将軍の権威ってすごい!そのしぶとさで信長を困らせた「足利義昭」とは?

皆さんは足利義昭という人についてどんなイメージを持っていますか?「室町幕府最後の将軍で、織田信長を語る上で出てくる脇役」、そんなイメージですよね?しかし、敢えてその脇役・義昭に焦点を当ててみたいと思います。義昭の持つ将軍の権威とはどのようなもので、どのようにして信長を苦しめたのか?また京を追われた後の義昭については皆さんもあまり知らないのではないかと思いますが、どこに住み、どんなことをして過ごしたのか?足利義昭という人物を、兄・義輝と、互いに利用し合った織田信長を通して見ていきたいと思います。

義昭の兄「剣豪将軍」義輝とは?

義晴・義藤(義輝)と三好長慶との戦い

義晴・義藤(義輝)と三好長慶との戦い

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義昭は室町幕府の12代将軍・義晴を父に持ち、同母兄に義輝(よしてる)がいたため、足利家の家督相続者の慣例として仏門に入り覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺の権少僧都にまで栄進したため、覚慶はこのまま高僧として一生を終えるはずでした。

義昭のことを語るなら、父・義晴と兄・義輝のことを先に語ったほうがわかりやすいと思います。

義輝は義晴の嫡男として生まれ、幼名は菊童丸。
義晴のころの幕府は相次ぐ戦乱で実権を失っていて、家計の維持すら困難な状況。
さらに管領の細川晴元と権威争いで対立し、義晴と菊童丸は近江と京を帰還と脱出で行ったり来たりします。
天文15年(1546年)12月、菊童丸はわずか11歳で父から将軍職を譲られ、義藤(よしふじ)と名乗り、天文17年(1548年)、義晴は晴元と和睦して京に戻りました。

しかし細川晴元の家臣の三好長慶(ながよし)が晴元を裏切り、天文18年(1549年)6月、江口の戦いで晴元が長慶に敗れたことで義晴・義藤父子は再び近江坂本へ退避。
翌年、義晴が穴太(あのう、大津市)にて死去し、義輝は中尾城(京都市左京区)で三好氏と戦いますが堅田へ逃げ、翌年に朽木へ。
その後義藤は長慶を暗殺しようとしますが、天文21年(1552年)1月、細川氏綱(うじつな)を管領にするという条件で長慶と和睦し、京に戻りました。

義輝と長慶の和解

ただし義藤が将軍というのは有名無実となり、長慶とその家臣である松永久秀の傀儡(かいらい、操り人形にされること)に。
そのため義藤は再び晴元と協力し長慶と戦いますが、敗れて近江朽木へ再び逃れ、この地で5年を過ごし、この時名を義輝に改めています。

永禄元年(1558年)5月、六角義賢(承禎(じょうてい))の支援で晴元とともに坂本に移り、翌月、如意ヶ嶽(にょいがたけ、京都の東山にある山の一つ)に布陣して三好長逸(ながやす、三好家の長老的存在で三好三人衆の一人)と戦い、最初は優勢でしたが、途中で六角義賢の支援を打ち切られ、義輝の思うような展開にはならず。
11月、六角義賢の仲介で和議が実現し、5年ぶりに京へ入り、御所での直接的な政治を行います。

しかし長慶は義輝の権威に取り込まれることを恐れ、なおかつ義輝との和解も難しく(将軍とはいえ、何度も戦った相手と仲良くするのは難しいですよね)、永禄2年(1559年)12月に嫡男の孫次郎が義輝から一字をもらって「義長」(よしなが)と名乗らせると、三好家の家督と本拠地の摂津国芥川山城(あくたがわやまじょう)を義長に譲り、河内国飯盛山城(いいもりやまじょう)へ移り、自分と義輝との間に距離を置くことで関係の安定化を図りました。

永禄の変で義輝はなぜ死ぬことになった?

永禄の変で義輝はなぜ死ぬことになった?

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義輝は幕府の権力と将軍の権威の復活のために、頻繁に大名同士を調停。
甲斐の武田信玄と越後の長尾景虎が川中島で戦ったことの調停も行い、長尾景虎の関東管領職就任を許可。

永禄元年(1558年)義輝が帰京してからも三好長慶の権勢は続き、これに反対する畠山高政と六角義賢が蜂起し、久米田(くめだ、大阪府岸和田市)の戦いで三好実休(じっきゅう)が死ぬと、三好氏に衰退の影が。
永禄7年(1564年)7月に長慶が病死し、義輝はこれを機に幕府権力の復活に向け、さらに政治に力を注ぎますが、松永久秀と三好三人衆(三好長逸(ながやす)・三好政康(まさやす)・岩成友通(いわなりともみち)の三人)にとって直接統治にこだわる義輝は邪魔な存在でした。

久秀の長男・久通(ひさみち)と三人衆は10代将軍義稙(よしたね)の養子・義維(よしつな)と組み、義維の嫡男義栄(よしひで)を新将軍にすることを朝廷に掛け合いますが受け入れられず。
義輝が頼みとしていた六角義賢も近江を離れられなくなっていました。

永禄8年(1565年)5月19日、久通と三好三人衆は主君・三好義継(よしつぐ)とともに約1万の軍勢とともに御所へおしかけ「将軍に要求がある」と取次ぎを求め、奉公衆の進士晴舎(しんじ はるいえ)が訴状の取次ぎで往復する間、三好・松永勢は四方の門から侵入して攻撃を開始します。

剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)から直に教わったという薙刀(なぎなた)で義輝も奮戦、義輝の家臣も激しく応戦しますが多勢に無勢。
義輝は寄せ手の兵たちに四方から畳を盾として同時に突きかかられ死亡、昼頃には義輝主従全員が討死しました。
この事件を「永禄の変」といい、義輝は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」という辞世の句を残しています。
無念な感じがありますね。







スポンサー大名を求めて諸国を流浪した義昭

還俗し将軍になることを決意した義秋

還俗し将軍になることを決意した義秋

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この永禄の変で覚慶(義昭)も久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視されましたが、義輝の側近の和田惟政(これまさ)や細川藤孝(ふじたか)によって助けられ、伊賀の国へ脱出。

義輝も頼りにしていた近江の六角義賢の許可を得て覚慶は甲賀の和田城(和田惟政の居城)に身を置き、将軍になることを宣言。
その後野洲郡矢島村(守山市矢島町)を在所とし、上杉輝虎(てるとら、謙信)に室町幕府の再興を依頼。
そして永禄9年(1566年)2月17日、覚慶は矢島御所において還俗(僧になった人が一般人に戻ること)し、「義秋」と名乗りました。

義秋は輝虎と河内国の畠山高政、能登国守護の畠山義綱と親密に連絡を取り、特に高政は積極的に義秋を支持し、弟の昭高(あきたか)を義秋の家臣に。
六角義賢は上洛に当初は積極的で、和田惟政に命じて、北近江の浅井長政と織田信長の妹であるお市の婚姻を、実現させるように働きかけています。
義秋と六角・和田の構想は、敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、さらには武田氏・上杉氏・後北条氏らの和解を図り、彼らの協力で上洛を目指すものでした。

信長の力を借り、15代将軍へ

実際に和田と細川藤孝の説得で信長と美濃の斎藤龍興(たつおき)は和解し、信長は六角氏の勢力圏内を通って上洛することに。
しかし、織田軍は斎藤龍興に襲撃され尾張へ撤退、さらに六角義賢が三好三人衆と内通したという情報が入り、義秋は妹婿の武田義統(よしむね)を頼って若狭国へ。
しかし、若狭武田氏も上洛できる状況ではなかったため、義秋は越前の朝倉義景の元へ。
義景は義秋を奈良に脱出させた黒幕だという説がありますが、積極的な上洛の意思を示さなかったため、義秋の越前滞在は長い期間に。
義秋がそうこうしている間に永禄11年(1568年)、京では三好三人衆が義栄をかつぎ上げて将軍にしてしまいます。
誰も助けてくれる大名がいないために、自分がなるはずだった将軍の座を取られてしまったわけで、力がないから仕方がないとはいえ、悲しいものですね。

永禄11年(1568年)4月15日、義秋はようやく元服式を行い、「義昭」と改名。
そして朝倉家の家臣だった明智光秀のすすめで、信長を頼り尾張国へ移ります。
義昭は「流浪の将軍」と言われていますが、よくこんなにいろいろな人を頼っていけるものですね。
現代の就職活動、もしくはスポンサーとかパトロン探しということになりますか。

永禄11年(1568年)9月、義昭は織田軍と浅井長政軍に守られて、ついに上京。
これを見て三好三人衆は京から撤退し、将軍義栄も病死したため、義昭は将軍宣下を受け、15代将軍となります。

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