東インド会社の歴史をわかりやすく!”世界初の株式会社”の栄光と挫折

『東インド会社』。確か社会科の教科書に出ていたような気がするけれど、どういうものだったか全く覚えてない……という方も多いのではないでしょうか。”東インド”とは、400年以上前のヨーロッパの人たちにとっての”インダス川より東の地域”のこと。当時、まだアメリカ大陸の存在はそれほど知られてはいませんでしたので、東インドとは主に現在のインドやインドネシアなど東南アジア地域を指していたものと思われます。17世紀頃、こうした地域との貿易権を持つ特許会社が、イギリスやオランダなど高い航海技術を持つ国の中に誕生しました。これが『東インド会社』です。

東インド会社が誕生する前の世界

16~17世紀の世界の様子

16~17世紀の世界の様子

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東インド会社について考える前に、まず、400年ほど前の世界がどんな様子だったか、想像を巡らせてみましょう。

16世紀に入ってから、ヨーロッパではキリスト教の信仰をめぐる政治的な対立が激しさを増していました。
また、イギリスやフランスなどでは国王の力が絶対的なものに。
イタリアを中心としたルネサンスの時代は終わりを告げようとしていました。

地中海から東へ向かうと、そこにオスマン帝国が。
さらに東のペルシャ湾沿いにはサファヴィー朝、現在のインドにはムガル帝国という強大な国家が存在していました。

中国大陸は明王朝の時代。
日本では間もなく鎖国が始まろうとしていた、そんな時代のお話です。

ヨーロッパの人口はおよそ1億人、ムガル帝国は1億人を優に超えていたと言われています。

この時代、船旅にはまだまだ、危険が伴いました。
ヨーロッパの外に漕ぎ出すためには、高い航海技術や性能のよい船が必要であったことは言うまでもありませんが、それ以上に多くの労働力と莫大ない費用が必要となりました。
大きな力を持つ国でなければ、外洋を目指すことなどできない時代だったのです。

そして、何より忘れてはならないものが、胡椒(コショウ)をはじめとする「スパイス」。
この時代、ヨーロッパではまだ、香辛料の類は栽培することができなかったため、胡椒は大変貴重なものとして珍重されていました。
需要の高い香辛料は高値での売り買いが可能で、多くの富を求める国々はこぞって、香辛料の獲得に乗り出していたのです。

バスコ・ダ・ガマ、インド到着

東インド会社設立より100年ほど前のこと。
探検家バスコ・ダ・ガマは1497年7月、ポルトガル王マヌエル1世の命を受けて、リスボンを出発。
航海の目的地は「インド」。
旅の目的は、東方のキリスト教国を探すことと、香辛料を手に入れることでした。

ポルトガルからの航海は、まずアフリカ大陸沿いに大西洋を南下し、喜望岬を廻って北上。
モザンビークやマリンディといった港町を経由してインド洋を渡るという過酷なもの。
ガマの船団は100トンほどの大きさの船3隻で慎重に航海を続け、翌1498年5月、現在のインドの西南部にある海岸の港町カリカットに到着しました。

当時はまだ、ムガル帝国の統治は始まっておらず、南インドにはヴィジャヤナガル王国というヒンズー教国が治める小国がたくさん存在していて、既にイスラム系ペルシャ商人たちや中国商人たちが盛んに商売をしていたのです。
言葉も文化も異なるヨーロッパ人が入り込むためには”武力”が必要であると痛感したに違いありません。

こうした難しい状況下に於いて、バスコ・ダ・ガマは何とか交易を続けました。
ある程度の香辛料と、宝石など珍しい品々を買い集めることはできましたが、友好的な関係を築くことは難しいと感じ、1498年8月、インドを出発します。
苦労の末再びリスボンに辿り着いたのが1499年9月。
出発から実に2年以上の年月が流れていました。

ポルトガルの「海の帝国」

ポルトガルの「海の帝国」

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このバスコ・ダ・ガマの航海は、ポルトガルだけでなく地中海全域に大きな衝撃を与えました。
交易の道を開いたとは言い切れませんでしたが、それまで曖昧だったインドの存在が明らかになったうえ、希望の品々が手に入ることも明らかになったのです。

しかし一方で、東インドへの航海が非常に危険を伴うことや、交易は非常に困難であることから、左うちわで利益を得られるわけでないということもわかりました。

胡椒は欲しいが、継続して船を出すには莫大な費用がかかる。
ポルトガル王が二の足を踏む中、この航海で得た利益で大富豪となったバスコ・ダ・ガマは私費を投じて、二度目の航海に名乗りを上げます。
1502年2月のことでした。

ガマは20隻もの船の上に大砲を積み、インドへ向かう途中に寄港した港町に大砲を打ち込んで次々に制圧をしていったのです。
さらにインドの港町の沖合を通る船を拿捕するなど武力での制圧を続けます。
ガマはこの航海で、1度目とは比べ物にならないほど多くの品々を手に入れ、ポルトガルへ凱旋しました。
この後10年ほどの間に、インドの主要な港町のほとんどが、ポルトガルの武力による支配を受け入れていったのです。

こうしてポルトガルは15世紀の終わりから16世紀にかけて東インドに進出し、まるで海上に鎖を張り巡らせたかのようにインド洋一帯の交易を掌握していきました。

「ポルトガルの鎖」の限界

ポルトガルに富をもたらしたのは、正攻法の交易だけではありません。
インド洋一帯を通行する船にカルタス(通行証)の携帯を義務付けたのです。
カルタスを持たない船は容赦なく捕らえられ、積み荷は没収。
一方でカルタスを持つ者はポルトガルに税金を払わなければなりませんでした。
ポルトガルは東インドとの交易の全てを掌握することで「香辛料の独占」を試みたのです。

半ば力で押し切るような形で交易の全てを手に入れたと思われたポルトガルでしたが、その動きにもやがて影りが見え始めました。
海を制圧するためには各拠点に要塞や施設を設ける必要がありましたが、これらを維持するには巨額の資金が必要となります。
ポルトガルは”鎖”を広げすぎました。
自らの利益を守るために膨大な投資をしなければなりません。
香辛料で得た利益の大半はこうした設備投資の費用に消えていったようです。

この時代、インド洋の航海はまだまだ危険が多く、乗船する船乗りたちの大半は囚人か、一攫千金を狙う命知らずたちばかりで、国や国王に忠誠を誓う者はごくわずか。
それでも船を動かすためには労働力が必要です。
危険を顧みず船に乗る者たちは、おそらく相当高待遇であったと思われます。

東インドへ生きて辿り着いた者たちの多くは労働しつつ、個人の利益を得るための副業として「私貿易」に走り始めました。
中には現地に残って家族を持ち、富を築いた者もいたようです。

バスコ・ダ・ガマの東インド到達以来およそ100年に渡り、ポルトガルは多くの資金と武力を行使して洋上に一台帝国を築き上げました。
しかし時代の変化と共に、その体制を維持することが困難となっていったのです。

東インド会社の誕生

ポルトガルの衰退とオランダの登場

ポルトガルの衰退とオランダの登場

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1578年、ポルトガルはモロッコでイスラム軍と交戦し大敗を喫してしまいます。
この戦いで巨額の戦費を失っただけでなく、なんと国王が戦死してしまうのです。
王には嫡子がなかったため、王家は途絶えてしまい、国政は大混乱に陥ります。

その後ポルトガルは1581年にスペインの支配下に置かれることとなり、スペイン王フェリペ2世がポルトガルも治めることとなりました。
スペインは「太陽の沈まない国」と形容されるほど栄えたといいます。

このポルトガル併合が起きる少し前、フェリペ2世はカトリックによる国家統合を理想としており、周辺の国々にもカトリックの信仰を強制していました。
これに反発したベルギーやネーデルランド(後のオランダ)はフェリペ2世に対して反乱を起こし、これに賛同する人々は次々にオランダの都市に移住していきます。
経済の中心地であったベルギーの富豪や金融業者などがこぞってオランダへ移住したため、オランダの経済は大きく発展していきました。

それでもまだ、こと東インドへの航海・交易となると、ポルトガルの立場を脅かすような存在はまだ、出現していませんでした。
ポルトガル自体は衰退してスペインの一部になってしまいましたが、それでもまだしばらくは、東インドとの交易はポルトガルを中心に動いていたのです。

nekoichi(猫壱)

Writer:

歴史と歴史小説と遺跡を愛してやまない東京都在住の主婦。子供のころからの大の時代劇ファン。国内外問わず歴史小説を読むようになり、NHK人形劇「三国志」を見て中国史にはまって大学では東洋史学を専攻。愛猫とじゃれながら歴史小説を読み漁る毎日を送っている。趣味は古地図を眺めることとカメラ片手の街散策。

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