水攻めと中国大返しは偶然の産物?秀吉の天下取りの起点となった「備中高松城水攻め」とは?

備中高松城は岡山市北区にある城で、羽柴(豊臣)秀吉が毛利氏を攻めた時に高松城の周りに堤防を築き、水を溜めて高松城を攻めた戦い。ここでは備中高松城を巡り秀吉と毛利が戦うに至った経緯を説明し、ここで切腹した清水宗治とはどんな人だったか?水攻めは戦術的にどんな意味合いを持っていたか?また秀吉はどのように水攻めを思いついたのか?秀吉・毛利両者のこの戦いでの狙いは?秀吉が中国大返しを行えたのはどんな背景があり、なぜ毛利軍はこれを追撃しなかったのか?これらについて紹介していきたいと思います。まずは備中高松城に攻めに至るまでの織田・毛利の両軍の戦いの経緯を説明していきましょう。
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備中高松城攻めに至る経緯は?

織田軍の中国攻めと上月城の戦いはなぜ起こった?

織田軍の中国攻めと上月城の戦いはなぜ起こった?

image by PIXTA / 1328704

室町幕府最後の将軍足利義昭は諸国の大名に反信長の書状を送り「信長包囲網」を結成。
元亀4年(1573年)に宇治槇島城(まきしまじょう)に籠城し信長に反旗を翻しますが敗れ、その後大坂の本願寺と手を組み信長に抵抗。
しかし武田勝頼が長篠の戦いで敗れ、越前一行一揆が鎮圧され、この戦況の悪化に義昭は毛利氏を頼り、備後の鞆(とも)へ。
これによい毛利は反信長勢力の中心とされ、大坂本願寺の木津川口で織田水軍と戦い毛利方が勝利。
毛利側は「淡路を拠点に海路を水軍で攻撃し大阪湾に上陸」「毛利輝元と小早川隆景が将軍義昭を連れて山陽道を通り上洛」「吉川元春が山陰道から但馬(たじま)・丹後を経て京都の背後へ」という「三道併進策」を採ります。

一方織田側は秀吉を中国方面の最高司令官にし、播磨から備中・備後へ攻め入る体制に。
織田と毛利は「いずれは戦うことにはなるが、全面衝突は避けたい」とお互いに思っていましたが、ここで衝突は避けられない状態に。

そして、天正6年(1578年)木津川口で織田軍の九鬼嘉隆が鉄甲船を使い毛利水軍を破り、上杉謙信も亡くなったことで本願寺を支援するのは毛利だけとなっていました。

そして播磨の上月城(こうづきじょう)で秀吉と毛利が奪い合い、毛利の総兵力は6万と言われていますが、毛利氏の最大勢力だった時期は実はこの時だったとのこと。
信長の指示で秀吉は上月城を見捨てることに決め、上月城に入っていた尼子氏の残党の尼子勝久切腹し尼子氏は滅亡。
そして、これ以後備前の宇喜多氏が織田方に寝返り、毛利家は宇喜多直家によって、天正7年(1579年)の辛川崩れなどで敗れ、宇喜多との合戦で敗色が濃くなっていきます。

どんな戦いを経て、秀吉は備中へ進出することになった?毛利家への影響は?

また三木城では別所長治(ながはる)が毛利の援助を受けて頑張っていましたが、秀吉は支城を次々と落城させ三木城を包囲。
またこの時期に荒木村重が毛利に寝返ります。

別所に向けて毛利は兵糧を援助しようとし、明石に毛利水軍が上陸しますが失敗。
包囲網は次第に縮まり22ヶ月の籠城の末、別所長治は切腹。
これにより毛利の三道併進策は破綻します。

秀吉は次に鳥取へ侵攻。
城主の山名豊国は秀吉に恭順しますが家臣団が豊国を追い出し、毛利家の吉川経家(つねいえ)を入城させます。
しかし、経家入城時にすでに城内に食料は不足している状態。
秀吉が領内の米を買い上げていたのです。
また三木城と同じく鳥取城も秀吉に包囲され、4ヶ月間耐えましたが城兵の飢餓を見て経家は降伏し切腹。
ここで毛利家の山陰道からの上洛もできなくなりました。

また秀吉はすでに天下は信長の一人勝ちだという思っていたので、この時からすでに「毛利家と戦わずに味方にしたい」という思いがあり、安芸吉川家の分家である経家を切腹させたくはなかったそうです。

そして、この2戦で秀吉は播磨と因幡を抑え、備前の宇喜多家は信用されていたとはいえないとはいえ、共同戦線を取っていて、次は備中に侵攻することに。
備中は毛利家の息のかかった国人達も多く。
秀吉と毛利家の、毛利家の領内での直接対決となったのです。

備中高松城と城主の清水宗治とは?


忠義の士、清水宗治は主家を裏切ったことがある?


備中高松城は岡山市北区にあり、新幹線の止まる岡山駅からJR吉備線に乗り、電車で20分ほどの備中高松駅のすぐ北側にあります。
吉備線は本数が少ないのでご注意を。
ただし、吉備線沿線は高松最上稲荷や吉備津神社、吉備津彦神社、足守藩の町並みや造山古墳、備中国分寺など、歴史的なスポットが集中しているエリアでもあります。

高松城は城跡の公園があるだけで城郭などは何も残されていませんが、その付近に行ってみるだけで、水攻めがどんな地形で行われていたのか、想像しやすくなると思います。

また、高松城攻めで最後に切腹した清水宗治の妻は高松城主だった石川久孝(ひさたか)の娘で、高松城は元亀元年(1570年)に久孝によって築城されます。

宗治の父の宗則(むねのり)はこの久孝に仕えていました。
しかし、久孝には子がなく、跡目争いが起こり、長谷川氏を倒して宗治が高松城主に。
当時の備中国中南部の国人連合のリーダーは久孝。
しかし、ここでは宗治は高松城主になっただけで、石川氏から完全に独立したわけではなかったのです。

天正2年(1574年)から翌年にかけて備中各地で起こった戦乱を「備中兵乱」といい、これは三村氏が織田氏と組んで毛利氏に背き、宇喜多を討とうとした戦乱。
宗治の主家の石川氏は三村側に付き、この戦いで滅亡。
この戦いで宗治は中島元行とともに毛利側に付き、これを機に石川を離れ、完全に毛利側に入ったのです。

高松で立派に切腹し、毛利への忠誠を尽くしたように見えた宗治ですが、実は毛利家に付く前に主家を裏切っているのですね。
しかも、主人は妻の父。
これに対して毛利家は大勢力ですがただの主従関係なので、宗治は完全に「勝ち馬に乗った」ということになります。

宗治は毛利に対しどんな形で忠義を示してみせた?

また、宗治の兄の月清入道は備中兵乱で主家の石川家が滅亡したことにより、弔意を毛利家に示すために出家して、弟宗治に家督を譲ったと言われています。
この月清入道は宗治の切腹まで付き合い、仲の良い兄弟だったそう。

また天正9年(1581年)に宗治は中島元行とともに小早川隆景に呼び出され、「羽柴秀吉が宇喜多を案内者として備中に攻めてくるらしい。
内通するのを当家では卑怯とは思ってないから内通しても構わないよ」と言われ、これに対し宗治が「そんなことは全く思っておりません。
命にかけても城を守ってみせます」と。
これは隆景が臣下としては新しい清水家に対し、わざと逆説的な発言をして宗治の真意を確かめ、宗治はきっぱりと忠節を尽くすことを宣言したのです。

また天正10年(1582年)に隆景が三原城へ宗治など備中の諸将を呼び軍議を開いたとき、隆景は太刀を諸将に贈りました。
これを諸将が「お祝いを拝領致します」と言ってもらったとき、宗治は「これをお祝いと言うのは納得がいきません。
これは秀吉の大軍が攻めてきたとき、勝てるとは限らない。
その時は城を枕に切腹しなければならないため、そのための刀だと思っている。
私はめでたいとは思わない」と言ったそう。
この時すでに宗治は覚悟を決めていたのですね。
また宗治は念仏信者であったため、死が怖くなかったそうです。

ただ、この時一緒にいた諸将は「素直にありがたくもらっておけばいいじゃん…」とか思ったかもしれませんね。

備中高松の役とは?

備中高松の役とは?

写真/筆者

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きです。城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べてもいます。過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。

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