悲劇的な最期を遂げた天才「平賀源内」とはどのような人物?

日本史では江戸時代に登場する人物「平賀源内(ひらがげんない)」。一般的に「エレキテル」という言葉と結びつくことが多い彼は地質学者、蘭学者、発明家と多様な顔を持つ人物でもあり、悲劇的な最期を遂げた人物としても知られています。それではそんな「平賀源内」とはいったいどのような人物であったのでしょうか。今回は彼が送った生涯、ゆかりのスポットや人物に触れてみましょう。

若いころから才能を発揮

幼少期から発揮された天才ぶり

讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の下級武士の家に生まれた源内は、小さなころから才能を見せつけます。
彼が11歳の時に造った「お神酒天神」はからくり仕掛けの掛け軸で、仕掛けられたひもを引くと天神様の顔が赤くなるというもの。

こうした才能を発揮すれば、源内の存在を周囲が放っておくわけがありません。
成長した源内は13歳の頃から高松藩(香川県東部)士・福岡官兵衛の下で本草学(ほんぞうがく、東アジアなどで発達した医学に関する学問)を学び始めると薬草に関する知識を得るようになり、俳諧(はいかい)や陶芸にも親しむようになります。
こうした才能は藩の人間にも認められるようになり、1748年(寛延元年)に父が亡くなると藩に仕えるようになり、1752年(宝暦2年)からは藩の命令で1年間長崎へ遊学。

その後1756年(宝暦6年)から江戸に出た源内は本草学を学ぶため本草学者・田村藍水(たむららんすい)に弟子入り。
この頃の世間では動物や植物、鉱物に対する興味関心が高まっていた時期とされており、その流れで本草学が盛んになっていました。
源内はこうした世間の流行を見ながら「学問を産業に役立てる」ことを考え、ある試みを行うことを決めます。

物産会の実施・自由の身に

本草学が流行する世の中の流れを見た源内は、1759年(宝暦9年)に江戸の湯島(現在の文京区)で薬品会(やくひんえ、物産会)を開催します。
ここでは日本では珍しい動植物や昆虫、鉱物などを集め展示するこの催しは日本中の注目を集めるようになり、出品者は年を追うごとに増加していきました。

この催しにはのちに「解体新書(かいたいしんしょ)」を出版することで知られる蘭学者・杉田玄白(すぎたげんぱく)、中川淳庵(なかがわじゅんあん)といった有名人も訪れており、彼らとはこれをきっかけに交友を持つようになります。
有名人をも引き寄せるプロデュース力が存分に発揮されていますね。

こうした取り組みで実績を上げた源内は1763年(宝暦13年)になると展示した約2000種から約360種を厳選して掲載した「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を出版。
これによって本草学者として有名な存在となりますが、源内の野望はこれでは終わりません。
更なる研究を続けようとする源内は自由の身になることを求め1761年(宝暦11年)に高松藩を辞職、これによって自由の道を選ぶことになります。

厳しい道のり・さまざまな試み







鉱山開発への挑戦・挫折

鉱山開発への挑戦・挫折

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晴れて自由を手に入れた源内ですが、この辞職によって他藩への仕官(官職について役人となること)を禁じられることになり、源内は一生浪人として生活することに。
安定した将来を捨てたことで、道を自分で切り開かなくてはいけなくなりました。

時代が明和(めいわ)に移った時代には秩父(埼玉県秩父市)で鉱山の開発を行うと、このときに石綿(アスベスト。
現在は長時間吸引により病気を引き起こすとして規制されている)を発見。
これが火に燃えにくいことを突き止めた源内は石綿を原料にした布として「火浣布(かかんぷ)」を発表。

石綿を発見した源内はさらに研究を続行、次は廃坑になっていた金山の再開発事業を実施することに。
1766年(盟和3年)に幕府から再開発許可を得ると事業に本格着手しますが採掘量は思ったように伸びず、事業はわずか3年で廃止に追い込まれてしまいます。
この失敗は周囲の源内に対する見方に大きな影響を与え、嘘つきの「山師(ペテン師)」と呼ばれるように。
源内を取り巻く環境は厳しいものになっていきます。

文化でも才能は発揮される

多彩な源内は鉱山開発などを行う中で、文学の才能も発揮していました。
1763年(宝暦13年)には作家名「風来山人(ふうらいさんじん)」として「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」を発表。
江戸時代中期に講釈師(軍談・講談の講釈を行う職業)をしていた深井志道軒(ふかいしどうけん)を主人公にした物語で、日本全国などの遍歴を描きながら世間を風刺するものでした。

またこの年には「天竺浪人(てんじくろうにん)」の名で「根南志具佐(ねなしぐさ)」という作品を発表。
これは当時人気の女形俳優であった荻野八重桐(おぎのやえぎり)が溺死した事件を基に書いたもので、地獄に住む閻魔(えんま)大王がほれ込んだ俳優を地獄に連れてくるよう竜王に命じるという話。

文学作品を発表した源内は浄瑠璃の世界にも進出し、武蔵国矢口渡(現在の東京都大田区)で憤死した南北朝時代の武将・新田義興(にったよしおき)の死とその後の話を取り上げた「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」を「福内鬼外 (ふくちきがい) 」の名で発表。
1770年(明和7年)に江戸外記座で初演されると、江戸で発生した「江戸浄瑠璃」を代表する作品に。
商業で成功した源内は、文化の世界でもその才能を発揮したのです。

エレキテルの復元・評価されない不満

エレキテルの復元・評価されない不満

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源内が次に手掛けたのは「エレキテル」と呼ばれる機械の復元でした。
「エレキテル」は江戸時代にオランダから伝わった摩擦起電器で、内部にあるライデン瓶(蓄電瓶)を外付けハンドルで回し摩擦電流を発生させる仕組み。
本草家の後藤梨春(ごとうりしゅん)が『紅毛談』(1765)で紹介したことでも知られていますが、1769年(明和6年)に長崎へ留学していた源内が発見した際は破損した状態でした。

1770年(明和7年)に機械を手に入れた源内はすぐ修復作業に着手。
復元には多くの時間を割き完了したのは1776年(安永5年)でしたが、実験で電気が流れる様子は人々の関心を大いに集めることとなりました。
このとき源内は電気に関する知識をほとんど持っていなかったとされていますが、その状態でも直してしまう源内の熱意は見事なものです。

しかしこれだけやっても源内の能力は認められません。
こうした状況を不満に思った源内は「放屁論」という作品を発表することになりますが、これは放屁を芸とするの曲芸をする芸人「曲屁福平」を題材にした本編(1774年)、後編(1777年)では創造性のない身分制社会を批判。
奇抜な人物を評価し社会を批判する作品であり、そこには常に新しいものを生み出そうとする源内の反骨心が表現されているのですね。

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