第8代将軍・徳川吉宗による改革「享保の改革」とは?

江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)によって始まった「享保の改革」。「寛政の改革(1787年(天明7年)から)」、「天保の改革(1830年(文政13年)から)」と並び「江戸時代三大改革」と呼ばれるこの改革は「財政の安定」を主題として行われた改革ですが、そこで行われた改革はいったいどのようなものであったのでしょうか。今回は歴史的改革の1つ・「享保の改革」で行われた細かい政策、改革後の出来事などを見ていきましょう。

改革を行った将軍・徳川吉宗

改革を行った将軍・徳川吉宗

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幕府財政が悪化する中で将軍に

改革を行った将軍・徳川吉宗は1684年(貞享元年)に紀伊藩(現在の和歌山県)主・徳川光貞の子どもとして誕生。
1694年(元禄7年)に元服(成人になったことを証明する儀式)を迎えると、1697年(元禄10年)には14歳の若さで5代将軍・綱吉から越前国(現在の福井県)丹生郡(にゅうぐん)3万石の土地を受け葛野藩(かずらのはん)主に。

吉宗は光貞の四男として生まれていましたが、ほかの兄たちが次々に病気で亡くなってしまい、徳川家の跡継ぎに。
これは紀伊藩主が「御三家(ごさんけ、家康の子どもによってはじめられた徳川家の家系)」に入っている格の高い家系であったことから実現したものでした。
その後1716年(享保元年)に7代将軍・家継が亡くなると、33歳の吉宗が8代将軍として幕府の頂点に立つことに。

吉宗が就任した当時の幕府は成立から100年以上のときが経っており、経済発展や武士の暮らしぶりなどは恵まれたものに変化していました。
しかしその一方で綱吉時代から増えた支出は貨幣の大量発行・物価上昇などの問題を引き起こし、幕府の財政も悪化した状態に。
綱吉は将軍に就任して間もない時期でしたが、そうした経済問題にすぐ対処しなければならなかったのです。

いよいよ本格化「享保の改革」

いよいよ本格化「享保の改革」

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「町奉行」による改革

幕府立て直しを任された吉宗がおこなったのは「町奉行」に関する事業でした。
「町奉行」とは江戸をはじめとした重要都市の領地の行政・司法を取り仕切る役職のことを指し、現代で言えば「警察」や「消防署」といった機関のような場所でした。
彼らが街を管理することにより、庶民が安心して街で暮らせるように配慮を行っていたのです。

この町奉行で有名な人物のひとり「大岡忠相(おおおかただすけ)」は旗本(武士の身分の1つ)の家に生まれ、10歳で大岡忠世家第2代当主・大岡忠真(おおおかただざね)の養子に。
その後山田奉行(やまだぶぎょう、伊勢神宮の警護や遷宮の奉行を行う役職)時代には公正な裁判の実施を吉宗に認められ、1717年(享保2年)には江戸町奉行に昇進します。

昇進を果たした忠相は経済政策に着手。
物価を安定させるために1722年(享保7年)には「物価引き下げに関する意見書」を町奉行であた諏訪頼篤(すわよりあつ)と連名で吉宗に提出。
炭や醤油などの商人に対して商品の流通段階で仲間を作らせ、物価高騰を抑えるように監視していました。
これがのちの「株仲間」制度の原型になって行きます。

そのほかには防災組織の改革にも手を加えることに。
それまで消防組織には旗本が行う「定火消(じょうびけし)」、大名による「大名火消(だいみょうびけし)」がありましたが、そこに町人による「いろは47組」の「町火消(まちびけし)」を設置。
度重なる火災に悩まされた江戸の消火活動を強固なものにする改革でした。







問題は当事者で解決「相対済令」発布

問題は当事者で解決「相対済令」発布

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江戸時代になると江戸の人数が約100万人にもなり、それによって発生する民事訴訟の数が増加。
こうした裁判は「奉行所」と呼ばれる場所で受け付けていましたが、訴訟の増加につれて裁ききれる裁判の数に限界が見えていました。
そうした中で設けられた制度が1685年(寛文元年)に発布された「相対済令(あいたいすましれい)」です。

令はその後1685年(貞享2年)と1702年(元禄15年)にも発布されていましたが、1718年(享保3年)に将軍となった吉宗も翌年にこの令を発布することに。
これまで発布された令は民事訴訟増加により「刑事訴訟に手が回らない」ことへの対処などが基本でしたが、吉宗が発布した令では金銭面を中心にしたものに。
ここでは「金銭が絡む訴訟(当時は金公事(かねくじ)と呼んだ)について奉行所では一切関わらない」ことを明記し、そうした問題については当事者間で解決することを求めたのです(令を悪用した借金の踏み倒し行為など「例外規定」は存在)。

奉行所側としては「仕事の負担が減る」という利点は考えられますが、問題当事者にとっては「第3者の見方」が無くなることは大きな欠点であり、そのように考えるとやや「乱暴」な令に見えるかもしれませんね。
この令は1729年(享保14年)まで適用されましたが、法令を悪用した借金の踏み倒しが続いたことで廃止されることとなります。

新たな農地を増やす「新田開発」

収入を増加させるために吉宗は新たに「新田開発(しんでんかいはつ)」という政策も実施。
これはその名の通り新しい田や畑を作るために農地を開墾するもので、食糧不足で米の生産が必要となってきた江戸時代の初期以降に盛んになります。

この時代の開発で積極的に進められたのが「町人請負新田」と呼ばれるもの。
新田開発は大きな利益が期待できる反面、開発のために莫大な費用が掛かるという欠点も存在していました。
そこで吉宗は多くの富を持つ裕福な町人に目をつけ、その町人たちに開発を任せようとしたのです。
1722年(享保7年)には江戸日本橋に開発を進める高札を立て、開発を推進してきました。

これ以降各地で開発がすすめられることになると、越後(現在の新潟県)の「紫雲寺潟新田」や関東地方の「武蔵野新田」などができあがり、のちに工作をしない町人が地主となり小作人を使う「地主・小作制度」も誕生。
このほかでは生産性向上のための農機具や肥料、農業技術・栽培方法について取り上げた「農書」が農学者・宮崎安貞(みやざきやすさだ)によって発表され、民間活力を利用した農業がおこなわれるようになりました。

西洋学問を取り入れる「漢訳洋書の輸入緩和」

西洋学問を取り入れる「漢訳洋書の輸入緩和」

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法律や農業の改革をおこなう中、海外の書物輸入も実施し始めます。
第3代将軍・家光の時代から始まった鎖国では「キリスト教が流れてくる恐れがある」ことを理由に、ヨーロッパをはじめ他国の書物輸入を禁止する措置をとっていました。
しかし吉宗はこれを一部緩和し、ヨーロッパの書物輸入禁止を一部緩和することを許可するのです。
このとき許可されたのは漢文に翻訳された書物で、中でもキリスト教に深くかかわらない実用書(科学技術書や地誌など)に限り輸入してよいことに。

またその流れの中で吉宗は儒学者・青木昆陽(あおきこんよう)と本草学者・野呂元丈(のろげんじょう)にオランダ語の習得をさせることに(オランダは鎖国中も日本と貿易を続けていた国の1つ)。
青木はオランダ語を学んだ結果を「和蘭文字略考 (オランダもじりゃっこう)」として発表し、後には飢餓対策として「サツマイモ」の栽培をおこなったことでも有名に。
野呂はヨハネス・ヨンストンの著作「鳥獣虫魚図譜」を日本最初の西洋博物学書「阿蘭陀畜獣虫魚和解」として翻訳。
2人とも西洋文化の導入に大きな役割を果たしました。

2人の功績はもちろん、この政策からは「禁止を続けて技術に後れを取るより、少しでも緩和して海外技術を取り入れよう」とする吉宗の姿勢が見えてきますね。

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