一夜城や水攻めもあった?戦国オールスターが小田原城を包囲した「小田原征伐」とは?

小田原征伐は豊臣秀吉が天下統一を目前にして関東の北条氏と戦い、武田信玄や上杉謙信でも落とせなかった難攻不落の城・小田原城を全国の大名を動員して大軍で包囲した戦ですが、小田原城とはどんな城で、どのようにして小田原征伐は行われることになったのか?また、「一夜城」や「水攻め」など派手な戦法はなぜ行われたのか?「のぼうの城」で有名な忍城の戦いとは?そして、小田原征伐はどんな結果に終わったのか?それらについて見ていきたいと思います。まずは小田原城がどんな城かを見ていきましょう。
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小田原城はどのようにしてできた?

小田原城はどんな堀と土塁を持っていた?

小田原城はどんな堀と土塁を持っていた?

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小田原城は現在の神奈川県小田原市にあり、現在は「小田原城址公園」となっています。
復元天守が建つ辺りは近世の城跡で、戦国時代の小田原城の主郭はその北側、つまり小田急線とJRの線路を挟んだ山の中腹にありました。
八幡山古郭と呼ばれ、現在の県立小田原高校の敷地になっている所がその中深部です。
しかし、残念なことに主郭部では「戦国最強の要塞」と呼ばれた北条氏時代の小田原城の片鱗は見られません。

しかし、北条氏時代の小田原城は八幡山古郭と近世小田原城の周辺だけではなく、それら城郭部分と城下町をも包み込んだ広大な城域を持っていたのです。

北条氏が豊臣秀吉との決戦を強く意識し始めた天正13年(1585年)頃から領民を動員しての大外郭土塁の普請が始まっていて、北条氏政・氏直父子は豊臣の大軍を小田原城で迎え討つべく城と城下町を包み込んだ大外郭土塁を築かせていました。
なんとその延長は9kmにも達していて、今日でもその痕跡が随所に残っているそうです。

小峯御鐘(こみねおかね)の台という所では、約7mの堀と、堀った土を盛り上げた5mほどの土塁があり、10m以上の壁が立ちはだかる形となっていて、堀の底からその斜面を登るのはとうてい無理なもの。
こうした堀と土塁に囲まれていたため豊臣軍も攻めあぐねたのでしょう。

小田原城の総構えは大坂城にも取り入れられた?

城を守る工夫も残されていて、それは城全体の一番北側にあたる久野口の近くに築かれた「城下張出し」(しろしたはりだし)と呼ばれるところ。
その名の通り、堀と土塁が外側に張り出したところで、これは横矢掛かりの遺構。
堀とと土塁が一直線だと、城壁に取り付いた敵に対して正面から攻撃できませんが、こうした張り出しを設けることで、側面からの攻撃が可能に。
小田原城は規模だけでなく、こうした工夫でも、戦国を代表するものだそうです。

実際に秀吉はこの小田原城惣構えの有効性に着目し、大坂城を作った時に同じ惣構えを築かせています。
「惣構え」とは城下町を取り囲む形で作られた、土塁と堀の外部のことで、小田原城の惣構えは9kmもあったそう。
慶長19年(1614年)の大阪冬の陣のとき、徳川軍が大坂城を攻めあぐねたのも、小田原城と同じ総構えがあったためだそうです。
総構えは籠城戦に有効だったことも証明していますね。
また、秀吉は自分自身「一夜城」の逸話を残すなど土木工事の得意な人で、それはこういう頭が柔らかくて、何でも取り入れる性格があるから得意になった、ということも言えますか。

さて、それでは、この小田原城を大軍を使って攻めた秀吉の小田原征伐はどのようにして起きたのでしょうか?次はそこを見ていきたいと思います。

小田原征伐はどのようにして勃発した?

小さな支城の名胡桃城が小田原征伐の引き金になった?

小さな支城の名胡桃城が小田原征伐の引き金になった?

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中国の毛利輝元・四国の長宗我部元親・九州の島津義久といった西国の大大名たちをみな臣従させると、豊臣秀吉の目は関東の北条氏に向きます。

秀吉は関白の権威を使って小田原城の北条氏政・氏直父子に臣従を求め、再三上洛を命じていました。
戦わずに北条氏を豊臣政権の前にひれ伏させようという魂胆でしたが、北条氏はそれをたびたび拒否。

ここで事件が起きます。
名胡桃城(なぐるみじょう)は現在の群馬県利根郡みなかみ町にある城ですが、天正7年(1579年)武田勝頼が真田昌幸に命じて北条氏から沼田領を奪還するために築いた城。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡してからは、独立した真田氏と北条氏が沼田・吾妻領を巡って争い、名胡桃城は沼田城の強力な支城として北条氏を退けていました。

その後、天正15年(1587年)に秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発し、徳川氏・北条氏・真田氏は秀吉の権威に伏し傘下となり、天正17年(1589年)に沼田領は裁定が行われ、名胡桃城を含めた沼田領の3分の1は真田領に、3分の2は北条領に。
真田氏は手放した土地の代わりに信濃国箕輪が与えられました。
大河ドラマ「真田丸」で描かれた場面でもありますが、昌幸はこの結果に残念そうにして、北条側も多く領地をもらったにも関わらず、不服そうな感じでしたね。

北条氏がルール違反して秀吉は強引に開戦へ

しかし同年に沼田城代の北条家臣・猪俣邦典(いのまたくにのり)が真田氏の名胡桃城代・鈴木重則(しげのり)の家臣・中山九郎兵衛を寝返らせ、偽の書状で重則を上田城に呼び寄せたスキに名胡桃城を占領。
重則は岩櫃城(いわびつじょう)で計略に気付き城に戻ろうとしましたが間に合わず、これを恥じて切腹。

昌幸はすぐに寄親(この時真田氏は徳川氏の与力とされ、実質的には従属させられていた)である徳川家康を通して秀吉に訴え出て、秀吉は昌幸に「今後北条氏が自分たちに非がないことを訴えてきても、城を乗っ取った張本人を処罰しなければ、北条氏を許さない」書状を送っています。
11月24日に秀吉は北条氏と手切れ(戦争が避けられないということ)になったことを北条氏と全国の大名に知らせ、北条氏当主の氏直は12月7日付けの書状で「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となった城なので、そもそも奪う必要がなく、全く知らないことだ」という旨を表しています。

こうして小田原征伐が始まるのですが、これは秀吉が北条氏を倒し天下統一に近付けるために、無理やり名胡桃城を開戦の理由にして戦争に持っていったという感がありますよね。
まあ、たびたび勧告をしても北条氏が臣従しなかったので、仕方なく戦争することにしたのかもしれません。

石垣山一夜城と武蔵・房総の戦い

両軍は戦に向けてどれだけの準備をした?豊臣軍の兵力は?

両軍は戦に向けてどれだけの準備をした?豊臣軍の兵力は?

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この時に秀吉が動員した大軍は空前にして絶後の規模。
陸上からは東海道を豊臣本隊と徳川勢の主力、東山道からは前田・上杉・真田らの北方隊、恭順した佐竹氏・小田氏などの関東勢が加わり、さらに長宗我部・九鬼・宇喜多らが海上から水軍を引き連れて来襲(主に米を輸送)。
その総数は21万とも22万ともいわれる大軍で、いわば戦国オールスターのような軍勢だったでしょうね。
また毛利輝元に京都守護を命じて後顧の憂いを断ちました。

秀吉は陣触れ直後に長束正家(なつかまさいえ)に命じて米雑穀20万石余りを調達させ、天正大判1万枚で馬畜や穀物を集めました。

それに対し、小田原城では豊臣軍をどう迎え討つか軍議が開かれましたが、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた経験から、結局はやはり籠城戦法を採ることに。
氏政はそれ以前からこの日の来ることを予期し、15歳から70歳の男子(70歳の年寄りも徴兵したのは何か役があったのでしょうか?それとも、年寄りを徴兵しないといけないほど余裕がなかった?)を徴兵し、大砲の鋳造のために寺の鐘を供出させ(太平洋戦争の時期にこういうことがありましたが、戦国時代でもあったのですね。
やはり余裕がなかったことになりますか)、さらに大外郭の普請を急がせており、八王子城・山中城・韮山城(にらやまじょう)などを築城。
小田原城及びその周辺には、商人・職人、さらに5万6千人もの人が籠城したと言います。
これだけの人が入るということは城が大きいというだけでなく、5万6千人が食べてもしのげる兵糧があったということにもなり、物量的にも北条軍は豊かだったということにもなりますか。

小田原城を包囲するまでにどんな戦いがあった?

豊臣軍の基本戦略は北方隊が牽制をかけ、主力が道を阻む山中・韮山・足柄(あしがら)の3城を突破し、同時に水軍で伊豆半島を回って小田原に迫らせる方針。

一方、兵力では劣りますが北条軍は5万余りの精鋭部隊を小田原城に集め、そこからさらに精鋭を選び出して山中・韮山・足柄に配置し、箱根山中での持久戦を想定しました。

そして天正18年(1590年)春から豊臣軍が黄瀬川(きせがわ)周辺に集結し、3月27日には秀吉が沼津に到着し29日に進撃を開始。
山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄(のぶかつ)勢を当てて攻撃を開始。
山中城で一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が討ち死にしたものの、数時間での戦闘の後に落城し、松田康長は北条氏勝を逃して玉砕しました。
徳川勢は山中城落城の同日に鷹ノ巣城を、井伊直政隊が足柄城を4月1日に落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着。
なお、小田原征伐は天正18年(1590年)3月29日から6月24日まで続いたと言われています。

韮山城では攻撃側の10分の1しかいない城兵が信雄勢を阻み包囲戦に。
そのため秀吉は韮山城を包囲する最小限の兵を残し、信雄以下の主力を前線に移動させ、水軍部隊は北条氏配下の水軍を撃破し伊豆半島沿岸の諸城を落とし、小田原沖に展開しました。

有名な「石垣山一夜城」は一夜では出来ていない?

有名な「石垣山一夜城」は一夜では出来ていない?

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包囲戦が始まると、秀吉は氏直の戦意を低下させるため、付け城として、笠懸山(かさがけやま)に城を築かせ、この城が現在石垣山城と呼ばれ、「石垣山一夜城」という呼ばれています。
これは北条勢に見えないように城を築き、完成後に北条勢に見えないように周りを囲っていた気を伐採することで、北条勢に一夜にして城ができたように見せて驚かせるという、秀吉が好きそうなパフォーマンスではありますが、これは城兵を驚かせて戦意を喪失させるさせる効果も持っていました。

3〜4万人を動員し、短期間で築かれたのは事実としても、実際には80日間ほどかかったそう。
ただし、石垣山城はしっかりと石垣や櫓を備えた本格的な近世城郭で、関東では初めての総石垣の城だったそうです。
天守があったかは不明ですが、天守台跡はあったとのこと。

秀吉はこの石垣山城に茶人の千利休を呼び大茶会などを連日開き、また能役者、さらには側室の淀殿も呼んだりして、長期の兵糧攻めにかかりました。
この間に箱根へ温泉旅行にも行ったりして、富と権力を誇示する意味合いもあったそうです。

しかも、長期の滞陣を見越しており、兵站奉行(へいたん、戦場の後方で作戦に必要な物資の補給や整備・連絡にあたる機関)に30万石の米を駿河の清水湊まで送らせるという念の入れ方でした。
北条氏も兵糧をたくさん用意していましたが、秀吉は全国から米をかき集めて、豪勢な滞陣生活まで送るほどの物量を持っていたのですね。
後に関ヶ原の合戦で西軍大将になった石田三成が、こういった兵站事務などが得意だったという話もありますね。

武蔵・房総などの諸城での戦況は?

秀吉は小田原城に兵糧を入れないように包囲を強化し、領内の支城を一つずつ落とす各個撃破作戦も実施。
前田・上杉ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は松井田城攻略に取り掛かり、城主の大道寺政繁は嫡男を脱出させて激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に降伏し、その後道案内をすることに。
その後厩橋城(うまやばしじょう)や箕輪城(みのわじょう)など上野の各城を開城勧告などであっさりと開城。

また、小田原勢の徳川勢などから北方を助ける部隊を編成し、武蔵へ進撃。
玉縄城・江戸城など武蔵の諸城を次々と陥落させると部隊を二手に分け、片方を下総方面へ向かわせます。
浅野長政・内藤家長(徳川家臣)らによる下総方面軍は小金城・臼井城(うすいじょう)・本佐倉城などを次々と攻め落としたのですが、この方面の敵は戦意がなかったのか、「下総の敵がだらしなさすぎるので、この方面の攻略は戦功としては認められない」秀吉が浅野長政に送った書状にはとあるほど。

もう一方は河越城を落城させ、岩付城も徳川勢によって落城されました。
この房総・武蔵の異常な速さでの陥落は秀吉側の部隊の数が多いのが勝因ではなく、小田原城の防衛に兵を引き抜いたため、これらの諸城に最低限の守備兵すら残せなかったことによるそう。
逆にある程度の守備兵を残せていた鉢形城(はちがたじょう)や館林城(たてばやしじょう)では城を落とすのによりたくさんの時間がかかったそうです。

「のぼうの城」でも有名な忍城(おしじょう)の戦い


なぜ忍城攻めに水攻めが使われた?

なぜ忍城攻めに水攻めが使われた?

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「のぼうの城」を小説で読んだり映画で見た人も多いのではないでしょうか?次はこの舞台となった忍城(おしじょう)の戦いについて説明したいと思います。
豊臣軍が北条側の支城を次々と落とし小田原へ向けて進軍し、その途上にある忍城も攻略しようとします。
忍城の成田氏当主・成田氏長(うじなが)と泰親は小田原城に入ったため、忍城には成田泰季(やすすえ)と長親(ながちか、この人が「のぶの城」の主人公ですね)、甲斐姫らが籠城することに。

石田三成は丸墓山古墳に陣を構え忍城を包囲しましたが、忍城は沼や河川を掘として有効に利用した堅城で豊臣勢は攻めあぐねましたが、籠城側でも成田泰季が籠城中に病死し、代わりに長親に指揮が任されました。

三成が城攻めがうまくいかないので、地形をじっくり見直して研究し、備中高松城の時のように水攻めにしようとしました。
これは実際には秀吉が指示したとも。
三成は近隣の農民などに米や金銭を与えて5日間という短期間で石田堤と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を利用した水攻めが始まりました。
しかし、予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかのように見えたことから「忍の浮城」と呼ばれたそうです。

水攻めが失敗したのはなぜ?

6月18日、降り続いた豪雨で忍城が本丸まで水没しそうになったため、忍城側では堤防を破壊するための部隊を派遣。
これを行った脇本利助・坂本兵衛の2人は堤防を2ヶ所破壊し、これで大雨で溜まった水が吐き出され、これにより豊臣軍270人が死亡するという大惨事に。
しかも、忍城周辺は水が抜けて泥沼状態になり、馬の蹄(ひづめ)さえ立たない状態になったといいます。

6月下旬には三成が苦戦していると聞いて、浅野長政と真田昌幸・信繁(幸村)父子らの援軍6000が到着。
援軍が到着してすぐに城を守っていたはずの成田近江守と市田太郎が長政に内密の密使を派遣し、「密かに城門を開いて豊臣側の兵を引き入れる」と申し出てきましたが、功を長政に奪われることを焦った三成は「もっと確実な内応の約束がある。
あなたは行田口に向かってくれ」と言って長政を騙してこの申し出を拒否。

プライドの高い三成の性格がよく出ているところですね。
とはいえ、水攻めという派手でお金や米をたくさん使った策を行ったのに、効果が少ないので「何としても自分の手で忍城を落としてみせる!」という気持ちだったのでしょうね。
あと、「真田丸」を見た人は、「この調略を仕掛けたのは浅野長政じゃなくて真田昌幸じゃないの?」とも思えてしまんじゃないでしょうか?

なぜ忍城攻めでたくさんの犠牲者が出たのか?

なぜ忍城攻めでたくさんの犠牲者が出たのか?

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そして7月1日、何も知らず行田口に向かった長政は驚いた城兵に攻撃され敗走。
長政にとってはたまったもんじゃないですよね。
三成は恨まれても仕方なく、これが原因で後の関ヶ原の合戦で浅野家も東軍に着くのでしょうか?

そして7月5日、一気に忍城を落とすための総攻撃が開始。
下忍口から石田三成、長野口から浅野長政、佐間口から大谷吉継が攻撃を仕掛ける予定でしたが、巧を得ようと焦った三成が抜け駆けし、やはりこれに長政が激怒。
長政は長束正家隊と共に、野営していた成田勢を蹴散らして行田口に殺到。
しかし、行田口を守備していた成田勢もこれをよく防ぎ、行田口が攻撃されていることを知った正木丹波守が背後から浅野・長束隊を攻撃し、600近い損害を出して浅野・長束隊は敗走。

佐間口を担当していた大谷隊も苦戦して前に進めず、そこをまた正木丹波守が突撃し、大谷隊も撤退。
抜け駆けした三成隊も城壁に背水の陣を敷いた守将・酒巻靱負(さかまきゆきえ)に死者300・負傷者800という大損害を与えられ大敗、撤退となりました。
小田原征伐でここまでの死者が出るのはこの忍城の戦いだけで、関ヶ原で三成率いる西軍に着く大名が少なかったのも、この戦いで三成の戦いの下手さが際立ってしまったからはないでしょうか。

とにかく、これで団結した成田勢を前に忍城攻撃は失敗に終わったことになります。

忍城攻めの結果、成田氏らはどうなった?

しかしこの日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条側の支城はすべて陥落し、落城していない城は忍城だけに。
小田原落城で秀吉に降伏した成田氏長(前述の通り、小田原城内にいました)は忍城に使者を送り、北条氏が滅亡したことを告げました。
長親らは会議を開き、意見をまとめましたが、三成は「退城の際に運び出せる荷物は1人につき馬1頭分」という厳しい条件を提示。
三成としては大敗して面目を潰されたため、怒りが収まらず厳しい条件を出したということでしょうか。

しかし、やはり忍城側はこの条件を良く思わず、「再び籠城する!」という構えを取りました。
この報を受けて秀吉が「彼らのいうことはもっともだ。
好きにさせてやれ」と発言し、これにより7月16日、忍城は開城しました。

「のぼうの城」ではこの忍城攻めを、豊臣側唯一の大敗として、水攻めなどをダイナミックに描いています。
もし良ければ小説や映画を見てみてください。

小田原征伐の結果は?

奥州の独眼竜・伊達政宗の帰参

奥州の独眼竜・伊達政宗の帰参

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この頃秀吉に刃向かう勢力は北条氏と奥州の伊達氏だけでしたが小田原征伐に向かう際に、秀吉は伊達政宗にも軍を率いて参加するように命令。
以前から政宗にはたびたび上洛し恭順することを秀吉は要求していましたが、政宗はこれを黙殺して拒否。
伊達氏は政宗の父・輝宗(てるむね)の時代から北条氏とは同盟を結んでいたので、秀吉に従うべきか、北条氏とともに戦うべきか、迷っていたそうです。

しかし政宗は悩んだ末に、家臣のすすめもあり、小田原に赴き、5月9日に秀吉への臣従の姿勢を見せました。

この時、政宗は白装束を着て赴き、これは死装束で自害する直前に着る衣装であり、秀吉に切腹させられてもいいという覚悟を見せ付けたのです。
政宗の魅力はこういう潔いところにあると私は思います。

また茶の道への興味や不敵さを表してみせ、この態度を気に入った秀吉は政宗の臣従を受け入れました。
しかし、ここで政宗の領地は会津を削られ、伊達家の本領72万石(ほぼ政宗が家督を相続した時の所領)のみが安堵され、「苦労して東北の大半を自分で切り取ったのに、わずかなものに減らされてしまった!」という感情があり、政宗はその後徳川家康ひいきとなり、関ヶ原の合戦でも徳川方に付くのです。

双方に厭戦気分が出て戦は終結の方向へ

そして、秀吉は支城を1つ1つ落とし、完全に小田原城を孤立させる、大軍を持ってきたにしては堅実な作戦を実行した後に、「頃合いよし」と得意の調略に切り替えています。

支城を攻略していた大名達がそれぞれ勧告。
6月になると小田原城を包囲している豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃げる者も目立つようになりました。
長期間の間、ただ何もせず城を囲んでいるだけで、退屈に思ったり「こんなの戦とは言わない!」と思った兵もいるのではないでしょうか?というのも、戦らしい戦は1つか2つ程度で、あとは互いの陣から鉄砲を射かける程度のものだったそう。

また北条氏から豊臣側に内通する者も出てきて、さらには氏政の母が自害したという話も。
また八王子城が陥落した際の首が多数小田原城内に送られ、将兵の妻子が城外に晒し者にされ、なおかつ前述の石垣山一夜城のショックで士気は大幅に低下。

この時、北条氏の一族・重臣が豊臣に徹底抗戦するか降伏するかで意見が割れて、本来月2回、定期的に行われてきた「小田原評定」という言葉が「いっこうに結論が出ない会議」という意味合いで使われるようになったそうです。

6月に入ると氏房(うじふさ)、氏規(うじのり)、氏直側近が豊臣側の徳川家康、織田信雄らと和平交渉に入り、この頃すでに後北条氏領は家康に与えられることになっており、4月には伊豆は家康の領国化が始まっていました。

小田原征伐はどのような結果に終わった?

小田原征伐はどのような結果に終わった?

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八王子城の落城に続き鉢形・韮山城に津久井城も開城。
少し前の大河ドラマ「真田丸」では真田幸村が小田原城内に潜入する場面がありましたが、実際に調略を担当したのは黒田官兵衛(如水、こちらも大河ドラマの主人公ではありましたが)。
如水は秀吉の内意を得て、北条氏政に対し、「降参すれば武蔵・相模の2国は本領安堵する」と具体的な条件を示しましたが、氏政の答えは「城を枕に討ち死にする!」でした。
ドラマにあったように、北条氏には「関東の覇王」というプライドがあり、この時にはほぼ関東全域を制圧していたので、「足軽出身の新興大名の秀吉などに、たかが2国で納得できるものか!」という感情があったのではないでしょうか?

それでも如水は諦めず、何度も城内に足を運び、酒や肴(さかな)を送ったり、如水自身、無刀、肩衣袴(かたぎぬばかま)のいでたち、つまりは丸腰、相手に敵意を示さないようにほぼ武装してない状態で乗り込み(死ぬ覚悟で乗り込んだんでしょうね)、氏政・氏直父子に直談判し、最終的に城兵の命を助けるという条件で講和にこぎつけました。
講和の形を取っていますが、これは実質的に北条氏の全面降伏。
この決着が着いたのは開戦から3ヶ月後のことです。

この小田原攻めではそれまでの秀吉の城攻めに見られた、付け城を作って敵城を包囲して兵糧攻めを行い(石田三成が行った水攻めもそうですね)、最終的に調略によって相手を屈服させるという(播磨三木城攻め、鳥取城攻めなどが例)、秀吉の得意な戦法がすべて投入されています。

小田原征伐の結果として、どのような処分がされた?

秀吉は宿老の松田憲秀(のりひで)と大道寺政繁に開戦の責任があるとして切腹させ、7月7日から9日にかけて片桐且元(かつもと)・脇坂安治・榊原康政(さかきばらやすまさ、徳川家臣)を検使にして小田原城の受け取りに当たらせました。

そして、北条氏政と弟の氏照(うじてる)は11日に切腹。
氏直は家康と仲が良かったため助命を許され(氏直は家康の娘婿)、秀吉の元に出仕していた氏規(うじのり)と共に紀伊国高野山に追放となりました。

一方忍城は前述の通り、成田氏長が小田原城に入っていて降伏したため、小田原城から使者が送られ遅れて開城。

こうして後北条氏は滅亡し、秀吉は天下統一を成し遂げたのです。
その後秀吉は鎌倉幕府の政庁のあった鎌倉へ入り、宇都宮大明神を参拝した源頼朝の例に倣って参拝し宇都宮城へ入城。
ここで秀吉は関東と奥州の諸大名に対して、北条攻めに参加したか否かで領地の没収・再配置・保障などを行いました。

なお、後北条氏の領地はほぼそのまま徳川家康のものに。
余談になりますが、この後家康が江戸城に入った時、後の時代の江戸とは比べものにならないほど寂れていて、当時の江戸付近は湿地ばかりで田んぼも作れず、これから家康は江戸を開発するのに苦労したそう。

とにかくこの結果、秀吉に表立って逆らう大名は一人もいなくなり、ついに百姓からの成り上がり者、秀吉が天下統一を果たしたのです。

秀吉の得意な戦術を詰め込み、小田原開城で秀吉の天下統一は完了

小田原征伐は豊臣家と後北条氏が戦い、後北条氏は鉄壁の守りを誇る小田原城に籠城しますが、秀吉は小田原城を空前の大軍で半ば遊びながら長期間包囲し、石垣山一夜城を建てて北条氏の戦意を下げたり奇策も用いました。

唯一の激戦となり、「のぼうの城」の舞台となった忍城の戦いでは石田三成が水攻めを行うも、失敗した上にその後の攻めもまずく、諸将の反感を買い、その後の関ヶ原の合戦まで影響を与えることに。

そして、伊達政宗の帰参と、氏政の切腹、氏直の高野山追放で後北条氏は滅亡し、秀吉の天下統一は成し遂げられました。

もしよろしければ、面白いので「のぼうの城」を読んでみてください。
私は小説を読んだのですが、映画も面白いと思います。

では、最後まで読んでくれてありがとうございます!
photo by PIXTA

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きです。城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べてもいます。過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。

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