一夜城や水攻めもあった?戦国オールスターが小田原城を包囲した「小田原征伐」とは?

小田原征伐は豊臣秀吉が天下統一を目前にして関東の北条氏と戦い、武田信玄や上杉謙信でも落とせなかった難攻不落の城・小田原城を全国の大名を動員して大軍で包囲した戦ですが、小田原城とはどんな城で、どのようにして小田原征伐は行われることになったのか?また、「一夜城」や「水攻め」など派手な戦法はなぜ行われたのか?「のぼうの城」で有名な忍城の戦いとは?そして、小田原征伐はどんな結果に終わったのか?それらについて見ていきたいと思います。まずは小田原城がどんな城かを見ていきましょう。


小田原城はどのようにしてできた?

小田原城はどんな堀と土塁を持っていた?

小田原城はどんな堀と土塁を持っていた?

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小田原城は現在の神奈川県小田原市にあり、現在は「小田原城址公園」となっています。
復元天守が建つ辺りは近世の城跡で、戦国時代の小田原城の主郭はその北側、つまり小田急線とJRの線路を挟んだ山の中腹にありました。
八幡山古郭と呼ばれ、現在の県立小田原高校の敷地になっている所がその中深部です。
しかし、残念なことに主郭部では「戦国最強の要塞」と呼ばれた北条氏時代の小田原城の片鱗は見られません。

しかし、北条氏時代の小田原城は八幡山古郭と近世小田原城の周辺だけではなく、それら城郭部分と城下町をも包み込んだ広大な城域を持っていたのです。

北条氏が豊臣秀吉との決戦を強く意識し始めた天正13年(1585年)頃から領民を動員しての大外郭土塁の普請が始まっていて、北条氏政・氏直父子は豊臣の大軍を小田原城で迎え討つべく城と城下町を包み込んだ大外郭土塁を築かせていました。
なんとその延長は9kmにも達していて、今日でもその痕跡が随所に残っているそうです。

小峯御鐘(こみねおかね)の台という所では、約7mの堀と、堀った土を盛り上げた5mほどの土塁があり、10m以上の壁が立ちはだかる形となっていて、堀の底からその斜面を登るのはとうてい無理なもの。
こうした堀と土塁に囲まれていたため豊臣軍も攻めあぐねたのでしょう。

小田原城の総構えは大坂城にも取り入れられた?

城を守る工夫も残されていて、それは城全体の一番北側にあたる久野口の近くに築かれた「城下張出し」(しろしたはりだし)と呼ばれるところ。
その名の通り、堀と土塁が外側に張り出したところで、これは横矢掛かりの遺構。
堀とと土塁が一直線だと、城壁に取り付いた敵に対して正面から攻撃できませんが、こうした張り出しを設けることで、側面からの攻撃が可能に。
小田原城は規模だけでなく、こうした工夫でも、戦国を代表するものだそうです。

実際に秀吉はこの小田原城惣構えの有効性に着目し、大坂城を作った時に同じ惣構えを築かせています。
「惣構え」とは城下町を取り囲む形で作られた、土塁と堀の外部のことで、小田原城の惣構えは9kmもあったそう。
慶長19年(1614年)の大阪冬の陣のとき、徳川軍が大坂城を攻めあぐねたのも、小田原城と同じ総構えがあったためだそうです。
総構えは籠城戦に有効だったことも証明していますね。
また、秀吉は自分自身「一夜城」の逸話を残すなど土木工事の得意な人で、それはこういう頭が柔らかくて、何でも取り入れる性格があるから得意になった、ということも言えますか。

さて、それでは、この小田原城を大軍を使って攻めた秀吉の小田原征伐はどのようにして起きたのでしょうか?次はそこを見ていきたいと思います。

小田原征伐はどのようにして勃発した?

小さな支城の名胡桃城が小田原征伐の引き金になった?

小さな支城の名胡桃城が小田原征伐の引き金になった?

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中国の毛利輝元・四国の長宗我部元親・九州の島津義久といった西国の大大名たちをみな臣従させると、豊臣秀吉の目は関東の北条氏に向きます。

秀吉は関白の権威を使って小田原城の北条氏政・氏直父子に臣従を求め、再三上洛を命じていました。
戦わずに北条氏を豊臣政権の前にひれ伏させようという魂胆でしたが、北条氏はそれをたびたび拒否。

ここで事件が起きます。
名胡桃城(なぐるみじょう)は現在の群馬県利根郡みなかみ町にある城ですが、天正7年(1579年)武田勝頼が真田昌幸に命じて北条氏から沼田領を奪還するために築いた城。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡してからは、独立した真田氏と北条氏が沼田・吾妻領を巡って争い、名胡桃城は沼田城の強力な支城として北条氏を退けていました。

その後、天正15年(1587年)に秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発し、徳川氏・北条氏・真田氏は秀吉の権威に伏し傘下となり、天正17年(1589年)に沼田領は裁定が行われ、名胡桃城を含めた沼田領の3分の1は真田領に、3分の2は北条領に。
真田氏は手放した土地の代わりに信濃国箕輪が与えられました。
大河ドラマ「真田丸」で描かれた場面でもありますが、昌幸はこの結果に残念そうにして、北条側も多く領地をもらったにも関わらず、不服そうな感じでしたね。

北条氏がルール違反して秀吉は強引に開戦へ

しかし同年に沼田城代の北条家臣・猪俣邦典(いのまたくにのり)が真田氏の名胡桃城代・鈴木重則(しげのり)の家臣・中山九郎兵衛を寝返らせ、偽の書状で重則を上田城に呼び寄せたスキに名胡桃城を占領。
重則は岩櫃城(いわびつじょう)で計略に気付き城に戻ろうとしましたが間に合わず、これを恥じて切腹。

昌幸はすぐに寄親(この時真田氏は徳川氏の与力とされ、実質的には従属させられていた)である徳川家康を通して秀吉に訴え出て、秀吉は昌幸に「今後北条氏が自分たちに非がないことを訴えてきても、城を乗っ取った張本人を処罰しなければ、北条氏を許さない」書状を送っています。
11月24日に秀吉は北条氏と手切れ(戦争が避けられないということ)になったことを北条氏と全国の大名に知らせ、北条氏当主の氏直は12月7日付けの書状で「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となった城なので、そもそも奪う必要がなく、全く知らないことだ」という旨を表しています。

こうして小田原征伐が始まるのですが、これは秀吉が北条氏を倒し天下統一に近付けるために、無理やり名胡桃城を開戦の理由にして戦争に持っていったという感がありますよね。
まあ、たびたび勧告をしても北条氏が臣従しなかったので、仕方なく戦争することにしたのかもしれません。

石垣山一夜城と武蔵・房総の戦い

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きで、城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べていて、過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。
よろしければブログも読んでみてください。http://tatsuyakawakami.hatenablog.com

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