世界の4分の1を支配していた!? モンゴル帝国とチンギス・ハンの歴史

世界の4分の1を支配していた?万里の長城をどうやって突破したの?実は源義経?子孫が1600万人いるって本当?数々の伝説を残し、世界最強最大の帝国であるモンゴル帝国の礎を築いたチンギス・ハン。ナポレオンと並ぶ”戦いの天才”であったと称された史上最強の征服者は、どのようにしてそこまで強い国を作り上げたのでしょうか。その生い立ちと生涯を追いかけながら、モンゴル帝国の強さの秘密に迫ります。

モンゴル帝国とは

モンゴル帝国はこんなにすごい国だった!

モンゴル帝国はこんなにすごい国だった!

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モンゴル高原に現れたチンギス・ハンが遊牧民を統合し1206年に築いた帝国です。

初めは、大陸の北東部の遊牧民族の部族連合でしたが、チンギス・ハンは自身の弟や僚友、統括した各部族の王たちと共に強力な軍事態勢を敷き、その勢力を東西へと伸ばしていきます。
モンゴル帝国はひとりの皇帝が統治する国ではなく、チンギス・ハンの腹心たちがそれぞれ分かれて集団を作っていました。
それが帝国の躍進の原動力となり、ユーラシア大陸全土に広がっていくことになったのです。

その勢力はユーラシア大陸全体に及んでいて、華北はもちろんのこと、東ヨーロッパやトルコ、シリア、アフガニスタン、チベット、ミャンマー、朝鮮半島に至るまで、地上の陸地の4分の1を占めていたと考えられています。
モンゴル帝国の傘下に入った領土面積は最盛期の1279年には3300万平方キロメートルに。
人口は1億人を超えていました。
19~20世紀初頭の大英帝国には及びませんが、13世紀という時代や領地が全て陸続きであることなどを考えれば、”史上最大”の称号は文句なしと言えるでしょう。

チンギス・ハン自身はこうした領土拡大の途中、1227年に遠征先で亡くなっていますが、その意思は息子や孫たちに受け継がれていきます。
彼らは既に与えられていた土地にそれぞれ王国を築いていき、モンゴル帝国はチンギス・ハンの子供や孫たちが治める国々による連合国家となっていくのです。

チンギス・ハンが没してから半世紀近くの間、彼の子孫たちは、大陸の北東部を中心に各地に広がり、様々な文化圏に及んでいきました。

モンゴル帝国と元王朝の違いは?

モンゴル帝国と元の違いを知るには、その過程を見ていく必要があります。

まず、チンギス・ハンの次男のチャガタイが治めていた中央アジア付近はチャガタイ・ハン国に、その北部には三男オゴタイが興したオゴタイ・ハン国。
さらに、西側には長男ジョチとその次男バトゥが統治していたとされるジョチ・ウルス(またの名をキプチャク・ハン)が広がり、孫のひとりであるフラグは西方のイスラム圏まで勢力を伸ばし、中東全域にイル・ハン国を打ち立てます。
ユーラシア大陸全域がチンギス・ハンの子孫が建てた国によって統治されるようになりました。

いくら連合国家とはいっても、ひとりの皇帝が統治するには広すぎます。
国が大きくなるにつれ、チンギス・ハンの子孫同士で争いになることもありました。

そんな中、第5代皇帝として即位したのがチンギス・ハンの孫、フビライ・ハン。
フビライはより強い国を目指して、大陸の北東部、つまり中国の支配に力を入れていきます。
広大なユーラシア大陸に住む漢民族たちを統治するため、都を大都(北京)に移し、国号を「元」と改めました。

モンゴル帝国と元の違いを説明するのはけっこう難しい

モンゴル帝国と元の違いを説明するのはけっこう難しい

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元は、領土としてはモンゴル帝国のうちの一部にあたりますが、皇帝が治めていた国の中枢部分の呼び名を漢民族風に改めたもの。
国を強くするため侵略を続け、広くなりすぎて、様々な文化圏の領地を納めなければならなくなったモンゴル帝国。
それでも中心は大陸の東側であり、中国を支配することが一番の目的だったのでしょう。

13世紀後半の地図を見ると、チャガタイ・ハンやオゴタイ・ハン、イル・ハン、キプチャク・ハンと並んで元が存在していたような構図になっています。
しかし、元がモンゴル帝国の一部というわけでもなく、かといって元が他のハンを支配していたわけでもなく、モンゴル帝国=元というわけでもない。
もしフビライが、皇帝が統治する領地を「元」と中国風の呼び名にせず、○○ハンと名付けていたら、様子が変わっていたかもしれません。
しかしおそらく、漢民族を支配するためには名を改める必要があったのでしょう。
ですが、かといってイスラム圏やトルコのほうまで急に全部漢民族風の国号にするわけにもいかなかったはず。
そこで、結果的に、モンゴル帝国というふわっとした連合体制が生まれたのだと考えられています。

あまりに領土を広げ過ぎたため、「モンゴル帝国と元はどう違うの?」と、後の世の人々(私たち)を悩ます要因を作ってしまったのです。

北方騎馬民族はなぜ強い?







キーワードは”機動力”

キーワードは”機動力”

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この後で、チンギス・ハンの生い立ちを追いかけてまいりますが、その前に、なぜモンゴル帝国がこのように領土を広げることができたのか考えてみましょう。

中国大陸の北部・西部には、紀元前4世紀頃には既に遊牧民族が数多く存在していたと考えられており、歴代中国王朝はいずれも、彼らの存在に脅威を感じていました。
万里の長城が長年に渡って補修・延長され続けてきたのも、北方の遊牧民族から町や交易ルートを守るためだったと考えられています。

モンゴル帝国が建国・繁栄した12世紀~13世紀という時代を考えれば、北方騎馬民族の強さの理由はずばり、機動力でしょう。
彼らの生活に馬は不可欠。
ただ馬を扱うだけではなく、乗りこなし、広大な土地を短時間に駆けることができ、狩猟を行っていたため馬上からの弓の照射能力も優れていたと考えられています。

都市部で編成される軍隊が騎兵技術を身につけるためには調練が必要ですが、騎馬民族なら子供のころから身についていること。
騎馬は彼らにとって生きるために必要な技術です。
馬は身体の一部と言ってもいい。
その技量の差は歴然です。

歩兵が中心の軍隊では、移動にも時間がかかりますし、複雑な作戦や、戦況に合わせた臨機応変な対応はほぼ不可能。
しかし騎馬なら素早い移動も可能で、相手の出方によって柔軟な戦術が可能となります。
もちろん大軍による大規模遠征も、歩兵中心の軍隊に比べれば容易です。

遊牧生活が彼らを強くした

北方騎馬民族の強さの理由、機動力の他にもうひとつ挙げるなら、彼らの生活が定住ではなく遊牧であったことに着目すべきでしょう。
町や集落、農耕を行わない彼らにとって、安定した生活を行うために”略奪”は不可欠でした。
より強い力を持ち、周辺の集落を攻撃して物を奪う。
逆に、こちらが襲われることもある。
身を守るために”砦を築く”のではありません。
”攻撃こそ最大の防御”。
“さらに強い力を、多くの仲間を必要としたのです。

もちろん、北方騎馬民族が常に戦いに勝っていたわけではありません。
城塞を攻めきれず敗退したことも多々あったようです。
しかし彼らの戦いは、守るためではなく生きるため。
戦いを止めることはありませんでした。

類稀な機動力。
大義ではなく生きるために、戦うことが当たり前の生活。
何度も何度も、勝つまで戦い続ける姿勢。
しかし、それなら、モンゴル帝国以外にも、北方騎馬民族国が誕生していてもおかしくありません。
匈奴、スキタイ、突厥、契丹など、強い力を持った北方民族はたくさんありましたが、その中で、モンゴル帝国はどうしてこんなにも突出して強かったのでしょうか。

モンゴル帝国は優れた軍事国家だった

モンゴル帝国は優れた軍事国家だった

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そこで登場するのがチンギス・ハンです。
彼は騎馬民族の強さに、国家としての要素を取り入れていきました。

強すぎる遊牧民族は力が全て。
略奪を繰り返して力を増すと、一部の者に権力が集中し、弱い部族を抱き込んで大軍になりますが動きが鈍くなり、騎馬民族としての機能が失われて衰退する、ということが繰り返されていました。
また、なまじ武力があるため、一度内紛が起きると収集がつかなくなり、そのまま潰し合って消滅してしまうことも。
武力があるだけでは生き残っていけないことを、チンギス・ハンは悟っていたのかもしれません。

チンギス・ハンは比較的早い段階から、大軍をひとつに束ねて無駄なく統率できる方法を見出していました。
投石機や火薬を使った武器など、新しい攻撃方法の模索・研究にも余念がなかったようです。
諜報活動のようなことも頻繁に行っていたのだとか。
彼は非常に寛容な人柄であったとも伝わっています。
古い体質やプライドにとらわれず、新しいことにどんどん挑戦していくことができたのかもしれません。

このようにしてモンゴル帝国は、それまでの遊牧民族が成し得なかった東西文明地域の征服、果ては史上最大の大帝国へと発展していきました。
遊牧騎馬民族としての強さ、荒々しさはそのままに、近代的な軍事国家の体を整えていったチンギス・ハン。
しかし、その道のりは決して、順風満帆とは言えない、大変厳しいものでした。

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