明治の新政府を生む苦しみでもあった「戊辰戦争」の歴史

幕末、勤皇派と佐幕派とに分かれてあちこちで争いが起こりましたが、徳川慶喜(よしのぶ)が幕府の将軍になったとき、政権を朝廷にお返しするという大政奉還をしたのです。これで「明治維新」になったのかというと、そもそも明治新政府の構想などないも同然の状態だったので、必然的に旧幕府の勢力と、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府の勢力との戦いに発展。これを戊辰戦争と呼んでいますが、どんな戦争だったのか、そしてどのような形で戦争が終結したのでしょうか。

大政奉還がすべての始まりでした

1866(慶応2)年12月5日に征夷大将軍となった徳川慶喜は、翌年の1867(慶応3)年10月14日に大政奉還をして、12月9日には将軍職を辞職。
徳川家最後の将軍は在位わずかに1年でした。
日本史の教科書ではこの年を「明治維新」とするのですが、この時点ではまだ何をどうするのか何も決まっていない状態で、まもなく旧幕府軍と新政府軍との戦いが起こりましたね。
その原因はどこにあったのでしょうか。

徳川慶喜のねらいはどこにあったのでしょうか?

徳川慶喜のねらいはどこにあったのでしょうか?

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たった1年間の将軍でしたが、徳川慶喜にはいろいろ考えがあったようです。
慶喜はもともとは徳川将軍家ではなく、水戸徳川家に生まれたのですよ。
尾張と紀伊と水戸の徳川家が御三家。
将軍家に跡継ぎがいなくなったときにはこの御三家から次の将軍を選ぶというシステムを、家康が作っていたのですね。
水戸の徳川家は、水戸黄門として有名な水戸光圀以来「副将軍」という地位にあったため、将軍を出すことはありませんでした。
慶喜はその水戸徳川家9代目の徳川斉昭の7男。
どう考えても将軍になれる順位ではありませんね。

8代将軍吉宗のときに、この御三家よりも将軍継承順位が上位の田安家と一橋家が生まれ、その後清水家を加えて御三卿ができました、慶喜はこの一橋家を継ぐことになり、一気に将軍になる可能性が高くなったのですね。
14代将軍家茂(いえもち)が1866(慶応2)年8月29日に20歳の若さで、しかも江戸城ではなく大坂城で死去。
「公武合体」の象徴として皇女和宮(かずのみや)と結婚した家茂でしたが、徳川幕府はもう風前の灯火。
とはいえ、たとえ倒幕が行われたとして、その後の政治体制はどうするのか。
薩摩藩と長州藩が手を組んだとはいえ、もとは敵でしたから、いつまた元に戻るかわかれませんね。
なれるはずもなかった将軍になった慶喜には、大政奉還することによって幕府に反抗する諸藩を試してやろうという下心があったようですね。

慶喜はフランス式の歩兵部隊をつくりました

慶喜は結果としてはたった1年しか将軍職に就かなかったのですが、大政奉還によって幕府から政治の実権が失われるとは考えていなかったようです。
むしろ、幕藩体制を根本的に見直して日本をひとつの統一された国家にしようとしたのですね。
そうしないかぎり、諸外国との関係を円滑に行うことができません。
長州藩や薩摩藩がかつてそれぞれ単独で諸外国と戦争をしたことがありますが、それではもうやっていけないのが明確になっていたのですよ。
長州藩や薩摩藩もそれがわかったからこそ同盟をして、倒幕を目指していたのですから。

フランスはルイ14世の絶対王政の時代から中央集権化が進んでいて、フランス革命で王政が倒れ、その後共和制から帝政になっても国家としての統一性は保たれていました。
それに比べると、日本の幕藩体制は幕府の力が弱くなるのに反比例して諸藩の独立性が強くなっていましたね。
慶喜は1866(慶応2)年8月に打ち出した方針によって、幕府の兵制改革をフランスから学ぶことにしたのですね。
翌年1月にフランスから陸軍教官を呼び寄せて、「フランス伝習兵」という部隊を創設。
この部隊にはシャスポー銃という最新式のフランス製の銃を装備させたのですよ。

王政復古のクーデターが起こりました

王政復古のクーデターが起こりました

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大政奉還によって日本の政府を刷新し、新政府の中心に自分がいるはずだともくろんでいた慶喜。
倒幕派の力を結集してその力でもって幕府を倒そうとしていた動きが、大政奉還によって急ブレーキをかけられた形になったわけです。
歴史を学んでいてよく出てくるパターンが、共通の「敵」を倒すために本来は相反するさまざまな「力」が結集するというものですね。
その「敵」を倒したあとは、もともと統一性のないそれらの「力」が分裂し、内乱状態が続くこともよくありますね。

倒幕派の「力」の結集をそらすことに成功した慶喜でしたが、このままでは倒幕どころか、慶喜が主導する新政府ができあがってしまうと恐れた薩摩藩は、越前藩・尾張藩・土佐藩・安芸藩とともに、12月9日にクーデターを起こし朝廷の力を握って王政復古の大号令を出したのですね。
この日に慶喜が将軍職を解任されたわけです。
禁門の変のあと謹慎していた長州藩も復権。
ともかく新政府は旧幕府の勢力の排除には成功したということになります。
しかし年号はまだ「慶応」なので、これをまだ明治新政府と呼ぶことはできませんね。







鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗北しました

「とば口」という言葉を知っていますか。
物事の手始めというような意味なのですが、この言葉の語源は、京都と大坂(現在は大阪です)とのあいだの鳥羽街道の出入口からきているのですよ。
京都は894年に桓武天皇が造った平安京から始まりましたが、都を造るときにはその都を囲む山や川の配置も大事なことです。
周囲を山に囲まれた京都は、琵琶湖を水源とする淀川が大坂への通路なのですね。
この淀川に沿って鳥羽街道が通っているのですが、大坂から京都への入口かつ京都から大坂への出口がまさに「とば口」というわけです。
そしてこの「とば口」での戦いがまさに戊辰戦争の発端ということになります。

慶喜は二条城から大坂城に移りました

慶喜は二条城から大坂城に移りました

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クーデターはおもに薩摩藩の西郷隆盛率いる薩摩藩兵3千人が起こしました。
たちまち御所は制圧され、摂政・関白や征夷大将軍などの平安時代以来の官職はすべて廃止。
総裁・議定・参与という、それまで聞いたこともない役職が生まれたのですよ。
総裁には有栖川熾仁(たるひと)親王が選ばれ、尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)は議定に入ったものの、慶喜はこの新政府の人事からははずされたのですね。
慶喜はこのとき二条城にいたのですが、この知らせを聞いて激怒する幕臣たちをなだめる側に回るほかありませんでした。

このままでは京都で内戦が起こるかもしれず、そうなったら、慶喜は天皇に逆らったということで「朝敵」の汚名を着せられるかもしれませんね。
それだけはどうしても避けたい慶喜は、二条城を退去して大坂城に下ったのですよ。
そこでしばらく様子を見ようということですね。
12月16日に慶喜は大坂城でイギリスやフランスなど6カ国の代表と会っていますから、いずれは自分に政権が戻ってくると考えていたのでしょうね。
実際、総裁・議定・参与の「三職会議」は二転三転。
慶喜の狙い通りということですね。

江戸の薩摩藩邸が攻撃されました

クーデターで生まれた三職会議のメンバーは寄せ集めですから、話し合いで解決するのは難しいのは当たり前かもしれませんね。
こんなとき、かつての倒幕の密勅のような共通の「敵」の存在が必要になってきます。
それはもちろん旧幕府ということになりますね。
慶喜が大坂城でじっとことの成り行きを見守っていた頃、西郷隆盛の密命を受けた浪士隊が江戸の町を荒らし回っていました。
浪士隊というのはまさに盗賊のようなもの。
捕まりそうになったら江戸の薩摩藩邸に逃げ込む始末。

勤王倒幕の旗を掲げて暴れ回ったり、庄内藩の警備屯所に銃弾を打ち込んだり、その乱暴狼藉はどんどんエスカレート。
そしてついに12月23日、江戸城二の丸が火事になったのでした。
庄内藩を中心にして江戸を警備するいくつかの藩が、江戸の薩摩藩邸を攻撃する勢いになったのでした。
将軍不在の江戸では、主戦派の勘定奉行小栗上野介がこれを後押しして、12月25日に薩摩藩邸を攻撃。
戦いは市街戦になり、多数の死傷者も出たのですよ。
こうして、幕府側からの攻撃で戦争は始まったのでした。

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