漫画キングダムのその先は…?秦の始皇帝の歴史

中国は春秋戦国時代。紀元前770年~紀元前221年ごろの話です。その春秋戦国時代の終わりごろに誕生したのが「始皇帝(しこうてい)」。彼は当時中国に存在していた「秦」国の王でした。彼はかつて誰も成し遂げられなかった中華統一を果たし、王では満足せず、皇帝という称号を始めて名乗った人物です。しかしそのような彼も、順風満帆に中華統一できた訳ではなく、誕生の時から苦難の連続でした。彼がどのような人物であり、どのように統一を果たして行ったのか、また彼によって中国はどのように変わったのか、簡単にまとめてみました。

死と隣り合わせであった幼少期

奇貨居くべし

奇貨居くべし

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「始皇帝」は紀元前259年に誕生し、父は「子楚(しそ)」、母は「趙姫(ちょうき)」、生誕地は「秦」国ではなく、「趙」国の首都・邯鄲でした。
春秋戦国時代、中国には「燕」「趙」「韓」「斉」「魏」「楚」「秦」と7つの国がありました。
当時「秦」国の王であった「昭襄王(しょうじょうおう)」が、「趙」との休戦協定を結び、人質として「子楚」という人物を送っていたのです。
この「子楚」は公子ではあったが、秦王になる可能性はほとんどなく、「昭襄王」からすれば、たくさんいる子供の中の一人にすぎませんでした。
そして「昭襄王」の動き次第ではいつ殺されてもおかしくない立場であったため、「趙」国では人質としては価値が低く冷遇していたのでした。

しかし、その「子楚」の将来を一変させてしまう人物が現れたのです。

その人物は「衛」の商人であった「呂不韋(りょふい)」という者でした。

「呂不韋」は、「子楚」をたまたま目にして、「これ奇貨なり。
居くべし。」とつぶやいたのでした。
そして「子楚」のことを父に相談、「子楚」に投資することにしたのです。
「子楚」と会見できた「呂不韋」は、みすぼらしい恰好をしていた「子楚」にお金を渡し、「趙」国の有力者に名前を覚えてもらうように指導、自身は「秦」国に入り、「子楚」の父「安国君(あんこくくん)」の寵姫であった「華陽夫人(かようふじん)」に会い、このように言ったのでした。

「あなた様は寵愛を受けていますが、未だ子がなく、このまま年を取れば、地位が怪しくなります。
「子楚」は賢明であり、あなた様を母のように慕っております。
「子楚」を養子とし、「安国君」の跡継ぎとしてはいかがでしょうか」と。

子供が居ないことに元々不安を抱いていた「華陽夫人」はその言葉を聞き、「呂不韋」の思惑通り、「子楚」を養子とし、「安国君」の跡継ぎとしたのでした。

「始皇帝」は誰の子?

「子楚」を「秦」国の王にするという「呂不韋」の野望も思い通りに進んでいたその時、「子楚」が「呂不韋」に一つお願いをしてきたのでした。
それは「呂不韋」が寵愛していた「趙姫」を気に入ったので、譲って欲しいということでした。
「呂不韋」は非常に「趙姫」を愛していたのです。
その「趙姫」を「子楚」に譲ることは正直反対でした。
しかし、ここで「子楚」に嫌われてしまうと今までの努力が全て無駄になってしまうことになります。
「呂不韋」は、最終的に「趙姫」を「子楚」に譲ったのでした。
しかし、その時「趙姫」は既に「呂不韋」の子を身ごもっていたのでした。
ただ、そのことを隠し通し、生まれた子を「子楚」の子としてしまったのでした。
紀元前259年の正月に「子楚」の子として誕生した男児に「政(せい)」と名付けました。
その男児こそ、後の「始皇帝」となる人物です。

このような話も残っているぐらいなので「始皇帝」の父親が、誰であるか今となっては全くわかりません。
しかし、当時からこの話は、噂されていたみたいです。

次の漢の時代の書物である史記では、「始皇帝」の父親は「呂不韋」であると書かれていて、それがずっと信じられていましたが、現代では医学的観点や史記の矛盾から「始皇帝」の父親は「呂不韋」ではなく「子楚」であるという説も出てきています。

「始皇帝」命の危機

「始皇帝」命の危機

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「政」が誕生してすぐ「秦」国では「昭襄王」の皇太子が亡くなり、「安国君」が皇太子となったのでした。
このことは、「子楚」と「呂不韋」にとって転機でした。
もし、このまま「安国君」が次の秦王になれば、その次は「子楚」の番です。
「子楚」と「呂不韋」の野望はもう少しのところまで来たのでした。

しかし「子楚」と「呂不韋」にとって思わぬ事態が起きてしまったのです。

「昭襄王」が休戦協定を破り、「趙」国に侵攻、紀元前253年には首都である邯鄲を包囲したのでした。

怒り狂った「趙」国の人々が、「子楚」とその一族を殺そうと動き出しました。
しかしそのような時でも冷静沈着な「呂不韋」は、門番を買収して逃げる手配を整えた上で「子楚」を逃がし、「秦」国に戻るよう成功させたのでした。

しかし、さすがの「呂不韋」でも、この時に逃がすことができたのは「子楚」だけでした。

「趙」国に残された「趙姫」と「政」は、逃げることもできず、「趙」国の人々の憎悪を受けながら、地獄のような生活を余儀なくされたのです。

「いつどこで殺されるかわからない」という状況が、「政」の人格形成に大きな影響を与えたと言われています。
人間の顔色をうかがう能力、態度で瞬時に味方か敵かを見分ける能力など。
さらに人を疑い、怪しいと思ったらすぐに処罰するという冷酷な性格もこの時に形成されたといわれています。

このような生活が、約4年続いたのでした。

しかし「秦」国による邯鄲包囲は失敗に終わり、紀元前250年に「昭襄王」が亡くなってしまったのです。
そして「安国君」が「孝文王(こうぶんおう)」として即位しました。
「子楚」は皇太子となり、「政」は「子楚」の後継者となったのでした。
当時の国際慣習では、皇太子の家族の人質は国に送り返すという不文律があったため、「趙」国は仕方なく「趙姫」と「政」を開放して、「秦」に送り返したのでした。







「子楚」即位

「子楚」即位

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父「昭襄王」の跡を継いだ「孝文王」でしたが、なんと在位わずか3日で亡くなってしまったのでした。

そして「孝文王」の皇太子となっていた「子楚」が、「荘襄王(そうじょうおう)」として即位、「政」を皇太子の地位につけたのでした。
そして「子楚」は、「趙」での人質の時から世話になった「呂不韋」を丞相に任命、さらに洛陽の広大な土地を褒美として与えたのでした。

「呂不韋」が奇貨として目を掛けていた「子楚」が「秦」国の王となり、自らは「秦」の宰相に上り詰めたのです。
「呂不韋」の大ばくちが成功した瞬間でした。

その頃「昭襄王」亡き後、短期間で王が変わり、「秦」国内部がごたごたしている隙を狙って他の6国が動き出しました。
しかし、「荘襄王」と「呂不韋」は反対に戦いを通じて、「秦」国の勢力を拡大していくことに成功、「秦」国をより強大な国にしていきました。

しかし、紀元前246年に「荘襄王」がわずか在位3年で亡くなってしまいました。

そして皇太子であった「政」が秦王に、わずか13歳で即位したのでした。

しかし若い「政」に実権はなく、「秦」国は「呂不韋」や周囲の者に政治や外交を任せるのでした。

「始皇帝」と「呂不韋」

「呂不韋」の傀儡

「呂不韋」の傀儡

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「政」が秦王となっても実権はなく、「秦」国を動かしていたのは、仲父となった「呂不韋」でした。
しかし「呂不韋」は、「秦」国が巨大であるのに自身の権勢が他国に広まっていないことを恥じていました。
そして「魏」国の「信陵君(しんりょうくん)」・「楚」国の「春申君(しゅんしんくん)」・「趙」国の「平原君(へいげんくん)」・「斉」国の「孟嘗君(もうしょうくん)」に負けず劣らず、3,000人の食客を集め、1万人以上の召使を抱えたと言われています。

さらに3,000人の食客の言葉を集め編集、天地・万物・古今のことを全て記載した現代の百科事典のような「呂氏春秋」という書物を作成。
十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇。
儒家・道家を中心とし、名家・法家・墨家・農家・陰陽家などの説も幅広く採用されている上、天文暦学や音楽、農学などの自然科学的な論説も多く見られ、自然科学史においても重要な書物であると言われています。

この書物の出来栄えを誇りに思った「呂不韋」は、「秦」国の首都・咸陽の市の門に書物を置いて「一字でも減らすか増やすかできた者には千金を与える」と宣言しました。

このようなことができる「呂不韋」は、秦王「政」とは比べ物にならないほどの権勢を誇っていたのです。

次のページでは『「呂不韋」の転落』を掲載!
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