秀吉に義を尽くした石田三成ってどうしてどうして悪人に仕立てられたの?

司馬遼太郎が書いた「関ケ原」という小説の一説に、こんな言葉があります。「自分は関ケ原の一挙を、義によって起こした。その理によって起こしたかのごとく誤られるのがつらい。といった」と、描かれています。どうして、そんなことをいったのか気になりませんか?今回は、石田三成がどうして悪人に仕立てられたのかを紐解いてみたいと思います。

石田三成とは?

石田三成とは?

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石田三成は秀吉への忠義を貫いた人物です。
近江の国(現在の滋賀県)出身で、若くして秀吉に認められ、才能を発揮して仕えています。
秀吉と共に出世した人物といっても過言ではありません。
秀吉の死後は五大老の一人として、秀頼を守り、関ケ原で西軍の主導者でしたが、家康に敗北し処刑されてしまいました。

功績に対する逸話をたくさん残した人物で、14歳の時お茶を秀吉に差し出した際のきめ細やかな心遣いを気に入られてから仕えるようになりました。
計算力に優れており「太閤検地」ではその才覚をいかんなく発揮しています。
朝鮮出兵でも三成はまとめ役をしており、豊臣家においてなくてはならない重臣だったのです。
でも、性格はきつく、理詰めで人から嫌われやすい性格でした。
地元の滋賀県長浜では、民衆に慕われる優しさも持った人でもありました。

頭脳戦で勝利した!賤ヶ岳の戦い

頭脳戦で勝利した!賤ヶ岳の戦い

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織田信長死後、後継者争いに決着を付けるために戦った合戦で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の諜報活動を行い勝利に導いたとされています。
「忍びのものを使い、百姓には柴田勝家の首を取る手柄を立てたものに褒美を取らせる」との情報を流したという地道な努力が勝利への道筋でした。

一生のうちに戦場に出向いて戦うことの少なかった三成ですが、この戦いでは絵巻が残されています。
石田三成公事蹟顕彰会所蔵の『石田三成公御一代絵巻』には賤ヶ岳の合戦で活躍する三成の姿が克明に描かれています。
しかし、三成が合戦に参加したという証拠が、これ以外にはないため信憑性は薄いようです。

和解に長けていた三成の島津攻めでの活躍

和解に長けていた三成の島津攻めでの活躍

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天正15年(1587年)、豊臣秀吉は、島津攻めを断行しました。
島津義久は和睦に至り和議を申し入れ、秀吉は在京を条件に赦免しています。
残っているのは、光秀の仕事の後始末です。
義久の娘亀寿を人質に差し出すように言い渡しました。
戦いの後も抵抗を続ける島津の重臣新納忠元と島津の家臣伊集院忠棟と共に説得し抵抗を断念させています。

島津の領地の検地でも、一役買いました。
検地を三成自身が行うことにより、増収部分を多く見つけ出したのです。
それにより、島津は家臣の所領替えを断行せざるを得ず、秀吉の直轄領や三成の知行地を領地内に設置することができました。
島津氏の領地の豊臣領地化を実現したのです。

謀略はあったのか?三成5大事件に迫る

謀略はあったのか?三成5大事件に迫る

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大和大納言秀長の死去後に次々と起きた事件は、利休の切腹から始まりました。
蒲生氏郷毒殺、秀次謀反疑惑など、三成に関する大きな5つの謀略疑惑があります。
この5人の人物は全て三成にとって目の上のたんこぶ的存在でした。
本当に謀略があったのかを探りたいと思います。

#1 千利休切腹事件

千利休切腹事件

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秀吉に忠義を尽くした千利休を切腹させた事件は有名ですね。
これに三成が一役嚙んだといわれています。
利休が切腹させられた原因とされる、大徳寺山門上に千利休の像があることを暴露したのが、光秀の友人である前田玄でした。
また、光秀と親しかった公家の吉田兼見の日記には、利休切腹後その妻が三成によって蛇攻めで処刑したとの噂がささやかれたことが記しています。

でも、利休の場合は茶具の目利きという名声のまま、高額な利益を得ていたという噂など悪い噂が続いていました。
また、娘を秀吉の側室にと所望されたが断ったとか、意見の不一致があったなど諸説あり、三成が悪事を働くことなく自然と切腹の道を歩んだとされます。

#2 蒲生氏郷毒殺

蒲生氏郷毒殺

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この毒殺事件に関する噂は、豊臣の重鎮蒲生氏郷(がもううじさと)が、40歳という若さで急死したことによるものです。
これも三成が引き起こしたといわれていますが、名医の曲直瀬道三が診察し病死と判明しています。
氏郷が死んだ時、三成は朝鮮に渡っており物理的に無理な話なのです。

しかも秀吉自身は氏郷を、東北の有力大名を抑えるための要として期待していたようで、毒殺されることは、まず考えられません。

#3 関白の秀次に、切腹を仕掛けたのは三成?

関白の秀次に、切腹を仕掛けたのは三成?

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秀吉の甥にあたる秀次を切腹に追い込んだのも三成という噂があります。
秀次は秀吉の嫡男だった鶴松が亡くなったことで、秀吉に子は望めないと養子になった人物です。
しかし、秀吉の側室である淀殿が、拾(豊臣秀頼)を生んだため、事実上邪魔な存在になったことからでした。

実の子ができたらやっぱりその子に家督を譲りたいと思うのは当たり前のこと。
謀反の嫌疑をかけて高野山へ追いやりその後切腹させました。
これもやはり信憑性に欠ける情報しかなく、三成が切腹へと追いやったという事実はありません。
謀反の詰問人の一人だったことと、秀次との関係が深かった人物への取り調べに三成が中心となったことが疑われた要因でしょう。

#4 家康暗殺計画を立てていた三成?

家康暗殺計画を立てていた三成?

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ここからは、秀吉死後の事件です。
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が亡くなり、6つだった秀頼には、五大老・五奉行による行動体制が始まりました。
ここで筆頭になったのは家康です。
秀吉の遺言により、前田利家が秀頼の後見人になり、家康は伏見城で政務を執る形で新体制が整いました。

家康の専横ぶりが目に付くようになったのです。
事実、婚姻による諸国大名を抱き込んでおり、三成ら五奉行による詰問が行われ、伏見城は一触即発状態に陥ります。
そこで、病床にいた利家を見舞って大阪に赴いた家康を暗殺しようと三成らが計画したというものです。
暗殺計画があったことは事実で、察知した家康が早々に大阪を後にしたため、実現しませんでした。
家康自身も伏見屋敷に戻った際、防備に適した向島に移っており、家康が暗殺される危機を感じていたことは現実と思われます。

#5 三成も狙われていた!

三成も狙われていた!

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三成にも暗殺計画があったんです。
秀次に切腹させた振る舞いなどにより、秀吉離れが始まっていたといわれています。
諸大名は、「天下は力あるものが持ち回りする」という考え方が生まれていました。
その政権担当者として、期待されていたのが家康です。
武力派のメンバーは、五大老・五奉行では無理と踏んでおり、三成などは大丈夫と考えていました。

前田利家が生きている間は収まっていましたが、死後はライバル的存在の加藤清正を始め7将が暗殺を計画。
察知した三成は、大阪から伏見に逃げました。
豊臣大名の内紛を利用し家康はまんまと三成を佐和山城へ蟄居させました。
ここから、関ケ原の戦いへと突き進んでいきます。

関ケ原の戦い

関ケ原の戦い

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慶長5年(1600年)に美濃国の関ケ原で、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする反徳川勢力の西軍が繰り広げた戦争。
この戦いは後に「天下分け目の戦い」といわれたことでも知られています。
実は、徳川へ就いた人物の中には、アンチ石田三成がいたことも確かな話です。

三成には、勝利しても恩賞を与える権限もなく、利に聡い武将の中にあり、義を貫くことの難しさを思い知らされます。
味方には裏切られ、友は次々と討たれました。
小早川秀秋が裏切ったこともあり敗北し、三成は捕えられました。
大阪に護送されその後、小西行長、安国寺恵瓊らと堺を引き回され、その後京都で奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれます。
10月1日に家康の命により六条河原で斬首となり、41歳で亡くなりました。
三条河原で晒らし首にされた後、京都東大寺の三玄院に葬らています。

徳川家康が宣伝した悪人としての三成

徳川家康が宣伝した悪人としての三成

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神君家康に対し姦計を企み、豊臣家に不忠をした人物として名を晒すことになった石田三成。
これは、家康によって後から印象付けられたものです。
このような噂を家康がたてる必要性があったのでしょうか。
石田三成を逆賊の罪びととして悪人扱いすることで、江戸幕府成立の正当性を周知させたという背景も見えてきます。

秀吉時代は、秀吉の天下統一に尽力を尽くし、秘書のような存在だったといってもいいでしょう。
しかし、インテリでマニアックな性格により、三成を快く思わなかった武力派の武将と仲良くなれなかったことが一番の三成の敗因と思われます。
もう少し石田三成が器用な人物だったら、世の中は変わっていたかも知れませんね。

悪人に仕立てられた石田三成の軌跡をたどってみませんか?

徳川家康は、自らを神格化するためには、秀吉を悪役にしたかったのです。
でも、秀吉の人気は根強く叶いません。
そこで、悪役にピッタリなのが、石田三成でした。
彦根市の佐和山には、今も三成の居城だった佐和山城跡があります。
家康の命で小早川秀秋によって全て壊されたはずの佐和山城ですが、石垣が400年経って発見されました。
ここに訪れると、石田三成の秀吉に対する義の思いを感じられるようです。
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ピーターラビット

Writer:

世界遺産ブームをきっかけに歴史に目覚めてから、国や城、庭園などの成り立ちに魅了された主婦です。何だろう?と思ったことを調べて、皆さんにお伝えすることで気持ちを共有できたら幸せだな~と感じながら仕事をしています。ちょっとマニアックな歴史記事ですが、軽い気持ちで触れてみてくださいね!

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