「忍耐の人」徳川家康が終の棲家に選んだ駿府城の歴史に迫る

駿河(するが)国、現在の静岡県にある駿府城は、現在は駿府城公園として生まれ変わった姿を見せてくれています。駿府城としての城を建設したのは、江戸幕府を開いた徳川家康。「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」の言葉通り、幼少からの人質生活、織田信長や豊臣秀吉への臣従と、天下を取るまでひたすら我慢し続けた彼が愛し、終の棲家とした駿府城の歴史を、その生涯と共に追ってみたいと思います。


駿府城とは

駿府城とは

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静岡県中部と北東部に当たる駿河国、その安倍郡府中(現・静岡県静岡市葵区)に駿府城を建設したのは、徳川家康です。
時は天正13(1585)年、織田信長が殺された本能寺の変から3年後のことでした。

当時は、城らしく天守を備えた姿をしていましたが、現在、天守はありません。
しかし、門や櫓(やぐら)が再建され、一部の堀も残っており、当時の姿をしのぶことができますよ。
今ではこの一帯が駿府城公園として整備され、人々の憩いの場として親しまれています。

このように徳川家康と関係の深い駿府城ですが、彼が支配する前は、今川氏が館をここに建てて本拠地とし、勢力を張っていたんです。

それでは、駿府城の前身とも言える今川館の頃から、歴史を追っていきましょう。

家康以前の駿府

家康以前の駿府

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駿河の地を支配していた今川氏は、14世紀にここにやって来ました。

室町幕府を開いた足利尊氏に従い功績を挙げた今川範国(のりくに)が、幕府から駿河の守護に任命されたんです。

ちなみに、守護とは、室町幕府が各国に設置した役職で、国の軍事と行政権を持っていました。
正直、幕府の力が弱くなれば好き勝手し放題なので、幕府の弱体化と共に戦国大名化していったわけです。
この今川氏っもその例に漏れません。

駿河の守護に任命されると、今川氏は駿府に本拠地を定め、館をつくりました。
この時はいわゆる「城」というような形ではなかったんですね。

そして、今川義元(よしもと)の頃に全盛を迎えると、今川氏は向かう所敵無しの最強戦国大名となっていったのです。

この頃、幼い家康は人質として駿府で日々を過ごしていました。
天文18(1549)年~永禄3(1560)年にかけてのことです。

当時、家康の実家・松平氏は「超」がつくほど弱小だったので、今川氏に守ってもらうために家康を人質に出さざるを得なかったわけなんですね。

そういうわけで、駿府で幼少時代を過ごした家康ですから、おそらく今川館も訪れていたことでしょう。
しかし、ここに将来自分の城を建てることになるとは、想像していたんでしょうか?

いや、狸親父と言われるくらいですから、もしかしたら、少しくらいは腹の底にそんな思いがあったかもしれませんね。

今川から武田へ、そして家康へ

今川から武田へ、そして家康へ

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全盛を誇り、誰も太刀打ちできなかった今川氏ですが、永禄3(1560)年に起きた桶狭間の戦いにより、義元が織田信長に討ち取られてからは、坂道を転げ落ちるかのように力を弱めていきます。

すると、これに付け込んで攻め込んできたのが、隣国・甲斐(山梨県)の武田信玄でした。
そして今川氏は駿府を追われ、この地は武田氏の領地となりました。
この時に今川館は失われてしまったんです。
これが永禄11(1568)年、桶狭間の戦いから10年も経っていませんでした。
そこから天正10(1582)年までが武田氏による支配となります。

しかし、武田氏による支配も長くは続きませんでした。
信玄が亡くなると、武田氏はやはり今川氏のように力を弱めていき、やがて、急速に力を付けた織田信長、そして彼と連合した徳川家康の軍に敗れ、滅亡の一途を辿ることになるのです。

そしてようやく、家康が駿府を手にすることとなったのでした。

ここから駿府城の歴史が始まります。

徳川家康による駿府城築城

徳川家康による駿府城築城

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武田氏を滅ぼした戦いで功績を挙げた家康は、信長から新たな領地を与えられました。
それが、駿河だったんです。
駿河は家康の元々の領地・三河(愛知県)の隣でもありましたから、家康にとっては着実に領地を広げることができたわけですね。

この時、信長にお礼を言うために信長の安土城(滋賀県)に行き、その後に堺(大坂)の街を見物している間に、本能寺の変が起こり、信長が討たれてしまったんですよ。

しかし、何とか本能寺の変の混乱を切り抜けると、家康はついに駿府城の築城に取り掛かります。

彼が、拠点を長年慣れ親しんだ浜松城から駿府城に移して入城したのは、天正14(1586)年、豊臣秀吉の家臣となってからのことでした。
翌年には天守なども完成し、ついに家康がここに腰を落ち着けるかに見えたのですが…できたばかりの駿府城の城主は、早くも後退することとなったのです。

家康の関東移封とその後

家康の関東移封とその後

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豊臣秀吉は天下統一のため、関東一帯に勢力を張っていた北条氏を滅ぼします。
その際はもちろん家康も従っていました。

そして戦後、各武将の戦績に応じて領地を分配する論功行賞(ろんこうこうしょう)が行われたのですが、なんと家康は、関東への国替えを命じられてしまったんです。

駿府城が完成し、ようやくここを本拠地として足場を固めようという矢先、縁もゆかりもない江戸へと行かなければならなくなったのですから、家康の心中は穏やかではなかったでしょうね。

とはいえ、そこは「忍耐の人」家康。
秀吉の命令に従い、駿府城から江戸城へと移ることにしたのでした。

では、その後の駿府城には誰が入ったのかというと、秀吉の重臣だった中村一氏(なかむらかずうじ)という武将です。
自身の腹心の部下を置くということは、つまり、駿府城は重要な地点だったというふうに考えられますよね。
そんなところに、自分に次ぐ力を持つ家康を置いておくなんて、秀吉には有り得ないことだったのでしょう。

そこから家康が駿府城に戻ってくるまでには、まだ少し時間がかかります。

家康、ついに駿府へ戻る

家康、ついに駿府へ戻る

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豊臣政権下では、ナンバー2として雌伏の日々を過ごしていた家康ですが、先に秀吉が亡くなったことで、ようやく彼にも天下人となるチャンスが巡ってきました。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで、家康率いる東軍が、石田三成らの西軍に勝ったことで、家康の天下は決定的なものとなります。

そこで、家康は自分の手に駿府城を取り戻します。
まずは、戦いの翌年に家臣の内藤信成(ないとうのぶなり)を駿府城主に送り込みました。
実はこの人物、家康の異母弟説もある人なんですよ。
つまりは、自分の手に駿府城をほぼ取り戻したことになります。

そして慶長8(1603)年、家康はついに征夷大将軍となり、江戸幕府を開設します。

この時はまだ江戸城にいた家康ですが、将軍となった2年後には、あっさりと将軍職を息子の秀忠(ひでただ)に譲ってしまいます。
そして自分は大御所(おおごしょ)と名乗り、隠居の身とはいいますが、影の将軍として権力を振るうようになったんですよ。

そんな彼が、隠居の場所として、終の棲家として選んだのが、駿府城でした。

ついに家康は駿府城へ戻ってきたのです。

慶長12(1607)年のことでした。
家康が江戸へ去ってから17年の歳月が流れていました。

家康再来の駿府城

家康再来の駿府城

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家康が戻ってきた駿府城には、正式な城主がいました。

それが家康の十男・頼宣(よりのぶ)であり、彼を藩主とする駿府藩の城が、駿府城だったんです。
しかし頼宣はまだ5歳と幼かったため、事実上家康が城主でもありました。

家康は、ここで駿府城の修築と拡張に取り掛かります。

慶長10(1605)年、家康が大御所となった直後から、彼は諸大名による天下普請(てんかぶしん)を命じていました。

天下普請というのは、江戸幕府が大名たちに命じて行わせた土木工事のことを言います。
主に城や道路、河川工事などが行われました。
江戸城や名古屋城も、天下普請によって築城されています。

実は、この時点では、一大名になってしまったとはいえまだ豊臣家は健在でした。
秀吉の子・秀頼に、諸大名はいちおう忠誠を誓うような形も取っていたわけですが、将軍となり強大な力を手にした家康の命令に従わないわけにはいかなかったんですね。

駿府城の天下普請には、60家以上の大名が参加しました。

この工事によって、駿府城には三重の堀がつくられ、天守は城郭史上最大のものができ上がったんです。
家康の力を見せつけたんですね。

そして、慶長12(1607)年の7月に、家康は意気揚々と駿府城に入りました。

完成から5ヶ月で焼失!?

完成から5ヶ月で焼失!?

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ところが、家康の入城からわずか5ヶ月ちょっとしか経たない12月22日のことでした。

城内からの失火により、駿府城の主な建物は焼失してしまったんです。
なんてことでしょうか。
完成してすぐに燃えてしまったので、どんな形の城だったのかさえ、具体的には分かっていないほどなんですよ。

しかし、家康は全然めげませんでした。
それどころか、翌年の正月にはすぐに再建工事に取り掛かったんです。
しかも、その年のうちに基本部分となる本丸を完成させたのでした。
車や重機のない当時のことを思えば、とんでもない速さで再建したことがわかると思います。

そして、慶長15(1610)年には天守も再完成し、新たな駿府城が生まれたのです。

家康は、この新生駿府城に亡くなるまで住み続けました。
彼が亡くなったのは、元和2(1616)年。
豊臣家を大坂の陣で滅ぼし、徳川氏の天下を揺るぎないものとしてからのことでした。

家康の存命中は、駿府城は江戸城に並ぶほどの存在だったということになりますね。

さて、それでは、家康亡き後の駿府城はどうなったのでしょうか。

次のページでは『家康没後の駿府城』を掲載!
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Writer:

世界と日本がどのように成り立ってきたのか、歴史についてはいつになっても興味が尽きません。切っても切り離せない旅と歴史の関係を、わかりやすくご紹介していけたらと思っています。

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