「大化の改新」を果たした「中臣鎌足」とは?

日本史の勉強の際に必ず登場する出来事の1つとされる645年の「大化の改新」。日本の飛鳥時代に発生したこの出来事は、日本の歴史を変える大きな政治的改革として知られていますが、その中で登場する人物で有名なのが「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」。この改革を中心人物として仕切った彼は、いったいどのような人物であったのでしょうか。今回はそんな「中臣鎌足」について、彼が残した功績や家族関係、関係するスポットなどから見てみましょう。

改新前・蘇我氏へ感じた危機感

若いころから頭角を現す

若いころから頭角を現す

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中臣鎌足は西暦614年(推古天皇22年)に「和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)」あるいは「大和国大原(現在の奈良県明日香村)」で誕生したと伝えられています。
父は推古天皇などの天皇に仕えた大夫「(まえつぎみ)」に就いていた「中臣御食子(なかとみのみけこ、中臣弥気(なかとみのみけ)とも言う)」、母は天皇に仕えた「大伴連噛(おおとものむらじくい)」の娘である「智仙娘(ちせんのいらつめ)」。

若いころから中国史所に興味を持った鎌足は「六韜(りくとう、中国を代表する兵法書の1つ)の暗記に励むと見事習得。
隋・唐へ遣唐使として派遣されていた僧「南淵請安(みなぶちのしょうあん)」が開いた塾で儒教を学び、秀才として評価されるように。
このころからすでに歴史に名を残す準備は進んでいたのですね。

鎌足の生まれた「中臣家」は古くから神事・祭祀(さいし)を取り仕切る豪族であり、鎌足も644年(皇極天皇3年)に「神祇伯(じんぎはく、朝廷の祭祀を司る)」に任命されますがこれを拒否、摂津国(現在の大阪府北中部から兵庫県南東部にあたる)三島の別邸に退くことになります。

豪族・蘇我氏による独裁に危機感

鎌足が秀才として評価され始めた裏で、日本は大きな危機を迎えようとしていました。
日本では622年(推古天皇30年)に朝廷の政治を取り仕切っていた聖徳太子、628年(推古天皇36年)には推古天皇が亡くなり、大臣(おおおみ、天皇の補佐を務めた役職)を輩出する有力豪族「蘇我氏(そがし)」が政治の実権を握ることに。

権力を手にした蘇我氏は推古天皇が生前に継嗣(けいし、天皇のあととり)を定めていないことを知ると天皇の座に近かった聖徳太子の子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」の擁立を嫌い、もう一人の候補であった「田村皇子(たむらのおうじ)」を「舒明天皇(じょめいてんのう)」として指名することに。

舒明天皇を立てた蘇我氏はますます自分たちの力を誇示するようになり、舒明天皇の子「古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)」を「皇極天皇(こうぎょくてんのう、後の斉明天皇でもある)」の次期天皇にするため山背大兄王を自害に追い込み、聖徳太子一族を滅亡させてしまいます。
一族を滅亡させれば自分たちの考える「独裁政治」を行うことができると考えたのでしょう。

この状況を知り日本の危機を感じ取った鎌足は「蘇我氏を滅亡させなければ」と決心することに。
しかし当時の鎌足は1人の役人にすぎず、自分の力だけでは国を動かすことは不可能でした。
ここから鎌足は目的を達成するために、協力してくれる味方を探し始めるのです。

中大兄皇子との出会い・戦いへ







出会いのきっかけは意外なところ

出会いのきっかけは意外なところ

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蘇我氏滅亡という大きな計画を実現すべく味方を探していた鎌足。
そこで最初に接近したのは皇極天皇の弟「軽皇子(かるのみこ、のちの孝徳天皇)」でしたが、器量の足らなさを理由に共闘することを断念、その他の味方を探すことに。

そんなある日「法興寺(飛鳥寺、596年(推古天皇4年)に蘇我馬子(そがのうまこ)が開基した日本最古の寺院)」西側の広場を訪れた鎌足は、蹴鞠(けまり)をして遊ぶ1人の青年に出会います。
青年が蹴った際に脱げた靴が鎌足の方へ転がってきましたが、その青年こそがのちの「天智天皇(てんじてんのう)」になる「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」でした。
青年が皇子であることを知った鎌足は転がってきた靴をひざまずいて渡し、「この人につけば目的は成し遂げられる」そんな思いを感じたのかそこで接触を図ることに。

すると皇子も鎌足と同じで蘇我氏をよく思っておらず、日本の危機を感じ取った2人は意気投合。
「共に組んで蘇我氏を打倒しよう」と同じ目的を持った2人は、意外なきっかけから出会いを果たすことになったのです。

蘇我氏滅亡へ「乙巳の変」

こうして皇子を味方につけた鎌足は、いよいよ蘇我氏滅亡へ本格的に動いていくことになります。
その舞台は645年(皇極天皇4年)の「三国の調」。
三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日するこの儀式に大臣・蘇我入鹿(そがのいるか)が出席することを突き止めた2人は、ここを暗殺の舞台にすることに。

6月12日、斬る役を任されたのは「佐伯子麻呂(さえきのこまろ)」と「葛城稚犬養網田(かずらきのわかいぬかいのあみた)」でしたが、2人は緊張のあまり突撃に行けません。
その状況を打破したのは皇子本人で、儀式の会場に飛び込むと入鹿の襲撃に成功。
続いて子麻呂と稚犬養網田が入りここで入鹿を暗殺、翌日には入鹿の父・蘇我蝦夷(そがのえみし)が自害し蘇我氏は滅亡することに。

このとき皇極天皇への上奏文を読み上げていた「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ のいしかわまろ)」は入鹿の従兄弟でしたが、この際には皇子側に味方しており、上奏文の読み上げは「暗殺への合図」を意味するもの。
「目的のために敵方の人物も巻き込む」鎌足と皇子の見事な連携で蘇我氏を滅亡させたこの事件は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれ、後に続く「大化の改新」の第一歩となるのです。

大改革「大化の改新」へ取り組む

大改革「大化の改新」へ取り組む

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こうして蘇我氏滅亡を果たした2人は、いよいよ本格的な改革に取り組んでいくことになります。
この年に日本最初の元号となる「大化」となり、ここから有名な「大化の改新」と呼ばれる改革が進行。
中大兄皇子は孝徳・斉明天皇の皇太子となり、鎌足は最高顧問的位置づけとなる「内臣(うちつおみ)」に就任。

中でも代表的なものが646年(大化2年)に出された「改新の詔(みことのり)」。
この方では豪族が所有していた人民・土地を回収し天皇の所有とする「公地公民」、全国を「国」に分け「国司(国を治めるために設置される役職)」を置く「中央集権」、公民に「口分田(くぶんでん)」と呼ばれる耕地を貸し与え死後に国家へ返還させる「班田収授(はんでんしゅうじゅ)」、公民に税を負担させる「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」が定められました。

その他には身分に応じて墓の規模が決まる「薄葬令(はくそうれい)」制定、「伴造(とものみやつこ、朝廷に仕える者を統率・管理した者)」や「品部(しなべ、朝廷に仕えた人々の集団)」を廃止、特定部族による役職の踏襲を途絶えさせ、冠位制度の改訂、礼法の策定なども実施。
鎌足はこうした新政策の策定に陰で関わることとなり、急激な改革に反発する勢力をなだめる役割も担っていたとされています。

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