「岐阜」の名は江戸時代には存在しなかった?織田一族の悲劇の舞台「岐阜城の歴史

岐阜城はどんな場所にあり、また「国盗り物語」で知られ、稲葉山城(岐阜城)を築城した斎藤道三はどのように成り上がって美濃一国を手に入れたのでしょうか?そして斎藤氏を倒し、城を手にして岐阜城と改名した織田信長とその後の城主たちの生涯は?また廃城となった岐阜城はその後どうなったのか?ということについて見ていきたいと思います。では、岐阜城はどんな場所にある?ということから見ていきましょう。


岐阜城とはどんな城?

岐阜城とはどんな城?

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岐阜城は鎌倉時代からある?

岐阜城は長良川に沿う海抜336mの金華山(きんかざん)山頂から麓にかけて築かれた壮大な山城。

JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バス「N80」高富行きなど長良橋方面行き、または「市内ループ線左回り」で15分片道210円。
「岐阜公園・歴史博物館前」で下車。
バス停下車後徒歩3分の岐阜公園内から金華山ロープウェイ3分、金華山山頂駅から徒歩8分です。

この山城を一躍海外にまで有名にしたのが織田信長で、信長は「井ノ口の城」と呼ばれた城を永禄10年(1567年)に中国の岐山(きざん)と曲阜(きょくふ)にならって岐阜城と改めました。

それ以前に存在した山城は稲葉山城とも称し、鎌倉時代の1201年に鎌倉幕府の執事の二階堂行政(ゆきまさ)により砦として築かれたもの。
これを司馬遼太郎の小説「国盗り物語」で有名な斎藤道三・義龍・龍興(たつおき)が改修しましたが、まだ土塁の山城。
そこで、信長は石垣づくりで、山上と麓の居館に2つの天守建築を持つ城郭を構築しました。

永禄12年、信長の元にルイス・アルメイダら宣教師が訪れ、その時の記録から岐阜城は、池泉が広がる庭園に面して3層4階の御殿風の天守が麓の居館に営まれ、金華山山頂には3層の天守があがっていたとみられています。
注目されるのは、この山上の天守には、信長に属した諸勢力(外様の被官衆)が差し出した、12歳から17歳までの人質の少年たちが生活していたことです。
本能寺の変で信長と共に死んだ森蘭丸などもこの一人だったでしょうか?

安土城築城から関ヶ原の戦い、そして現代に至るまでの岐阜城は?

また、最近の発掘調査から、麓の千畳敷への大手口と思われる個所が出土。
巨石を積み重ねた道路と虎口(こぐち)があったことが判明し、安土城の先駆け的な構えが岐阜城に存在していたことがわかりました。

また楽市楽座の保護など、当時としては斬新な政策は城下は大変賑わいました。

信長は天正4年(1576年)、安土城に移り、岐阜城主は信忠となり、本能寺の変の後は織田信孝が入城しますが、信雄(のぶかつ)と争い、城主の座を追われます。
その後池田輝政が入城し天守などを改築。
文禄末年には信長の嫡孫信秀(清洲会議のときの三法子、のち秀信)が入城、関ヶ原の合戦では信秀は西軍に味方し、その前哨戦で東軍の前城主・池田輝政に落とされ、天守閣や櫓は加納城に移され廃城となりました。

現在の城は昭和31年に復興され、鉄筋コンクリート造り3層4階で、岐阜市のシンボルとなっています。
城内は資料展示室、楼上は展望台。
日没から夜10時まで岐阜城はライトアップされ、暗闇の中にその姿が映し出されています。

斎藤道三とは?

98213:斎藤道三とは?

国盗り物語小説全4巻

「国盗り物語」の斎藤道三の話は違っていた?

斎藤道三といえば、油売りから戦国大名になった武将として、腕一つで国を盗っていった戦国大名らしい生き方をしたことで有名ですね。
通説では山城国の武士松波左近将監(まつなみさこんしょうげん)の子が京都の妙覚寺に入り、法蓮房と名乗りますが寺を飛び出し、大山崎の油や奈良屋又兵衛の娘と結婚しその婿となり、屋号を山崎屋、名を庄五郎(「国盗り物語」では「庄九郎」)として手広く油商売をやっていたそう。

たまたま美濃まで油売りに出たところ、かつての妙覚寺時代の同僚だった僧と再会し、そのつてで、守護土岐盛頼の弟頼芸(よりなり)に仕えることになりました。
その後、頼芸を新しい守護にすることに成功し、恩人の長井藤左衛門尉(とうざえもんのじょう)を殺し、さらに守護代斎藤氏の名跡を奪い、ついには土岐頼芸も追い出して美濃一国の戦国大名にのし上がったといいます。
頼芸の美人の妻も奪ったという話もありましたね。

ところが、昭和39年から始まった「岐阜県史」編纂の過程で、「六角承禎(じょうてい)条書写」という文書が発見され、従来の通説とは全く異なる道三の経歴が明らかになりました。

道三の国盗りは親子2代によるものだった?

道三の国盗りは親子2代によるものだった?

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その条書写によると、道三の父親は長井新左衛門というそうですが、元々は京都妙覚寺の僧だったそう。
僧をやめて美濃に下り、還俗してまず西村と名乗り、長井弥二郎に仕え、次第に頭角を現し、長井新左衛門と名乗ったといいます。

新左衛門が長井家を乗っ取り、守護の土岐政頼(まさより)を追放し、その弟頼芸(よりなり?よりよし?よりあき?いろいろな本によって読み方が違うのです)を守護に付け、新左衛門が死んだ後家督を継いだのが子の道三(長井姓の時にはたしか「規秀」(のりひで)という名前だったと思いますが、これも合ってるかがわからない所ですね)で、道三が長井家の惣領家を殺し諸職を奪い取り、斎藤家の当主が亡くなった後にその家督を継ぎ、斉藤利政と称して戦国大名になったそう。
道三のやったことを文字にしてみると、なかなか乱暴な感じがしますね。

家督を継いで4年目の天文11年(1542年)に父が守護職に付けた頼芸を尾張に追い、美濃支配の実権を掌握したそうです。

六角承禎の正室が土岐頼芸の姉だったそうで、これをふまえると、この「六角承禎条書写」に書かれている経緯が正しくなり、父子2代がかりの国盗りだったそう。
個人的には「国盗り物語」の道三が名前を何度も変えて成り上がる話が好きだったので、この話は衝撃的です。
「岐阜県史」の編纂が昭和39年から始まり、司馬遼太郎「国盗り物語」は昭和46年に初版が発行されていたので、入れ違いみたいな感じで「国取り物語」の頃には新しい説は取り入れられなかったということでしょうか。

僧→商人→武士へ、斎藤道三はどう変わっていった?

しかし、上の新説はあまり細かい内容が説明されておらず、これでは斎藤道三という人がどういう人かわからないと思うので、「国盗り物語」にあるような一代記を説明していきたいと思います。

道三は明応3年(1494年)に山城国(京都府南部)で生まれたとされていますが、生年も生誕地も諸説あります。
先祖代々北面の武士を務めていましたが、事情があり牢人に。
道三は11歳のころに京都妙覚寺で僧侶となり、「法蓮坊」と名乗ります。

後に還俗(僧侶から一般人に戻ること)し「松波庄五郎」(庄九郎とも。
国盗り物語ではこちら)と名乗り、油問屋の娘をめとり、油屋となり、山崎屋を称し、油売りの商人として成功し評判に。
その商法は「油を注ぐ時に漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。
油がこぼれたらお題は頂きません」というパフォーマンスで、美濃で評判に。

しかしある時、油を買った土岐家の侍に「あなたのその技を武芸に注げば立派な武士になれるのに。
惜しいことだ」と言われ、商売をやめて槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったといいます。

その後縁故で美濃守護代土岐氏の長井長弘の家臣となり、庄五郎は長井氏の家臣の西村氏の家名を継いで西村勘九郎正利を称しました。
これで3回名前が変わっていますね。

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きで、城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べていて、過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。 よろしければブログも読んでみてください。http://tatsuyakawakami.hatenablog.com

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