「国母」として16人の子どもを生んだマリア・テレジアの歩んだ歴史

2017年5月13日、オーストリアの首都ウィーンではマリア・テレジアの生誕300年を祝う行事が行われました。マリア・テレジアというとわが国では「女帝」として知られていますが、彼女の母国オーストリアでは「国母」と呼ばれています。それに実はこの「女帝」という言い方は歴史的には正しくないのですよ。神聖ローマ帝国の皇帝は男性でなくてはならなかったので、マリア・テレジアは正式には「女帝」ではありません。夫のフランツ・シュテファンが皇帝になって「皇帝妃」となったのですが、ドイツ語でいうと「皇帝妃」も「女帝」も同じKaiserin。同じ時代にロシアには「女帝」がいたのですが、マリア・テレジアはあくまでも「皇帝妃」。しかし、「女帝」と呼ばれるだけのことはその生涯に成し遂げています。これからその生涯の足跡をたどってみることにしましょう。






マリア・テレジアの父カール六世はスペイン王にもなりました

マリア・テレジアの父カール六世はスペイン王にもなりました

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18世紀はハプスブルク家に最大の危機が襲ってきたのですよ。
ハプスブルク家は皇帝カール5世のときにスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分かれましたね。
スペイン・ハプスブルク家はそのカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の息子フェリペ2世のときにピークを迎えましたが、ピークのあとはただ落ちて行くのみ。
スペイン王位はフェリペ2世のあと息子のフェリペ3世、そのあとフェリペ3世の息子のフェリペ4世、そしてフェリペ4世の息子のカルロス2世へと一見順調に継がれていきましたが、カルロス2世は幼いときからひ弱。
とても子どもを生むことなど期待できませんでしたから、スペイン王位をどうするかについて生きているときから問題になっていました。

スペイン・ハプスブルク家の男系が絶えてスペイン継承戦争が起こりました

1700年にカルロス2世が死んでとうとうスペイン・ハプスブルク家を継ぐ男系は絶えてしまいました。
オーストリア・ハプスブルク家には、皇帝ヨーゼフ1世とその弟カールがいましたから、そのカールにスペイン王を継がせるのが妥当。
実際カールは、1706年にマドリードでスペイン王に選出されてカルロス3世になっています。
しかし、カルロス2世の腹違いの姉はフランス王ルイ14世の妃になっていて、この2人のあいだには次にフランス王になるはずのルイという息子がいて、そのルイには3人の息子がいたのですね。
このうちのアンジュー公フィリップにスペイン王を継がせたいという遺言を、カルロス2世は残していたのですよ。

太陽王とも呼ばれるルイ14世は、5歳でフランス王に即位してから77歳で死ぬまで、一言でいえばフランス王国の拡大政策に生きた王でしたから、この遺書が本物であるにせよ偽物であるにせよ、それを根拠として自分の孫であるアンジュー公フィリップをスペイン王にしようとするのは当然の成り行きですね。
スペイン継承戦争はオーストリア・ハプスブルク家とフランス・ブルボン家との戦いである以上に、スペイン国内の諸侯やイギリスなど諸外国の利権がからみあっていたのですよ。
1711年にカールの兄である神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世が死んで、カールはこちらを継がなくてはならなくなったため、結局はブルボン家のフィリップをスペイン王フェリペ5世として認めることで一応の決着はついたわけです。

『国事詔書』はマリア・テレジアが生まれる前に発布されていました

カールの兄であるヨーゼフ1世には娘が2人いたのですが、皇帝を継ぐことのできる息子はいませんでした。
それで弟のカールが皇帝カール6世になり、スペイン・ハプスブルク家は断絶したけれども、オーストリア・ハプスブルク家はひとまず安泰だったのですね。
カールはスペイン王になるためにウィーンからマドリードに行き、そこで1708年に結婚。
1711年に兄が死んだためにその妻を残してウィーンに戻ったのですから、まだこの時点ではこの夫婦のあいだに子どもはいませんでした。
ウィーンとマドリードという「遠距離婚」だったこの2人が再会するのは1713年。
なんとしてでも男の子の誕生が待たれました。

ハプスブルク家はオーストリア大公国ではオーストリア大公、ハンガリー王国ではハンガリー王、ボヘミア王国ではボヘミア王と、いくつもの領邦でその領主として広大な領国を形成していました。
それらの領主権を男子だけではなく女子でも相続できると決めたのが『国事詔書』で、マリア・テレジアに継がせるために公布されたと言われることもあるのですが、それは誤解です。
『国事詔書』が公布されたのは1713年で、長男レオポルトの生まれたのが1716年、長女マリア・テレジアの生まれたのが1717年ですから、まだ誰も子どもが生まれていないときに公布されていたのですよ。

6歳のときに15歳のプリンスに初恋しました

6歳のときに15歳のプリンスに初恋しました

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カール6世はハプスブルク家に残されたただひとりの男性だったのですから、もしかして自分に男の子が生まれなかったときのために『国事詔書』をつくっておいたのかもしれませんね。
カール6世夫妻はマリアにひたすら祈りを捧げたかいあって、1716年4月13日、ちょうど復活祭の月曜日に男の子レオポルトが誕生して、その心配も杞憂かと喜んだのも束の間、11月4日に死んでしまったのですよ。
1717年5月13日に生まれた子どもが長女マリア・テレジア。
1718年9月14日に生まれたのが次女マリア・アンナ。
そしてひ弱な皇帝妃が最後に男の子の誕生を祈って生んだ子どもが、1724年4月5日生まれのマリア・アマーリア。
その三女も1730年4月19日に死んでいます。






マリア・テレジアは自由奔放に育てられました

『国事詔書』はマリア・テレジアをハプスブルク家の後継者にするために公布されたというのは誤解ですが、結果としては女性であるマリア・テレジアが後継者になるための法的根拠になったわけです。
ただ、ヨーロッパの国際社会において、一度は承認されたものが突然くつがえされることはふつうにあることで、この『国事詔書』もその運命にあったのですが、それが現実になるのはもう少し先のことですね。
ともかく、マリア・テレジアはウィーンの宮廷で、いわゆる帝王学をたたきこまれるのではなく自由奔放に育てられたのですよ。

マリア・テレジアの6歳のときの絵が残っていますが、金髪でちょっとお茶目なかわいい女の子。
宮廷では仮面舞踏会などが行われていましたが、それには必ず参加して朝まで踊り続けたということです。
もちろん、読み書きやイエズス会による宗教教育もきちんと受けました。
マリア・テレジアの活発さは勉強の面でも生かされたようで、歴史も言語も芸術も音楽も、もちろん舞踏も大好きだったようですね。
とくに歴史にはハプスブルク家の先祖たちも登場しますからよく勉強したし、言語では宮廷社会に必要なフランス語はもちろん、20世紀になっても高校の必修科目で生徒たちに嫌われていたラテン語もよくできたとのことですよ。
ラテン語はハプスブルク家の支配下にあったハンガリー王国の公用語だったので、いずれこれが本当に役に立つことになったということになります。

15歳のロレーヌ公フランツ・シュテファンに夢中になりました

ドイツ語ではロートリンゲン、フランス語ではロレーヌと呼ばれる地域は、この当時公国でした。
マリア・テレジアの父カール6世とロレーヌ公レオポルト・ヨーゼフは従兄弟同士で、ロレーヌ公は15歳の息子フランツ・シュテファンをウィーンの宮廷に送り、そこで教育を受けさせようとしたのでした。
このときマリア・テレジアはまだ6歳でしたが、これがのちに「女帝」と呼ばれる彼女の初恋だったのですよ。
マリア・テレジアも金髪の美少女でしたが、フランツ・シュテファンもそのマリア・テレジアが「美しいフランツォス」と憧れたほどの美少年。

この初恋が実ってこの2人は結

1736年2月12日にこの2人は結婚しました

1736年2月12日にこの2人は結婚しました

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1729年にロレーヌ公が死んだだめ、フランツ・シュテファンはウィーンを去って故郷に戻ってしまいます。
マリア・テレジアが12歳のときですが、フランツ・シュテファンのほうも美少女マリア・テレジアのことが忘れられず、1730年にフランスに行ってウィーン行く許可を求めたのですが拒否されてしまい、5月13日のマリア・テレジアの13歳の誕生日には食事が喉も通らなかったということですね。
相思相愛の美男美女カップルですが、このクラスの貴族ともなると、恋愛にも結婚にも国際情勢がからんでくるのですよ。

Writer:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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