たった5年の活動だった新撰組!幕末に人々を魅了した新撰組の解体後はこうだった

尊王攘夷派から幕府を守るために京都で結成された新撰組って、儚く散ってしまった分人々の心に残る志士だったように思います。新撰組を結成し皆をまとめた局長・近藤勇や副長・土方歳三、病に侵された貴公子・沖田総司などはその後の話も有名です。最盛期には200名を超えていたという、新撰組の人々は様々な人生を送っています。今回は、新撰組の歴史とその後について軽くひも解いてみたいと思います。

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新選組ってどうやって始まったの?

新選組ってどうやって始まったの?

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幕末の京都には、尊王攘夷派や討伐運動の志士が集まり不安定な情勢でした。
京都所司代と町奉行だけでは治安維持ができないと、文久3(1863)年に将軍の警護の名目で浪士を募集しました。
この求人は江戸で行いましたが、その後京都に移動しています。
しかし、集まった浪士たちには、浪士組の本当の役割を教えられていませんでした。
言ってみれば現在のブラック企業の求人のようなものだったんです。

浪士組を企画したのは、出羽庄内出身の浪士、清河八郎でした。
彼は200人余り集まった浪士組に、「浪士組は僧郡護衛の組織ではなく、実は尊攘のための集団だ」と京都にて演説したのです。
ここで、何人かはこの計画を阻止するために江戸に向かい、近藤勇や芹沢鴨など主に水戸派は、求人通り将軍警護のため京都に残留しました。
残った13人が、京都守護職の会津藩主・松平容保預りとなり、新撰組が発足しました。
清河と同じ北辰一刀流を修めた坂本龍馬は、見抜いていたとか。
「春獄公大失策成り」と後に語っています。

新撰組の派閥争い

新撰組の派閥争い

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文久3(1863)年3月に、京都市中警護がはじまりました。
京都郊外の壬生村に駐屯していたため、名前を「壬生村浪士隊」と改名。
しかし、早くも同年9月18日には権力争いが勃発しています。

それは、近藤勇が新撰組の権力を我がものとしたいがために、新撰組を作った一人芹沢鴨を島原の角屋で暗殺したのです。
本当の理由は分かっていませんが、一般的には農民出の近藤らを水戸の家臣だった芹沢鴨が馬鹿にしたのが原因といわれています。

本当の暗殺理由は、会津藩の命令だった

本当の暗殺理由は、会津藩の命令だった

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よりはっきりした説は、浪士組は結成当時から争いが絶えず、近藤派と芹沢派に分かれていったん収束します。
壬生村浪士隊は「8月18日の政変」で、幕府から「新撰組」という名前を与えられています。
しかし、芹沢派は問題行動が多く、京都や大阪でも大問題となっていました。
会津藩は芹沢派の粛清を近藤勇に命じました。
どんなに尽力を尽くしても、芹沢派の問題行動は収まらず、最終手段が芹沢鴨を暗殺するというもの。
暗殺に加担したものは、近藤派の主要人物とされる、土方、沖田、山南、原田の4人でした。
でも、近藤勇にとっては、近藤派が主導権を握るのにもってこいだったようです。

池田屋事件が新撰組を英雄に

池田屋事件が新撰組を英雄に

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芹沢鴨の悪行は、京都の庶民にも影響が出るほどで、新撰組の親玉の京都守護職まで、庶民に怨みを買うほどでした。
新撰組の評判はすこぶる悪かったのです。
起死回生の時を迎えました。
長州藩で、御所周辺に火を放ち、公武合体派諸侯を暗殺し、天皇を拉致するという計画があるという情報を得たのです。

実行するために池田屋に志士が集まっていることを突き止めます。
近藤勇は1864年6月5日の22時過ぎに、沖田総司ら数名を連れて踏み込みました。
乱闘の結果、10名を殺し、23名が捕縛されました。
これが有名な池田屋事件です。
この事件で、誠の一文字を旗と浅葱色(あさぎいろ)の羽織を着て街をかっこよく闊歩する、新撰組がどれだけ役に立つかを庶民が知り、新撰組の名は良い方で名を轟かせました。

必要無くなった新撰組

必要無くなった新撰組

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世間に活躍が認められた新撰組でしたが、それもたった5年でした。
規律が厳しかったので、殺されるものや切腹させられるものも少なくなかったようです。
慶応3(1867)年には、幕府が大政奉還を行うこととなり、当然のことながら新撰組の存在価値はなくなりました。
翌年に鳥羽・伏見の戦いはあるものの、ライフル銃を使う新政府軍に勝てるわけがありません。
大打撃を被りました。

3分の1に減り、江戸で「甲陽鎮部隊」として再起を図るも大人と子供の争いのような状態で、全く歯が立ちませんでした。
甲府城奪還などで、名を上げようとするも事態は最悪。
隊員は更に減ってしまいました。

近藤勇と土方歳三の絶命と新撰組の最後


近藤勇は、敗走の挙句下総の流山で倒幕軍に捕まり、板橋で斬首。
副長の土方歳三は、徹底的に抗戦するも明治2(1969)年に函館の五稜郭で戦死しました。
この五稜郭が陥落した時に、幕末の動乱は終わり、新撰組も最後の幕を下ろしたのです。

沖田総司も持病だった肺結核により江戸で亡くなったとか。
でも、総司については戦死したという説もあり、はっきりとした死因は分かっていません。

剣の達人!二番隊長の永倉新八

剣の達人!二番隊長の永倉新八

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全員が戦死したわけではなく、生き残った者もいました。
天才剣士で薄命だった沖田総司より、剣の腕に長けていたといわれる「永倉新八」も生き残り組の一人です。
彼は、二番隊の隊長で、甲州沼津の戦いの後、近藤らとは別の道を歩み北関東で激戦を繰り広げるも、会津藩の降伏を知り江戸に戻りました。
その後、北海道の樺戸集治監獄の剣道の師範となりました。
一生剣道の指導を行い、77歳で亡くなっています。
『浪士文久報告記事』や『七ケ所手負場所顕ス』、『新撰組顛末記』などで、新撰組の本当の姿を著書にして残しました。
彼の活躍により、新撰組の意義も証明されました。
彼は、これだけの功績ではなく、近藤勇や土方歳三の墓も建てています。

ピーターラビット

Writer:

世界遺産ブームをきっかけに歴史に目覚めてから、国や城、庭園などの成り立ちに魅了された主婦です。何だろう?と思ったことを調べて、皆さんにお伝えすることで気持ちを共有できたら幸せだな~と感じながら仕事をしています。ちょっとマニアックな歴史記事ですが、軽い気持ちで触れてみてくださいね!

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