夫の父に見初められ…絶世の美女・楊貴妃の栄華と悲劇の生涯

楊貴妃。彼女の名を聞いたことがない方は少ないのではないでしょうか。エジプトのクレオパトラ女王、日本の小野小町と並び称される世界三大美女のひとりです。彼女の伴侶と言えば、中国の唐王朝の玄宗皇帝なのですが、実は彼は彼女の最初の夫ではないんです。そのあたりには、彼女の容貌があまりにも美しすぎたという理由がありまして…。楊貴妃と玄宗皇帝のロマンス、悲劇的な最期など、ここでは楊貴妃という女性像と歴史への影響などをご紹介したいと思います。

楊貴妃という女性、そのイメージ

楊貴妃という女性、そのイメージ

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楊貴妃は、本名は楊玉環(ようぎょくかん)といい、719年に蜀の役人である楊玄淡(ようげんたん)の娘として生まれました。
日本はちょうどそのころ奈良時代に当たります。

蜀とは現在の四川省や湖北省付近で、中国西方の内陸です。
三国志で、劉備(りゅうび)や諸葛孔明(しょかつこうめい)らが建国した蜀の国があった場所ですね。

一般的には楊貴妃と呼ばれますが、貴妃とは中国の後宮における妃の位のひとつです。

トップは皇后で、貴妃は唐においては2番目の地位でした。
ですから、楊貴妃はかなり位の高い妃だったということになります。

彼女についてのイメージと言えば、玄宗皇帝に寵愛され、皇帝を堕落させてしまい結果として唐が傾くきっかけをつくったという感じでしょうか。
「傾国の美女」とはまさに彼女のことなので、もしかすると、悪女のイメージをお持ちの方もいるかもしれませんね。

確かに玄宗皇帝が彼女に溺れた結果、唐に内乱が起きてしまったわけですが、果たして彼女は悪女だったのでしょうか。

この記事では、彼女の美しさだけでなく、彼女が歴史に及ぼした影響や立ち位置についても見て行こうと思っていますので、どうぞお付き合いくださいね。

最初は玄宗皇帝の息子の妃だった!

最初は玄宗皇帝の息子の妃だった!

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両親を早くに亡くした楊貴妃は、その後は叔父の元で育ちました。

735年、16歳になると、彼女は玄宗皇帝の18子である寿王(じゅおう)に嫁ぎます。
18子とはいえ、皇子と結婚したのですから、それなりの身分もあったのでしょうね。

寿王は、母が皇帝の寵妃だったため皇太子擁立の運動が起きた人物でもありました。
時の宰相までもが彼を推したそうですが、母が亡くなってしまったために立太子とはならなかったんです。
もしかすると、楊貴妃は世が世なら皇后になっていたかもしれないんですよ。

楊貴妃は美しいだけでなく、頭が良くて音楽の才能もありました。
加えてちょっとグラマーな体型で、これらはすべて当時の美女の基準だったんです。
それをすべて満たしていた彼女は、まさにパーフェクトな美女だったということになります。

それに惹かれてしまったのが、夫である寿王の父・玄宗皇帝でした。
当時彼は55歳。
21歳の楊貴妃とは34歳の年齢差がありました。
しかしそんなことは当の本人にはどうでもいいことだったのでしょう。

そして、玄宗は彼女を強引なやり方で手に入れます。

まず彼女をお寺で出家させ、寿王とは別れたということにして、それから自分の妃として後宮に入れたんですよ。
一応、息子の嫁を奪うという形はさすがにまずいと考えていたようです。

とはいえ、このころはすでに2人が内縁関係にあったのは明白で、おそらく周囲はあらまあといった目で見ていたのかもしれません。

皇帝の寵愛、ハンパなし

皇帝の寵愛、ハンパなし

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745年、楊貴妃が玄宗の後宮に入ってから5年後のこと、ついに彼女は貴妃の位に上ります。
皇后に次ぐ地位についた彼女は、まさに人生の絶頂期に立つこととなったのでした。

しかし、彼女が望んだわけではないのですが、玄宗は彼女の一族を次々と取り立てていきました。
役人たちは、楊一族の頼みごとはまるで皇帝の命令のように取り扱ったといいます(今の日本の政治でもこんなことがあったような気がしますが…)。

そして、楊一族の家の門の前には、献上品を持ってきた使者たちが列を成したそうです。

この時、楊貴妃の又従兄弟にあたる楊国忠(ようこくちゅう)もまた取り立てられました。
実はこの人物、かなりワルな男だったので、この後に楊貴妃の評判を落とすいちばんの原因となったんですよ。
彼のイメージが楊貴妃のイメージになってしまった部分も多いんです。

楊一族を次々に高い地位に付けていく玄宗には、若かりし頃の名君の面影はなくなりつつあり、政治を顧みることはなくなっていきました。
彼にはもう楊貴妃しか見えていなかったようです。

彼女を連れ歩かない日はなく、彼女用の絹織物職人を700人、装飾品担当職人を数百人も雇い、湯水のようにお金を彼女のために使いました。

それだけでなく、役人が彼女に贈り物をすると、その役人が昇進したというんです。
そのため、役人たちの楊貴妃参りはすごかったんですよ。
しかし、それって賄賂と同じじゃないかと思いますよね。

安禄山の接近と楊一族のやりたい放題

安禄山の接近と楊一族のやりたい放題

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玄宗の寵愛を一身に受け、人生の絶頂期を迎えた楊貴妃には、その威光にあやかろうと多くの人物が接近してきました。

その中に、一風変わった男がいたんです。

その名は安禄山(あんろくざん)、生粋の漢民族ではなく、北方や中央アジアの遊牧民族の血を引く、いわば異民族でした。

玄宗に取り入って信頼を得た安禄山は、節度使という地位を得ます。
これは地方の軍隊や財政を統括する重要な役職で、彼はなんと3つの地方の節度使を兼任するまでになったんですよ。

そして彼は、年下の楊貴妃の養子になりたいと願い出たんです。
しかも玄宗はそれをOKしたというのですから、もう何が何だかわかりませんよね。
それほど、玄宗に気に入られていたということなんです。
もちろん、楊貴妃もそうでした。

しかも、楊貴妃の養子になっただけでなく、楊貴妃のきょうだいとも義兄弟になったんです。
どれだけ取り入るのがうまいのか、安禄山。

玄宗や楊貴妃の前ではひょうきんに振る舞い、面白いヤツと思われていた安禄山ですが、実はしたたかに政治の実権を狙っていました。







安史の乱の勃発と楊貴妃の最期

安史の乱の勃発と楊貴妃の最期

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政治を仕切っていた宰相・李林甫(りりんぽ)が死ぬと、楊貴妃の又従兄弟の楊国忠が実権を握り、楊一族はまさにやりたい放題するようになりました。

そんな楊一族、ひいては楊貴妃にまで人々の反感は高まっていたのですが、安禄山は楊国忠とは特に仲が悪かったのです。

楊国忠が安禄山を排除しようと玄宗にあることないことを吹き込んだこともあって、互いにこのままだと潰されるという危機意識が高まった結果、安禄山は反乱を起こしました。
これを安史の乱といいます。

彼の軍隊は都(長安/今の西安)を目指して進軍してきたため、玄宗は楊貴妃や楊国忠らと宮廷を脱出して、楊貴妃の故郷でもある蜀を目指して逃げていくこととなったのです。

しかし、長安から西に約40㎞行ったところの馬嵬(ばかい・陝西省興平市)に至ると、日ごろから楊国忠に不満を持っていた兵たちが、なんと彼を殺してしまいました。
しかもそれだけでなく、彼らは楊貴妃の殺害を玄宗に要求してきたのです。
国が混乱し、楊一族の専横を招いたそもそもの元凶こそ楊貴妃だという主張でした。

玄宗は、楊貴妃は関係ないと庇いましたが、軍隊は彼女の殺害が実行されなければ動かないとかたくなです。

このままでは安禄山に追いつかれ、唐王朝が滅亡してしまう…皇帝として、玄宗は彼女を殺害することを決心したのでした。

玄宗はやむなく楊貴妃に自殺を命じます。

彼女には白絹が渡され、梨の木にそれをかけて首を吊りました。
享年38。
「死んでも恨むことはございません」と、静かに玄宗の命に従ったそうです。

こうして、絶世の美女・楊貴妃は悲劇的な最期を遂げることになりました。

玄宗の寵愛を受けたがゆえに結果として唐の混乱を招いたため、一族の罪もすべてその身に負って、自分で自分の命を絶たねばならないという悲劇に行きついてしまったのです。

では、彼女の死後、玄宗や唐はどうなったのか、少し見ていきましょう。

楊貴妃の死後の状況

楊貴妃の死後の状況

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楊貴妃を失った玄宗は深く嘆き悲しみましたが、もうどうすることもできませんでした。
一方、楊貴妃の養子となっていた安禄山もまた、数日泣き続けたといいます。

彼女の遺体は郊外に埋められたため、後に長安に戻った玄宗は改葬しようとしますが、重臣たちに反対されていったんは中止せざるを得ませんでした。
しかし、彼らに隠れて密かに改葬を行ったといいます。
その際に、残されていた香袋が、形見として玄宗に献上されたそうです。

その後、半軟禁状態となった玄宗は彼女の絵を描かせ、それを毎日眺めて暮らし余生を過ごしました。

安史の乱自体もまた長期化の様相を呈し、安禄山が息子に殺された後は、息子たちや部下たちによってさらに混迷の度を深めました。

玄宗は乱の最中に退位しており、後を継いだ皇帝たちが、何とか乱を収集したのです。

しかし、これによって唐の力はかなり弱まることとなってしまいました。
玄宗が即位してしばらくのうちは全盛を誇り、歴代中国王朝の中でも抜群の安定感を誇っていた唐が、楊貴妃も関係したこの安史の乱によって傾いていったわけですね。
彼女は意図せずとも、国を傾けてしまったのです。

中国四大美人のひとり・楊貴妃

さて、ここからは楊貴妃という女性自身について見ていきたいと思います。

18子とはいえ、皇帝の息子に嫁いだということはそれなりの身分と教養、容姿に恵まれていたことは否定しようもありません。
そして、その中で容姿がずば抜けていたことは、現代に伝わる文献などでもわかりますよね。

中国の歴史には「中国四大美人」という4人の美女が登場します。

春秋戦国時代の西施(せいし)、漢の王昭君(おうしょうくん)、三国時代の貂蝉(ちょうせん)、そして楊貴妃です。

彼女たちを表現する「沈魚落雁 閉月羞花」という言葉があるのですが、これは、「川で洗濯をする西施の美しさに魚が泳ぐのを忘れ、異民族に嫁いだ王昭君が故郷を思って琵琶を弾くとその美しさと調べに雁も落ちてくるほどだった。
そして貂蝉が物思いにふける姿はあまりに美しく、月が雲に隠れてしまい、楊貴妃が後宮の庭の花に手を触れると、彼女の美貌と匂い立つ香気に花も恥じらい頭を垂れてしまった」ということなんです。

花も恥じらう、という言葉はここから来ているんですね。

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