ウィーンの観光で是非とも見たい歴史スポットあれこれ

オーストリアの首都ウィーンの名前はラテン語の「ヴィンドボーナ」から来ていると言われています。ラテン語といえば古代ローマ帝国の言語で、ドナウ川の南にあるウィーンはローマ帝国の時代に要塞として建設されたのですよ。ところでこの「ヴィンドボーナ」の意味ですが、ドナウ川沿いに広がるウィーンの平原を吹き渡る「よき風」という解釈があります。もっともローマ人がここに要塞を建設する前にケルト人が住んでいますから、「ヴィンドボーナ」がケルト人の言葉からきているとすれば、「荒れ地の小川」という別の解釈も成り立ちます。いずれにせよ、ウィーンの旧市街はどこをどう歩いてみても不思議な空間をさまよっている感じがします。オーストリアでは歴史的なスポットに必ず赤と白の旗がかかっていて、その下にその場所で何があったのか簡単に書かれた文字盤があります。そのすべてをここで紹介することは不可能ですが、さあ、今からいくつかウィーンの歴史的スポットを巡ってみることにしましょう。


ウィーン中心部を歩いてみましょう

ウィーンは中世に都市として発展しましたが、それ以前のウィーンは遺跡として土の下に眠っています。
ローマ帝国時代の遺跡は発掘されて見学することができるのですよ。
それとは別に、シュテファン大聖堂の地下にはカタコンベがあり、その見学ツァーに参加するとペストで死んだ人たちの無数の骸骨が埋まっているのを見ることができます。
そのツァーを終えて地上に出ると、そこはウィーン随一の目抜き通り。
その大きな落差に、ウィーンという都市の歴史の広がりをつい感じてしまいますね。
それでは、ウィーンの中心で部ある1区を少し歩いてみることにしましょう。

アム・ホーフとホーフブルク、どっちが古い?

アム・ホーフとホーフブルク、どっちが古い?

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「ホーフ」というドイツ語は「中庭」という意味ですが、中庭があるということは大きな「屋敷」ですね。
屋敷のなかでもとくに大きいのは「宮廷」。
ということで、「ホーフ」という語はここでは「宮廷」として理解しておきましょう。
ところでウィーンには、旧市街とリンクシュトラーセのあいだにホーフブルクという壮大なハプスブルク家の宮廷がありますね。
それにもうひとつ旧市街にはアム・ホーフという地名が残っていますが、宮廷らしい建物は見当たりません。
ハプスブルク家がウィーンに宮廷をおく以前、バーベンベルク家がウィーンに宮廷をおいていて、それがこのアム・ホーフだったので、こちらの宮廷の方が古いのですよ。

オーストリアではある地域を4つに区分けすることが一般的で、ウィーンの旧市街もケルントナー通りとローテントゥルム通り、それにグラーベン・ナーグラー小路・ショッテン小路ととジンガー通り、この4本の道で区切られています。
ナーグラー小路・ショッテン小路とローテントゥルム通りに囲まれた区域にフライウングという広場があり、ここがアム・ホーフ。
ここにバーベンベルク家の宮廷があっのですが、その地下にローマ帝国時代の遺跡があって見学することができます。
この区域がウィーンでもっとも古い市街ということになりますね。

建設公ルドルフ4世がシュテファン大聖堂の基礎を築きました

建設公ルドルフ4世がシュテファン大聖堂の基礎を築きました

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先ほど述べた十字路のちょうど真ん中にあるシュテファン大聖堂は、どこから見てもウィーンのシンボル。
高さ107.2メートルのゴシック様式の尖塔がウィーンの中心にそびえていますが、これは世界で3番目に高い教会の塔。
2001年にユネスコ世界遺産に登録されていますね。
シュテファン大聖堂がゴシック様式でこの場所に建設される以前に、13世紀に後期ロマネスク様式の教会が建設されていたのですよ。
大聖堂入り口の扉がロマネスク様式独特のカーブを描いていますが、それがそのその名残ですね。
ゴシック様式で建設され始めたのはハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト2世(1326~1358)の時代ですが、その当時はまだ大聖堂ではありません。

大聖堂というのはカトリックの司教がいる教会のことで、ドナウ川をかなりさかのぼってオーストリアからドイツに入ったところにパッサウという都市がありますが、当時はここに司教座聖堂があったのでした。
建設公と呼ばれるルドルフ4世(1358~1365)が父親の後を継いで、ウィーンを世界で一番の都市に、ハプスブルク家を世界で一番の貴族にしようとしたのでしたが、若くして死んだためにその意志を貫くことができませんでした。
ルドルフ4世の遺骸はシュテファン大聖堂の一角に眠っていますが、そこからウィーンとハプスブルク家の発展をじっと見守っていたことでしょう。

グラーベンの中央にペスト記念柱が立っています

グラーベンの中央にペスト記念柱が立っています

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すでに述べましたが、グラーベンの地下には1679年のペストで死んだ人々の遺骸が埋まっています。
3人に1人が死んだと言われている伝染病のペストでしたが、ワクチンなどが開発されたわけでもないのに、ペストは嵐のように過ぎ去っていったのですね。
それはもちろん神の恩寵ということになりますから、グラーベンの中央には1682年から1694年にかけてペスト記念柱が建てられました。
この当時の皇帝はレオポルト1世(1640~1705)でしたが、この時代はペストばかりではなく、オスマン・トルコがウィーンを包囲したのでした。
トルコによるウィーン包囲は1683年のことでしたから、ペスト記念柱の建設は中断。
しかし、これも神の試練と考えられたわけですね。
この時代をちょうどバロック時代と呼んでいます。

21メートルの高さのペスト記念柱は3層構造になっていて、下から人間、天使、そして先端には神と子と聖霊の三位一体像。
天使の層は3つに分かれていて、それぞれの層に3人ずつ合計で9人の天使を配置。
一番下の人間の層では皇帝レオポルト1世がひざまずいて神に祈りを捧げているのですが、柱全体の中央にいるのですね。
その足元には、ルドルフ2世(1552~1612)が私的に作らせた皇帝の帝冠とハンガリー王の王冠とボヘミア王の王冠がありますが、これはハプスブルク家の支配の象徴。
なおこの帝冠は最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(1768~1835)が1804年にオーストリア皇帝に即位したときに用いられ、それ以後はオーストリア皇帝の帝冠になっています。
土台は四角形ですがこれき世界を象徴していますから、トルコを破ったハプスブルク家の世界支配を象徴していますね。

カプチン派教会にはハプスブルク家の皇帝廟があります

ペスト記念柱から引き返してケルントナー通りを少し南に進んだところを右に曲がると、それほど大きくはないけれど壁に絵が描かれた教会があります。
これはカプチン派教会で、カプチン派というのは茶色の帽子が特徴的な修道会のことです。
カプチーノというコーヒーはこのカプチン派の修道僧の帽子の色からきているのですよ。
ウィーンの旧市街にはいくつもの教会がありますが、そのなかであえてこの小さな教会のことを取り上げたのは、ここには皇帝廟があるからです。

ハプスブルク家が歴史の表舞台に登場したときのドイツ王ルドルフ1世(1218~1291)は、自分の死期を悟ったのかその晩年にウィーンからはるばるシュパイヤーまで出かけていき、そこの大聖堂の「皇帝聖堂」に遺体を安置させました。
当時ウィーンには大聖堂がありませんし、もちろん皇帝廟もありませんね。
カプチン派教会は1622年から1632年に建設されたバロック式の教会。
皇帝マティアス(1557~1619)の1618年に亡くなった皇帝妃アンナのためにこの教会は建設され、2人の遺骨が納められています。
それが皇帝廟の由来ですね。
入口には1683年にトルコ軍に対する勝利祈願をしたマルクス・フォン・アヴィアーノの像が建っています。
ハプスブルク家の人たちの多くがこの皇帝廟に安置されていますが、なかでもマリア・テレジア(1717~1780)とその夫フランツ1世(1708~1765)が一緒に納められた棺はひときわ豪華ですね。
そのほか、幼くして死んだ幼児たちも小さな棺に納められていて感慨深いですね。

アウグスティーナ教会とホーフブルクはつながっています

アウグスティーナ教会とホーフブルクはつながっています

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そこから少し歩くと、アウグスティーナ教会があります。
これはホーフブルクの一部と考えていい教会で、1330年から1339年に修道院の一部として建設されました。
ハプスブルク家の人たちの多くはカプチン派教会の皇帝廟にその遺体が安置されていますが、心臓はこのアウグスティーナ教会に保管されているのですよ。
教会の中に入るとまず目につくのは、白い天女のレリーフですが、これはマリア・テレジアの四女マリア・クリスティーネ(1742~1798)の死後その夫であるザクセン・テッシェン公アルベルト2世(1738~1822)がその思い出のために作らせたもの。

アウグスティーナ教会の南にはアルベルティーナ宮殿があり、これは現在は美術館になっていますが、教会の北側はホーフブルクの古い部分になります。
バーベンベルク家がアム・ホーフを宮廷にしていたのは1156年でしたが、ホーフブルク自体も13世紀には何か建物があったようですね。
1449年には礼拝堂があったことが確認されていますが、ハプスブルク家としては皇帝フェルディナント1世(1503~1564)が1533年にここを宮廷にすることを決定。
なおフェルディナント1世は神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世(1500~1558)の弟で、オーストリア・ハプスブルク家の創始者ですよ。
現在スイス宮と呼ばれている部分を1536年から1552年にかけて改築させ、オーストリア・ハプスブルク家の宮廷としてふさわしいものにしようとしたのでした。
しかし、これはまだホーフブルクの長い歴史のほんの始まりだったのですよ。

リンクシュトラーセを歩いてみましょう

古いホーフブルクはウィーン旧市街の出入り口にもなっていて、神聖ローマ皇帝とオーストリア皇帝の帝冠などを展示する王宮博物館と、フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)の皇帝妃エリーザベト(1837~1898)の遺品などを展示するシシー博物館が左右にあります。
このトンネルを抜けると広大な英雄広場とホーフブルクの新宮殿があり、その向こうにはウィーンの旧市街を一回りする環状道路リンクシュトラーセ。
次にこの通りを歩いてみることにしましょう。

Writer:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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