「羽柴秀吉」とは?百姓以下の身分から成り上がった、土木工事と兵糧攻めが得意な天下人!

「羽柴秀吉」といえば、「豊臣秀吉」として日本人で知らない人はいないほどの歴史上の人物ですね。では、その秀吉はどのような身分から出てきて、どんな得意技を持って織田家で出世したのか?そして秀吉にはどんな軍師がいて、どんな戦いを勝ち抜き、また天下統一へのきっかけとは何だったのでしょうか?また天下を取った秀吉はさらにどんな戦いを行ったのか?ということについて説明していきたいと思います。まずは秀吉の幼少期から見ていきましょう。


秀吉の出自は?どのように出世していった?

秀吉は幼年期を過ごした中村に何をした?

秀吉は幼年期を過ごした中村に何をした?

image by PIXTA / 13353319

「豊臣秀吉」こと「羽柴秀吉」は尾張国(愛知県)中村(中村のうち中々村)で生まれたのが定説で、遠戚の加藤清正も中村の出自。
しかし、「清洲ミツノゴウ戸」出身であるという異説もあり、中村の場合の秀吉は百姓の出身で、「清洲〜」の出身だとすると都市民、つまりは職人もしくは商人だということになり、大きく違ってきます。

しかし、秀吉が幼年期を中村で過ごしたということは間違いなく、「祖父物語」で小早川隆景が天正18年(1590年)の小田原攻めに際し清洲の留守居役に命ぜられた時のことが書いてあります。

隆景が清洲から中村まで秀吉の供をしたとき「恥ずかしい話だが、自分はこの中村で育ち、わやく(無茶・非道)なることもして遠江(とおとうみ)に行き、松下石見に仕えた。
いざこの中村を百姓どもの切り取りにさせてみよう」といい、隆景は同意。

すると秀吉が「この村に仁王という子供がいるはずだ。
自分より少し年上だが、自分が仁王が刈った草を少し取ったら「遅く来て草も刈らないやつ!」といい鎌柄で我を殴った。
その遺恨は今でも忘れられないので、仁王を斬ってから取らせよう」と。

大きな権力を手に入れると、昔自分に悪いことをした人を懲らしめたくなるものでしょうか。
分からなくはないですね。

しかし、仁王もその子供もすでに死んでいて孫がいるだけで、秀吉は「孫なら遠いから仕方ない」と言って中村一円を百姓に与えたそうです。

家を出た秀吉は何をして生計を立てていた?

しかし、その2年後の高麗陣のとき、中村の人々が陣中見舞いにこなかったので、秀吉は「作り取り」を召し上げています。
これは中村も清洲も幼少期の秀吉を受け入れてくれなかったから、結局中村や村の人々に愛はなかったのだろうという話になりますね。

若き日の秀吉、すなわち木下藤吉郎は針を売って歩いていて、この針売りはあまり良い身分ではなかったということ。
また藤吉郎の妻だった「ねね」も連雀商人(れんじゃくしょうにん、行商人の一種)家の出で、この連雀商人も良い身分ではありませんでした。

日本史において信長・秀吉の時代は流動的でダイナミックな時代で、侍身分を解体した明治維新期にも匹敵。
秀吉は身分の流動性・上昇を代表する人物で百姓から成り上がりましたが、それ以下の身分から成り上がり、天下人・関白になった可能性もあるのです。

秀吉は母の再婚により尾張中村に移り住み、義父と折り合いが悪く親元を出ることに。
どこにも頼る人がなく、路頭に迷っていわゆる「ストリートチルドレン」に。
秀吉は清洲から遠江に移り、今川家臣の松下加兵衛(かへえ)が(静岡市)から浜松への路上で異形のものを見つけ、路上で猿まねをしていました。
浜松城まで連れて行かれた藤吉郎は飯尾豊前やその娘の前でその芸を見せ、道中、猿芸を続けながら針を売って生活していたことになります。

自分を助けてくれた者に秀吉はどう恩返しした?そして秀吉は織田家臣に

自分を助けてくれた者に秀吉はどう恩返しした?そして秀吉は織田家臣に

image by PIXTA / 28547116

このような芸でお金を稼げば「乞食」(こじき)同然と見なされた当時。
もし松下加兵衛が拾わなければ、秀吉は大道芸人、猿まねをして施しを受ける流浪乞食(非人)のままでした。
しかし、秀吉はこういう生活の中から生きる上での知恵というか、そういうものをを学んだのでしょう。
「人たらし」と呼ばれる持ち前の明るさと目端(めはし)の利く才覚を磨かれていったのです。
しかし、加兵衛にはある程度目をかけられていたそうですが、退転。
また秀吉は後に加兵衛に3000石の知行を与えて恩に報いています。

また、秀吉は自分の中の卑しい血を恥じていて、自分の血の繋がる弟や妹を殺したこともあるそう。
秀吉は縁者ならすべて登用したわけではなく、苦境にあったときの自分を支援してくれたものだけを登用したそうです。

秀吉の運命は実力主義の織田信長に仕えたことから切り開かれることに。
秀吉は清洲城の普請奉行・台所奉行などを率先して引き受け、大きな成果を上げて織田家中で頭角を現し、また信長の草履を懐に入れて温めた有名な逸話もあり、藤吉郎は信長に気に入られていくのです。

織田家中で秀吉はどのように出世していった?

永禄4年(1561年)8月、藤吉郎は浅野長勝の養女で杉原定利の娘・おね(ねね)と結婚。
式は藁(わら)と薄縁を敷いた質素なものとのこと。

永禄7年(1564年)の美濃国の斎藤龍興(たつおき)との戦いで、藤吉郎は松倉城主の坪内利定や鵜沼(うぬま)城主の大沢二郎左衛門らに誘降工作を行い成功。
永禄8年(1565年)の坪内利定宛の知行安堵状に初めて藤吉郎の名が現れており、「木下藤吉郎秀吉」として副署されています。
これは秀吉が信長の有力武将として認められたことを示しています。

永禄10年(1567年)に秀吉は蜂須賀正勝と共に信長の美濃攻めのキーポイントとなった有名な墨俣(すのまた)一夜城を作っています。
秀吉は放浪していた時代に政勝に仕えていたと言われ、政勝は川並衆という土豪を率いていた武士で、永禄3年(1560年)には信長に使えるように。

しかし墨俣は最前線で、斎藤氏の妨害も激しく、襲い来る敵と戦いながら資材を運び、建設作業を進めるのは至難のわざ。
佐久間信盛も柴田勝家も失敗するほど。
ところが秀吉と政勝はこれを5日ほどでやってのけます。

政勝は在地の武士や船頭、木こり、大工などを自前で集め、2150人の混成集団を作り上げ、材木の切り出しから加工までを流れ作業で行い、それをいかだにして下流に送りました。
墨俣では組み立てるだけという斬新な工法を用いて砦を築いたのです。

土木工事の得意な秀吉は墨俣一夜城の功績から一気に出世

土木工事の得意な秀吉は墨俣一夜城の功績から一気に出世

image by PIXTA / 9971110

そして、この砦によって美濃攻略への足がかりを築いた信長は翌年、稲葉山城を攻略。
以後信長は天下取りへ邁進していくのですが、秀吉と政勝の砦建設はそれに大きく貢献したのです。

秀吉は墨俣一夜城、備中高松城水攻め、石垣山一夜城に大坂城・伏見城など土木工事の得意な人という印象が私にはあるのですが、蜂須賀正勝などこういった工事の得意な家臣も多かったこともあるのでしょうか?

またこの年に竹中半兵衛を配下に付け、さらに永禄11年(1568年)、近江箕作城(みつくりじょう、観音寺城とも)の戦いで活躍。
同年、上洛の際に明智光秀・丹羽(にわ)長秀とともに京都の政務を任されています。

元気元年(1570年)には越前の朝倉義景(よしかげ)討伐軍に参加。
順調に進軍を進めていきますが、北近江浅井長政が突如裏切り、織田軍を背後から急襲。
浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命のピンチに陥りますが、秀吉は明智光秀や池田勝正とともに殿軍(しんがりぐん、後退する部隊の中で一番後ろの部隊のことで、一番危険)を務め、功績を上げました。

秀吉の天才軍師・竹中半兵衛とは?

次のページでは『半兵衛はどんな経緯があって秀吉にスカウトされた?』を掲載!
次のページを読む >>

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きで、城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べていて、過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。 よろしければブログも読んでみてください。http://tatsuyakawakami.hatenablog.com

この記事のカテゴリ

歴史

関連記事を見る

歴史の記事を見る

敬虔なるキリシタン武将・明石全登、ドラマチックに登場した大坂の陣と謎の行方
苦節55年!?日本を代表する近代建築・国会議事堂は誰が建てた?
落ちぶれた本願寺を再興した救世主・蓮如が歩んだ道のりを徹底解説!
偉大すぎる父とできすぎた弟たちを持った毛利のプリンス・毛利隆元の苦悩
絶対敵にしたくない男No.1!「敵はとりあえず暗殺」の宇喜多直家、でも家臣は大事にした?
秀吉は本当に一夜で城を完成させたの?岐阜・墨俣城を訪ねてみた
出奔されてもコイツが必要!と伊達政宗に思わせたデキる親戚・伊達成実ってどんな人?
冬の立山連峰を越えた男・佐々成政、時代に翻弄された悲劇の最期
負け戦に敢えて挑む男のプライド。秀吉に刃向った武将・九戸政実の生き様
秀吉vs勝家!決戦の地・賤ヶ岳古戦場の歴史を辿る旅
小牧山城で近世城郭の始祖・織田信長の築城技術を学ぶ
公家趣味が彼を滅亡に追い込んだ?大内義隆を殺したのは、かつての愛人だった…!?