鎖国の終わりを告げる「日米和親条約」締結への道のり・その後に起こった出来事とは?

江戸時代後期に結ばれた「日米和親条約(にちべいわしんじょうやく」。江戸幕府3代将軍・家光時代から200年以上続いた「鎖国時代」を終わらせたこの条約は「開国」へと向かわせた条約として知られますが、この条約締結に至るまではどのような流れをたどったのでしょうか。今回は鎖国に終わりを告げた「日米和親条約」について、前後に発生した出来事、国内情勢の点も含めて見てみましょう。

条約締結に至るまでの出来事

開国へのきっかけ「ラクスマン来航」

開国へのきっかけ「ラクスマン来航」

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開国へ最初のきっかけを作ったのは、1792年に来航したアダム・ラクスマンを乗せたロシア船でした。
ラクスマンはフィンランド出身の博物学者キリル・ラクスマンを父に持ち、ロシア帝国(ロマノフ朝)の陸軍中尉を務めていた人物。
当時の皇帝・エカテリーナ2世の命を受け、江戸に向かう途中で漂流した大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らの送還、日本との国交を持つために日本へ向かいます。

根室(北海道)に到着したラクスマンは幕府と交渉しようとしますが通称は拒否、長崎へ行くよう指示されます。
その後ラクスマン一行は松前に向かいますが、ここでも幕府は国書の受け取りを拒否。
ラクスマン一行は漂流民の送還のみ終わるとオホーツクに帰港しますが、これは欧米諸国が江戸幕府に初めて開国を要求した瞬間となりました。

このときラクスマンは「信牌(しんぱい、長崎への入港許可証)」を受け取って帰国することになります。
このときは「これで通商への道が開けるかも」とラクスマンは考えていたかもしれませんが、事はうまく運んでいきません。
ラクスマンが受け取った「信牌」は12年後に大きな影響を及ぼすことになるのです。

レザノフ来航・襲撃事件への発展

ラクスマンが来航してから12年後、次に日本へやってきたのはロシア帝国の外交官であったニコライ・レザノフという男でした。
レザノフはラクスマンが来航時に受け取っていた「信牌(しんぱい、長崎への入港許可証)」を携えて出島に来航。
ラクスマンのときに果たせなかった通商を求めて長崎で交渉を試みます。

しかし交渉で意見が変わるほど幕府の考えは柔軟ではありません。
幕府側は「鎖国制度を変えることはできない」として通商を拒否、このときレザノフは半年以上待たされた後に通商拒否を言い渡されることとなり、これが彼の怒りに火をつけることに。

怒ったレザノフは日本側の領土を攻撃することを決めます。
部下に攻撃を命じたレザノフは樺太(からふと、ロシア連邦サハリン州の島)や択捉島を攻撃させ、幕府側も松前奉行(蝦夷地(現在の北海道)の防衛などを行う役職)や庄内藩(現在の山形県鶴岡市を本拠地とした藩)を警備にあたらせ対抗。
この事件は文化露寇(ぶんかろこう)、ロシア側では攻撃を行った部下ニコライ・フヴォストフの名前から「フヴォストフ事件」とも呼ばれ、1808年(文化5年)にロシア軍が撤退するまで続きました。

イギリス船が入港した「フェートン号事件」

イギリス船が入港した「フェートン号事件」

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続いても長崎に訪れた船に関する事件が発生します。
1808年(文化5年)に長崎・出島を訪れた船はオランダの国旗を掲げて入港してきましたが、これはイギリスの船。
実はイギリスの船がオランダの船を乗っ取り、オランダの旗を掲げて入港してきたのでした。

当時オランダとは「キリスト教徒貿易を切り離して交易できる」ということから交流を続けていましたが、この船がイギリス船であることに気づかない幕府側は入港を許可。
するとイギリス船員たちは人質を取り、食糧と燃料などを要求。
幕府側は交渉を試みますが、このとき出島側の警備は人員を削減しており手薄な状態。
まともに戦えば相手側の攻撃態勢にとてもかなわないのは明らかでした。
それを悟った出島側はイギリス側の要求を受け入れ、食糧と燃料を渡して引き返させることに。
人質も無事に解放され被害は出ませんでした。

しかしこれは幕府にとって大きな屈辱でした。
巨大戦艦を相手に何もできず、物を手渡して解決させたのは「力の足りなさ」を見せつけられたようなものですからね。
この事件の跡奉行は責任を取って切腹、幕府にとって小さくない痛手を負う出来事でした。







間宮林蔵の調査による「樺太発見」

外国船が頻繁に出入りするようになった日本では、周辺環境の調査に力を入れ始めます。
その中で有名なものが間宮林蔵による「樺太」調査でした。
1780年(安永9年)に常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)筑波郡上平柳村に生まれた間宮は普請役(ふしんやく、建築物の築造・土木工事などを行う人)として幕府に出仕、日本地図を完成させた伊能忠敬(いのうただたか)の弟子も務めていました。

伊能の下で測量法を学んだ間宮は1803年(享和3年)から西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島(得撫島(うるっぷとう)とも呼ぶ。
千島列島にある島)までの地図を作成。
1808年(文化5年)からは幕府の命により樺太探検を開始、翌1809年(文化6年)にはロシア・アムール川下流を調査し、樺太が大陸から全くかけ離れた位置にある島であることを発見。
この海峡は彼の名前をとって「間宮海峡」と名付けられることに。

調査を終えた間宮は1811年(文化8年)に「ゴローニン事件(千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが国後島で松前奉行配下の役人に拘留された)」調査のため松前に派遣されるなど活躍。
伊能の日本地図作成時には蝦夷地の部分を担当し、その後の地図完成に大きく貢献しています。

ドイツ人医師による「シーボルト事件」

ドイツ人医師による「シーボルト事件」

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1828年(文政11年)には日本に来ていた外国人医師による事件が発生。
それはドイツ人の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによる「シーボルト事件」です。

もとから日本に興味を持っていたシーボルトは日本に渡ることを希望しますが、「ドイツ人」であるシーボルトは正規のやり方では日本には来られません。
そこでシーボルトはオランダの東インド会社総督に頼み込むと来航が可能になり、長崎の出島の「オランダ商館医」となることに。
ドイツ人であるシーボルトはオランダ人に「なりすます」ことで日本行きを実現させたのです。

晴れて日本行きを果たしたシーボルトは1824年(文政7年)に「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を長崎郊外に開講。
集まった医学生に対して西洋医学、自然科学などを教授し蘭学者・高野長英(たかのちょうえい)などの人材がここから生まれました。

そんなシーボルトは4年間塾で教授したのち帰国することになりますが、このときに国外に持ち出すことを禁止されていた「日本地図」を持ち出したことが発覚。
地図を渡した天文学者・高橋景保(たかはしかげやす)は投獄、シーボルト本人も翌年に国外追放処分を受けることに。
地図を持っていただけで処罰とは現代では考えられないものですが、鎖国当時の幕府にとっては「重要な国家機密」であったのですね。

この事件は幕府にとって衝撃的なもので、これ以降幕府側は洋学に対する締め付けをより一層強めていくことになりました。

打払令の実行・幕府への批判

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