ボロ負けは覚悟の上?倭国から日本への転換点「白村江の戦い」とは?

白村江の戦いというと、皆さんピンとくるでしょうか?「古代史の授業の時に名前を聞いたことがある」位の人が多いんじゃないかと思いますが、実は日本の歴史にとって重要なのです。戦いの前の朝鮮半島はどんな国が争いを繰り広げ、それに倭国(日本)がどう関係し、戦いに参加していくことになるのでしょうか?また倭国軍が朝鮮に上陸する前の士気はどれほどのもので、負けると分かっていても出兵せざるを得なかった理由とは?そして上陸後、白村江の戦い本戦はどう推移した?そして戦いの後、中大兄皇子(天智天皇)らはどんな国家体制を築いたのか?ということについて見ていきたいと思います。

朝鮮で何が起こって日本は出兵することになった?

6〜7世紀の朝鮮半島の情勢は?

6〜7世紀の朝鮮半島の情勢は?

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6世紀から7世紀にかけての朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の3つの国がありましたが、新羅は高句麗・新羅に圧迫される存在。

倭国(日本)は半島南部に領有する任那(みまな)を通じて影響力を持っていたことが「日本書紀」から知られています。
なんだか意外ですが、朝鮮半島に日本の領地があったのですね。

しかし、その任那と、加羅という国は倭国から百済へ割譲されたことと、新羅により侵食され、562年に新羅に滅ぼされました。

475年には百済は高句麗の攻撃を受けて首都が陥落。
しかし、その後熊津(ゆうしん)へ遷都して復興、さらに538年には泗沘(しび)へ遷都。
当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在)また高句麗との戦いにおいて、たびたび倭国から援軍を送られています。

一方581年に建国された隋は文帝・煬帝(ようだい)の治世に4度の高句麗遠征を行ったものの、いずれも失敗。
その後隋は国内の反乱で618年に煬帝が殺害されて滅亡。
そして新たに建国された唐は628年に国内を統一。
唐は2代太宗・高宗の時に高句麗に3度に渡って侵攻を重ね、征服することになります。

百済に付く?唐に付く?迫られる倭国の決断

新羅は627年に百済に攻められた時に唐に援助を求めましたが、この時は唐が内戦中で断られます。
しかし、高句麗と百済が唐と対立したため、唐は新羅を支援することに。
また善徳女王の元で力を付けた金春秋(こんしゅうじゅう)は積極的に唐に近づく政策を採用し、654年に武烈王として即位。
たびたび朝見して唐への忠誠心を示しました。

645年ごろから唐は百済侵攻を画策。
また百済は新羅侵攻を繰り返し、654年に大干ばつによる飢饉が朝鮮半島を襲いましたが、百済の義慈王(ぎじおう)は飢饉対策を取らず、皇太子の宮殿を修復するんなど、民を省みない行動に。
義慈王の酒乱を諌めた佐平(百済の官職)の平仲が投獄されて獄死するほどで、657年にまた干ばつが発生したときは草木がなくなったと言われるほど。

このような百済の退廃を、唐は防衛の不備・人心の不統一や乱れという情報として入手。
唐は秘密裏に百済への出兵計画を進め、倭国の遣唐使を洛陽にとどめ、百済出兵の情報が漏れないようにしました。

この朝鮮半島の情勢は大化の改新の最中の倭国にも伝わり、高まる警戒感。
唐が倭国から遠い高句麗ではなく、伝統的に交流のある百済を攻撃したことで、朝廷内で百済に付くか唐に付くか、二者択一を迫られます。
この後2度遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたためです。

大化の改新は唐と戦うための改革だった?

大化の改新は唐と戦うための改革だった?

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大化の改新に始まる国政改革の一つの大きな目標は、朝鮮半島での対唐戦争に勝つこと。
そもそもそのために中央集権化を急いできたのです。

具体的に見ると、戸籍・計帳は徴兵できる人がどれくらいいるかを調査するもので、班田収授も兵士を家族経済で支えられるようにする政策ともいえます。

そして、日本で大化の改新があった前後、海を隔てた朝鮮半島と中国では、あちこちで政権交代が起こるなど、情勢は日々変化していました。

特に朝鮮半島の動きは活発で、当時最も勢い付いていたのは新羅(しらぎ)。
これに対し高句麗(こうくり)と百済(くだら)が手を組んで戦いを繰り広げていました。

日本では改革が始まったばかりでしたが、大国・唐は644年からほぼ連年、高句麗遠征軍を送っており、対唐戦争への参加は現実に迫っていました。
不充分でも今のままで戦いに乗り出すしかなかったのです。

大分後の時代になりますが、日露戦争の時と状況が似ていますね。
日露戦争はロシアが満州を侵略しようとした戦争で、満州を取られていたら、日本はロシアの植民地になっていた、そういう戦争でしたので。







朝鮮出兵のために倭国政府は国内でどんな準備をした?

国際関係の情報も制度的な知識や先進的な文物も、ほとんど朝鮮は唐を経由して入手。
長年の外交交渉や援軍の派遣などを通じて、国家間の権利・義務の約束もできていました。
日本ではたとえば「任那(みまな)の調」と呼ばれていたような何がしかの権益が、成り行き次第では消えてしまい、逆にここでその危機を救えば、またそれなりの朝鮮半島での権益が上積みされたでしょうし。

日本はかつて派兵要請の代償に、百済の武寧王(ぶねいおう)から仏教を公伝。
そのように主に百済と連携しつつ、4世紀後半以降なにがしかの利権を手にし、そうした歴史的経緯もあり、迷わず百済支援を表明。
しかし一方では人質として金春秋(こんしゅんじゅう)を受け入れるなど、新羅との新たな関係樹立も模索していました。

ともあれ戦いに先立つ大化3年(647年)、斉明天皇が即位すると、阿部比羅夫(ひらふ)を北陸に派遣。
渟足(ぬたり)柵、磐船(いわふね)柵を置き、政府支配下にない蝦夷(えみし)たちに備えさせました。
敵の侵略を阻むための柵とはどんなものだったのでしょうか?道を幅広く塞いで高いようなもの?

また、日本海沿岸地方を津軽まで探らせ、蝦夷に軍事的威嚇も加えました。
後顧の憂いを断つというか、日本海沿岸から朝鮮半島に補給をするつもりだったのでしょうか?

唐の侵攻に対し百済はどう対応した?

唐の侵攻に対し百済はどう対応した?

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高句麗は百済・日本と同盟を結び、新羅を包囲する戦略を取り、唐にも激しく抵抗。
唐は攻めあぐねる状況が続き、そこで作戦を変更。
高句麗・百済の敵である新羅と手を結んだのです。
「敵の敵は味方」というわけで仲間意識が生まれたのですね。

唐はまず国力の弱い百済を狙い、新羅は649年に百済に久々に大勝。

高句麗の抵抗に手を焼いた唐も作戦を変更。
658年の高句麗遠征に失敗すると、660年に新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方(そていほう)を神丘道行軍大総官(日本でいう「征夷大将軍」みたいな称号?)に任命し、劉伯英(りゅうはくえい)将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じました。

唐軍は海から、新羅は陸上からの水陸2面からの同時作戦を行い、唐13万、新羅5万の大軍。
これほどの大軍が今から1300年も昔に動員できたのって、自分には不思議な感じがします。
豊臣秀吉が慶長の役で動員した兵の数でも14万人ですから。

百済王を諌めて獄死した佐平の平仲は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(たんけん、現在の大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言しましたが、やはり王はこれを採用せず。
また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言。

しかし、王や官僚は流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、炭と白江を唐軍が通過した後に迎撃するべきだと主張。
くだらない考え方ですね。
百済軍の考えが定まらないうちに唐軍はすでに炭峴と白江を越えて侵入していました。

黄山の戦いはどう展開した?その結果は?

百済の本営は前述の通り機能してない状況でしたが、百済の将軍たちは奮闘。
階伯将軍の決死隊5000が3つの陣を構えて待ち伏せし、新羅は太子法敏(ほうびん?のちの文武王)、欽純(きんじゅん)将軍、品実(ひんじつ)将軍がらが兵5万を3方に分けて黄山(ふぁんさん?)を突破しようと試みますが百済軍はこれを阻止。

黄山の戦いで階伯ら百済軍は4戦に勝利しますが、敵の圧倒的な兵力を前に将軍たちは戦死。
この黄山の戦いで新羅軍も多大な損害を受け、唐との合流の期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎めて新羅の金文穎(きんぶんてん?)を斬ろうとしましたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのならば、唐と戦う!」と言い放ち斬られそうになりましたが、蘇定方の部下が取りなして許されました。

唐軍は白江を越え、ぬかるみにひどく手こずりましたが、柳のむしろを引いて上陸し、熊津口の防衛戦を破り王都に迫りました。
義慈王らは佐平の平仲らの進言を聞かなかったことをひどく後悔。

唐軍は王都を包囲し、百済王族から投降希望者が多数出ましたが、唐軍はこれを拒否。
義慈王は熊津城に逃亡しますが後に降伏し百済は滅亡しました。

次のページでは『百済が滅亡し、残った百済の将軍たちは?』を掲載!
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