二度と繰り返してはならない太平洋戦争の歴史

「行くぞよい(1941)かと真珠湾」――日本史のテストのためにこうして太平洋戦争開戦の年号を覚えました。1945年まで続いたこの戦争では、敵と味方の兵士のほか戦地になった国々の住民や日本本土の一般人まで多数の犠牲者が出ましたが、なぜこの戦争が始まり、どのようにして終結したのでしょうか。この戦争で犠牲になった方々のことを思いながら、日本が体験した最後にして最大の戦争の歴史を振り返ってみましょう。

なぜ太平洋戦争は始まった?

なぜ太平洋戦争は始まった?

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1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、そして1914年の第一次世界大戦と、日本、いえ大日本帝国は10年ごとの戦争に勝ち続け、気がつけばアメリカやイギリスやフランスなど欧米の大国に肩を並べる国家になっていました。
第一次世界大戦後にできた国際連盟では常任理事国を務めましたが、1929年の世界大恐慌以降、国土面積も狭く地下資源にも恵まれない「もたざる国」大日本帝国は、満州事変をきっかけにして1933年に国際連盟を脱退。
1937年の日華事変(日中戦争)から泥沼の戦争に突入していたのです。

ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まりました

1940年に東京でオリンピックが開催されることになっていたのは知っていますか。
これが中止されたのは直接的には日本が開催国を辞退したことによるのですが、結局は別の国が開催国になったものの中止されてしまったのですよ。
ヨーロッパでは1939年9月1日にドイツ第三帝国が突然ポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が始まっていました。
ドイツやイタリアは枢軸国と呼ばれていましたが、日中戦争が激化する日本は、この戦争で躍進する枢軸国側について日独伊三国同盟を締結。

そのため、まだこの戦争に加わっていなかったもののイギリス側だったアメリカとの関係が悪化。
アメリカの提唱により、日本への石油輸出禁止などの経済封鎖がされてしまったのですね。
ドイツも日本も石炭には恵まれていましたが、石油はほとんど国内に油田がなく、ドイツはルーマニアやウクライナ、日本は当時は仏印と呼ばれていた東南アジアの油田をねらったのですよ。
ドイツは「生存圏」、日本は「大東亜共栄圏」と呼んだ地域にこれが含まれていたわけです。

「真珠湾を忘れるな!」とアメリカは叫びました

日本はそれでもアメリカとの交渉を続けていたのですが、1941年11月26日ハル・ノートを突きつけられた日本は、12月1日の御前会議で日米開戦を決定。
御前会議というのは、大日本帝国憲法で陸海軍を統率すると規定されていた天皇が臨席する会議のことですよ。
連合艦隊が秘かに択捉島からハワイを目指し、大本営からの通知を待っていましたが、ついに「ニイタカヤマノポレ」の暗号電報を受けた連合艦隊は、ハワイの真珠湾に停泊していたアメリカ海軍の艦船を総攻撃。
12月8日、アメリカ時間では12月7日に太平洋戦争が始まったのですね。

新高山というのは当時日本の領土だった台湾にある高山。
富士山より高くて、当時は日本で一番高い山だったのですね。
天皇の名前で宣戦布告がされたものの、英語訳に時間がかかり攻撃に間に合わなかったため、アメリカは日本の卑劣さに腹を立ててRemember Pearl Harbor!(真珠湾を忘れるな!)と叫んだということです。
これによってアメリカはドイツやイタリアとも戦争することになり、日独伊の枢軸国と米英を中心とする連合国との世界戦争になってしまいました。

東南アジアからオーストラリアに戦火が拡大

東南アジアからオーストラリアに戦火が拡大

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太平洋戦争の開戦は海軍によるハワイの真珠湾攻撃に代表されていますが、名目上は、アメリカやイギリスやフランスやオランダの植民地になっていた東南アジア地域を解放して日本を中心とする「大東亜共栄圏」を築き上げることでしたし、なんといっても東南アジアの油田が目当てですから、この地域にも日本軍は進軍したのですよ。

日本は短期決戦を目指しました

かつて戦争は、外交のための手段だった時代がありました。
真珠湾に停泊していたアメリカ海軍の主力艦隊を壊滅させた真珠湾攻撃により、日本にとって有利な講和が結ばれることも期待されていたようですが、結果としては戦火が世界に拡大。
中華民国までが日独伊に宣戦布告したのですよ。
12月10日、マレー沖で日本の攻撃機がイギリスの最新鋭の戦艦を撃沈。
太平洋戦争と呼んでいますが、インドシナ半島からマレー半島やフィリピン島を、日本軍は次々に占領していったのですね。

12月16日には日本海軍の象徴ともいえる戦艦大和が竣工したのですが、その同じ日に日本軍はボルネオ島に上陸。
12月21日には、東南アジアでただひとつの独立国であったタイ王国と日本は同盟。
そして、12月25日に、イギリスが支配していた香港を陥落させたのでした。
1942年1月2日には、ルソン島のマニラを無血占領。
1月11日にはマレー半島のクアラルンプールを占領し、1月15日には、現在はミャンマーと呼ばれる英領ビルマ攻撃部隊をタイに集結させたのですね。







南方軍は快進撃を続けました

かつて戦争は、外交のための手段だった時代がありました。
真珠湾に停泊していたアメリカ海軍の主力艦隊を壊滅させた真珠湾攻撃により、日本にとって有利な講和が結ばれることも期待されていたようですが、結果としては戦火が世界に拡大。
中華民国までが日独伊に宣戦布告したのですよ。
12月10日、マレー沖で日本の攻撃機がイギリスの最新鋭の戦艦を撃沈。
太平洋戦争と呼んでいますが、インドシナ半島からマレー半島やフィリピン島を、日本軍は次々に占領していったのですね。

12月16日には日本海軍の象徴ともいえる戦艦大和が竣工したのですが、その同じ日に日本軍はボルネオ島に上陸。
12月21日には、東南アジアでただひとつの独立国であったタイ王国と日本は同盟。
そして、12月25日に、イギリスが支配していた香港を陥落させたのでした。
1942年1月2日には、ルソン島のマニラを無血占領。
1月11日にはマレー半島のクアラルンプールを占領し、1月15日には、現在はミャンマーと呼ばれる英領ビルマ攻撃部隊をタイに集結させたのですね。

日本軍はアジアを越えてオーストラリアに迫りました

真珠湾では痛い敗北を喫したアメリカでしたが、2月1日には機動部隊をマーシャル諸島に派遣。
2月4日には連合軍の艦隊を日本の航空機が攻撃。
これをジャワ沖海戦といいますが、快進撃を続ける日本はこの海戦で勝利したのですが、撃沈した艦船の名前を間違えたりして、情報戦ではむしろこの時点で敗北していたと言ってもいいでしょう。
それでも日本軍は、2月14日にオランダ領スマトラ島のパレンパンを、落下傘部隊で攻撃。
落下傘部隊は派手だけれども、地上からの銃撃の絶好の標的になる危険なもの。
この時点ではまだ日本も幸運の女神に見放されていなかったということでしょうか。

翌日の2月15日にはシンガポールにいたイギリスとオーストラリア軍が降伏。
2月20日のバリ島沖海戦とニューギニア沖海戦、2月26日から28日のスラバヤ沖海戦、さらには3月1日のバタビヤ沖海戦と海戦が続きましたが、3月7日にはオランダ軍が降伏。
3月8日にはイギリスの委任統治領だったニューギニア島に上陸し、占領したのですよ。

ミッドウェー海戦で戦況は一転しました

ミッドウェー海戦で戦況は一転しました

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短期決戦を目指した日本軍は、太平洋でも東南アジアでも快進撃を続けましたが、ミッドウェー海戦では4隻の航空母艦を失い、そのために多数のベテランのパイロットも戦死。
短期決戦を目指して快進撃を続けていた南方軍も、中国との戦闘を続けていた関東軍と同じように、泥沼の戦争に突入していったのですよ。
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