全世界に戦火が飛んだ第二次世界大戦の歴史

1914年にオーストリアがセルビアに宣戦布告して始まった第一次世界大戦。クリスマスまでには終わると楽観的に考えられていたこの戦争はその後4年以上も続くことになり、20世紀に入って戦争は「総力戦」になったのでした。この反省から国際連盟が誕生して世界平和に向けての運動が盛んになったのですが、敗戦国ドイツでは敗戦の原因がユダヤ人による「背後からの一突き」だとされ、1933年にヒトラーが首相に任命されてから独裁体制が確立し世界大戦への道を突き進んだのでした。1939年にポーランドがドイツ軍に侵攻されて第二次世界大戦が始まりましたが、その後しばらくは戦闘のない奇妙な時間が流れたのですよ。最終的にはユダヤ人が絶滅収容所に送られたり、ドイツのおもな都市が瓦礫の山になったり、広島と長崎に原子爆弾が投下されたり……目をそむけたくなるような悲惨な爪痕を残した第二次世界大戦。どんな戦争だったのか、これからの世界平和のために検証してみることにしましょう。

ドイツ第三帝国総統ヒトラーはどんな人物だったのでしょうか

1933年1月30日に、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の党首アドルフ・ヒトラーがヒンデンブルク大統領によって首相に任命されました。
この瞬間に「ドイツ第三帝国」が誕生したと考えられていますが、当時のドイツの国家元首はあくまでも大統領。
それに連立内閣だったので、この時点ではまだヒトラーに独裁者としての力が十分にあったとはいえません。
翌年に高齢だったヒンデンブルク大統領が死去。
これによってヒトラーが首相と大統領をかねた総統になったのですよ。
もちろんその間にヒトラーは、ドイツの独裁者になるための綿密な計画を実行していましたが。

ヒトラーは毒ガスで「失明」したことがあります

ヒトラーはもともとは「ドイツ人」ではなく、現在のチェコとの国境にあるオーストリアの都市ブラウナウで1889年4月20日に生まれていますから、国籍は「オーストリア人」。
この地域の中心都市であるリンツの実科学校を卒業後、オーストリア帝国の首都ウィーンに出て画家を目指したのですが、画家になるというのはそう簡単なことではありませんね。
建築家に方向転換しようとしたものの、ギムナジウムを卒業していないのでウィーン大学への入学はできません。
のちにヒトラー自身が語っていることですが、ウィーンで学んだことは反ユダヤ主義を政治に利用することでした。

その後ドイツ帝国内のバイエルン王国の首都ミュンヘンに出たヒトラーは、世界大戦の志願兵として前線に。
のちに第一次世界大戦と呼ばれるこの大戦はヨーロッパだけではなく、当時イギリスと同盟していた日本や「モンロー宣言」によってヨーロッパ情勢から身を離していたアメリカまでも巻き込んだうえ、戦車や戦闘機や潜水艦のような新しい兵器までが戦闘に使用されたのですね。
現在は使用を禁止されている毒ガスさえ用いられ、ヒトラーはそれによって目が見えなくなって野戦病院で治療を受けたのですよ。
そしてヒトラーは入院中に戦争が終結したことを知ったのでした。

ヒトラーは刑務所のなかで『わが闘争』を書きました

一時的に目が見えなくなってしまったヒトラーでしたが、そのために逆にふつうの人には見えないものが見えるようになったのでしょうか。
第一次世界大戦は予想外に長引いてしまい、まずロシア帝国が革命のために戦争続行不能になり、次にドイツ帝国が兵士の反乱のためにやはり戦争続行不能になって終わりました。
敵兵の侵入がまったくなかったのに補給が間に合わず兵士たちの反乱が起こって「敗戦」したドイツでは、「暴力団」とでも呼んでいいような半ば軍人のような人たちの集団によって不穏な空気が流れていたのですよ。
目が見えるようになったヒトラーもこのような政治団体のひとつである「ドイツ労働者党」に入党し、たちまちその党の実権を握ったのでした。

「ナチス」という言葉を聞いたことのない人はいないでしょうが、これは{ドイツ労働者党}の後継政党である「国民社会主義ドイツ労働者党」の党員たちを一般の人たちが見下していった言葉なのですよ。
イタリアでムッソリーニ率いるファシスト党がクーデターに成功したことに刺激されて、ヒトラーもミュンヘンで「一揆」を起こすのですが、これはあっさり鎮圧され、ヒトラーは5年の実刑判決を受けて服役。
その服役中に『わが闘争』を書き上げたのですが、わずか1年足らずで仮出所したときにはヒトラーはもう、一部の人たちからは「英雄」と賞賛される人物になっていました。

ヒトラー率いるナチ党は選挙で大躍進しました

ヒトラー率いるナチ党は選挙で大躍進しました

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1933年1月30日にヒンデンブルク大統領によって首相に任命されるまでの約10年間に、反ユダヤ主義を掲げるナチ党は選挙戦で大躍進。
戦争に敗れた記憶もないのに敗戦国とされヴェルサイユ条約で多額の賠償金の支払を命じられ、そのうえ軍隊までが解体されたドイツ国民の不満を、ナチ党をはじめとしていくつかの政党が吸収したのですね。
敗戦によって皇帝が退位したためにドイツはもう「帝国」ではありませんでしたが、同盟国だったオーストリア=ハンガリー二重帝国がチェコスロバキア共和国をはじめとするいくつかの後継国家に分裂したのとはちがって、領土は帝国時代とほとんど変わらなかったのですよ。

ただしこの「ほとんど」が問題ですよね。
例えばラインラントにはフランス軍が進駐していて、ドイツ領であってドイツ領ではない状態。
現在はポーランドになっているダンツィヒはドイツでもポーランドでもない自由都市。
そしてかつてプロイセン王が即位したケーニヒスベルクとその周辺は、ドイツから分離された「東プロイセン自由州」。
ワイマル憲法のもとで共和国になっていたドイツですが、ヒトラー率いるナチ党はドイツ国民の不満を集めて選挙で大躍進。
ただし、第一党になったというわけではないことに注目してくださいね。







ドイツ第三帝国は第二次世界大戦への道を突き進みました

ドイツ第三帝国は第二次世界大戦への道を突き進みました

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1932年の大統領選挙でヒトラーは第一次世界大戦のとき将軍だったヒンデンブルクに敗れましたが、そのヒンデンブルク大統領によってその翌年首相に指名されたヒトラー。
ナチ党は選挙で大躍進したとはいっても第一党ではなく、ヒトラー首相の内閣も連立内閣だったのですよ。
それがあっという間に独裁政権を確立したヒトラー。
しかもクーデターでも革命でもなく、全権委任法のような法律をつくることで合法的にやり遂げたのですから不思議ですね。

国会議事堂焼失事件によってヒトラーの独裁が始まりました

1月30日に首相に任命されたヒトラーは、2月3日にはもう「東部地域でのドイツ国民の生存圏」を公表しています。
それによって国民の人気を得る一方、2月4日には集会の自由や出版の自由などを制限。
この時点ですでにドイツの支配地域を広げるための戦争が暗示されていたのですね。
2月27日には国会議事堂が何者かによって放火される事件がありましたが、共産党員のしわざとされてそれ以後は共産党が禁止されたのですよ。
ソ連が共産党の一党支配の国家だったので、西側では共産党に対して心理的抵抗があったわけです。
その共産党のベースになっている思想であるマルクス主義の創始者カール・マルクスは、ドイツ系ユダヤ人だったのですから、反共と反ユダヤ主義の二本柱ということでしょう。

3月24日にはこれを受けて全権委任法が制定されましたが、これをナチによる独裁の始まりとする学説が有力です。
ヒトラーは演説するにあたって俳優の演技を勉強したということですが、独裁体制が確立したあとに行われた最初の外交についての演説では、なんと平和への意志を表明しています。
ヒトラーの演説はすべてが「演技」だったと考える根拠になりますね、その一方で10月14日には国際連盟を脱退したかと思うと、翌1934年1月26日にはポーランドと不戦条約を締結。
もちろん条約はいずれ破るために結ぶものという歴史の大原則がありますから、この時点でヒトラーはもうポーランド侵攻を計画していたに違いありませんね。

突撃隊を粛正して国防軍の支配権を手に入れました

突撃隊を粛正して国防軍の支配権を手に入れました

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ナチ党にはもともと軍隊に似た組織であるSA(エスアー)と呼ばれる突撃隊がありました。
すでに述べましたように第一次世界大戦後のドイツには半分は軍隊で半分は暴力団のような集団があちこちにあって、今や政権政党となったナチ党も前身はそのような集団だったのですね。
その名残がSAということですが、半分は軍隊といっても近代戦を戦えるような組織力も知識も持ち合わせていないため、ヒトラーにとってエルンスト・レームの率いるこのSAは邪魔な存在。

1934年6月30日は「長いナイフの夜」と呼ばれていますが、いくつかの罪状をあげられてレームをはじめとしてこのSAの隊員たちが粛正されたのですよ。
それは7月2日まで続いたのですが、これでナチ党内部に軍隊組織のようなものがなくなり、ドイツ国家の軍隊である国防軍に一本化。
8月2日に高齢のヒンデンブルクが死んで、国防軍は完全にヒトラー個人の指揮下に入ったのですね。
なおナチ党にはSAとは別にSSと呼ばれる親衛隊がありましたが、これはエリートたちを集めていたのでSAのように粛正されることはありませんでした。

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