫓・白土櫓。
天守を守りやすい方角にたくさんの櫓が据えられてあったのですね。

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