乱世の奸雄と呼ばれた「曹操孟徳」(曹操/そうそう)とは?

中国は後漢(25年~220年)の時代、その末期に一人の英雄が世に誕生したのです。その英雄とは「曹操(そうそう)」。マンガやゲームでも大人気の三国志、その三国時代の一つである魏の国の礎を作った人物です。「曹操」は決して高貴な家柄の出ではなかったが、自らの才覚一つで後漢の丞相まで成り上がり、呉・蜀をはるかにしのぐ勢力を持ち強国を作り上げたのです。また「曹操」は後漢を滅ぼして帝位に就くことも可能であったのに生涯後漢を背負い続け、後漢を滅ぼすことをしなかったのです。三国志演義の影響からか悪役にされることの多い「曹操」ですが、どのような人物だったのでしょうか。簡単にまとめてみました。


治世の能臣、乱世の奸雄

宦官の孫

宦官の孫

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「曹操」は155年、沛国譙県にて生誕。
字は孟徳。
幼名は阿瞞、または吉利。
父は「曹嵩(そうすう)」。

「曹嵩」は、前漢建国に貢献した功臣「夏侯嬰(かこうえい)」の末裔であり、元々は夏侯氏を名乗っていました。
しかし「曹嵩」の運命を変える出来事がおこったのです。
それは、後漢で権力を握っていた「曹騰(そうとう)」が、皇帝から養子をとることを認められたのでした。
「曹騰」は、皇帝やその周りの者の世話をする宦官でした。
宦官は去勢されているため、子孫を残すことは不可能だったのです。
しかし、高位に上り詰めた「曹騰」は、家名を残すために特別に養子をとることを許されたのでした。
そして「曹騰」が、養子に選んだ人物が「曹嵩」です。
「曹騰」の養子となった「曹嵩」は、夏侯氏ではなく曹氏を名乗り、義父の力のお蔭で、官僚としても順調に出世をしていったのでした。

その父「曹嵩」の子として誕生した「曹操」は高貴な家柄ではなかったですが、裕福な家庭で不自由なく育つのです。

悪ガキだった曹操

「曹操」は小さい時から頭が切れ、学問では並ぶものがないほどの才能を持っていたそうです。
広く種々な書物を読み、とりわけ兵法書が好きであったと言われています。
また自らの武芸も鍛え、腕前も相当なものがあったそうです。

しかし父である「曹嵩」は、つつましく穏やかな性格であったのに、「曹操」は父とは正反対の性格であったと言われています。

今でいう頭の切れる不良だったのです。

「曹操」のあまりの悪ガキさを苦々しく思っていた「曹操」の叔父は、その悪ガキ振りを逐一「曹嵩」に注意していたのでした。
しかしその小言を「うっとうしい」と感じていた「曹操」は、一計を案じ、わざと叔父の前で癇癪を起こした振りをし、「曹嵩」にその症状を伝えさせたのです。
驚いた「曹嵩」が、急いで「曹操」の元にやってきたのですが、そこでは普段と変わらない元気な「曹操」が居たのでした。
「曹嵩」が「叔父さんからお前が癇癪を起こしたと聞いたので急いで来たのだが」と伝えると「曹操」は、「私は元気ですよ。
あの叔父さんはいつも私のことをあることないことお父様に報告していますが、嘘ばかりです」と言ったのです。
「曹嵩」はこの事件後叔父の言うことを全く聞かなくなるようになったのでした。

また、将来のライバルとなる「袁紹(えんしょう)」と共に、他人の嫁さんを強奪したこともあるらしいです。

宦官の孫として、金銭的には全く不自由ない暮らしをしていましたが、宦官の評価は決して高いものではなく、反対に下に見る者がほとんどでした。
そのような環境で「曹操」の心は満たされなかったのかもしれません。

運命を変えた出会い

「曹操」はたぐいまれな才能に恵まれながらも不良であったため、立場の上の人からは目の敵にされ敬遠されていました。

しかし後漢の大尉の地位にあった「橋玄(きょうげん)」だけは「曹操」に対する評価は違っていました。

「橋玄」は、「天下は乱れようとしており、当代一の才の持ち主でなければ救うことはできない。
天下をよく安んじることができるのは君だ。」と「曹操」を評価していたのでした。

また「橋玄」に紹介された人物鑑定家の「許劭(きょしょう)」は、「曹操」を「あなたは治まった世では有能な役人だが、乱れた世になるとずるがしこく利益を得る奸雄だ」と評価したのです。

それを聞いた「曹操」は大笑い。
「乱世の奸雄か、それも悪くない」とつぶやいたと言われています。

20歳の時に孝廉に推挙され郎官となり、朝廷の実務を体験し、洛陽北部尉に着任。
違反者に対し身分関係なく、厳しく取り締まりをおこないました。

「曹操」が任期中に、門の夜間通行の禁令を犯した人物が居ました。
その人物は、皇帝に寵愛されていた宦官の叔父であり、その人物は甥の力で不当に罪を抑えようとしたのです。
しかし「曹操」は全く意に反さず、刑罰を実行。
その人物を棒叩きの刑により殺してしまったのです。

このような身分を問わず法を犯した人物には刑を実行することにより、法を犯すものが現れなくなり治安が保たれたのでした。

しかしこの事件により、「曹操」を煙たくなった宦官たちは県令という地位を与え、栄転として洛陽から追い出したのでした。

社会の混乱による曹操の台頭

朝廷の腐敗と黄巾の乱

朝廷の腐敗と黄巾の乱

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「曹操」が若い頃、後漢は14代「霊帝(れいてい)」の時代でした。

この「霊帝」は無能の人物だったようで、政治は自身の妃である「何皇后(かこうごう)」の一族である外戚と「霊帝」のそばに仕える宦官、特に力を持つ十常侍によって動かされることになります。
そして「霊帝」の興味はというと、金儲けであり、全ての官位は能力ではなく、お金で売買されることになったのです。

実は「曹嵩」も高額な資金で大尉という、高い地位を買ったのでした。
このようにお金さえあれば高い地位が買えるので、出世をしたい役人はたくさんのお金を手に入れるために、庶民に重税を課し、苦しめたのでした。

このような世が乱れている時、一人の人物が現れたのです。
その人物の名は「張角(ちょうかく)」と言い、最初は世の中を良くしたいと願うために、役人採用試験を受けたのでしたが、このような世の中では試験に通ることができませんでした。
落胆した「張角」は、後に太平道と言う新興宗教を始めたのでした。
そして自らは大賢良師と称し、信者を集めて行ったのでした。
「張角」には不思議な力があり、呪術による治癒行為で病人を次々と治して行ったのです。
社会の混乱と「張角」の不思議な力で太平道は瞬く間に広まり、10年余りで数十万人の信者を集めたのでした。
そして「張角」は、一大勢力となった太平道を使って、後漢を滅ぼし、皇帝になろうと反乱を起こしたのでした。

この反乱に加わった太平道の人たちは、目印として頭に黄巾と呼ばれる頭巾を巻いたことから黄巾の乱と呼ばれています。

曹操の初陣

184年黄巾の乱勃発。
ことを重く見た「霊帝」は「何進(かしん)」を大将軍に任命し洛陽の守備を任せ、そして豫洲潁川方面にいる黄巾族の討伐に向かせたが「皇甫嵩(こうほすう)」と「朱儁(しゅしゅん)」でした。

ところが「皇甫嵩」と「朱儁」は黄巾族の将である「波才(はさい)」に大苦戦。
「朱儁」は「波才」の軍に敗北、「皇甫嵩」は長社の守備にまわるが、「波才」の軍の勢いは強く城は包囲され、士気は下がるいっぽうでした。

そこで「皇甫嵩」は士気を鼓舞するため、夜襲を計画。
敵の陣営に火を放ち、強風にも乗った火は瞬く間に広がり、草原に陣を構えていた「波才」の軍は大混乱に陥ったのでした。
そこを自軍に攻撃させ大いに打ち破ったのでした。

ちょうどその時に援軍としてやってきたのが「曹操」でした。

「皇甫嵩」は、「朱儁」「曹操」の軍と協力して、豫洲潁川方面の黄巾族を討伐し、平定したのでした。

「曹操」は、豫洲潁川方面での活躍により、済南の相に任命されました。
赴任先の済南で、汚職をしている役人をクビにしたり、邪教を禁止することで平穏な街づくりを実現したのでした。

そこでの功績により東郡太守に任命されましたが、固辞し、病気を理由に故郷に帰り、隠遁生活に入ったのでした。

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