大正の雰囲気を残す名古屋の歴史的スポット「文化のみち二葉館」とは?

名古屋市東区にある歴史的スポット「文化のみち二葉館」。大正時代の有名人が住んだことで知られるこの邸宅は名古屋の歴史的観光スポットが集まる「文化のみち」に属し、現在は国の「登録有形文化財」に指定される貴重なスポットとなっています。そんな「文化のみち二葉館」はどのような歴史を歩んできたのか、今回はこの邸宅に関わった人々や館内、周辺の見どころ取り上げて見てみましょう。


スポットについての概要

「大正ロマン」の雰囲気が残る邸宅

「大正ロマン」の雰囲気が残る邸宅

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今回取り上げる「文化のみち二葉館(ふたばかん)」は名古屋市東区の中で「大正ロマン」の雰囲気が残る橦木町(しゅもくちょう)にある邸宅で、名古屋市営地下鉄桜通線「高岳(たかおか)駅」から徒歩約10分の場所にあります。

ここには日本の女優第1号となった川上貞奴(かわかみさだやっこ)と愛人として連れ添った実業家・福澤桃介(ふくざわももすけ)が1920年(大正9年)から1926年(大正15年)まで住んでおり、邸宅の名前は当時の邸宅が経っていた東二葉町(現在の名古屋市東区白壁3丁目)であったことから付けられたもの。

かつて建っていた邸宅は2人が活動拠点を東京に移すようになった1937年(昭和12年)に分割処分され、現在の建物は2000年(平成12年)に名古屋市によって移築されたもの。
2005年から現在の形式で一般公開されており、内部では住んでいた当時の生活様式・地方ゆかりの作家についての展示を見ることができます。

日本の女優第一号「川上貞奴」

ここに住んでいた人物の1人が「川上貞奴(かわかみさだやっこ)」という女性。
1871年(明治4年)に東京・日本橋に本名「小山貞(こやまさだ)」として生まれた彼女は、7歳の時に家の経済状況を理由に芳町(よしちょう、現在の東京都中央区)の芸妓置屋「浜田屋」女将の養女に。
そこで生活するようになった彼女はそこで伝統の名前とされていた「奴」の名を授かり「貞奴」の名を襲名。
やがて芸妓として座敷に上がり始めた貞奴は秀でた実力から大きな注目を集めるようになり、時の総理大臣・伊藤博文が注目するほどの存在に。

その後1891年(明治24年)に芸術家・川上音二郎と結婚、1899年に音二郎一座のアメリカ興行に同行しますが、ここで女形を務める予定であった役者が急死。
急きょ代役を務めることになった貞奴はここでの演技により「日本初の女優」となり、欧米でも有名な存在に。
思わぬ形で巡ってきたチャンスを見事に生かしたのです。

その後は一座の興行で訪れたフランス・パリで彫刻家オーギュスト・ロダンを魅了するなど活躍を続け、1908年(明治41年)には後進育成を目的として東京・芝に帝国女優養成所を設立。
1911年(明治44年)に夫・音二郎が亡くなると1917年(大正6年)に女優引退を宣言、大規模な引退興行を行って演劇の舞台を去りました。

女優を引退した貞奴は福澤桃介と同居する前の1918年(大正7年)に「川上絹布株式会社」を設立するほか桃介を事業・私生活で支え続け、1946年(昭和21年)に75歳でこの世を去りました。

貞奴と共に住んだ名実業家「福澤桃介」

その貞奴とともにこの邸宅に住んでいたもう1人の人物は実業家・福澤桃介(ふくざわももすけ、旧姓岩崎)です。
1868年(慶応4年)に武蔵国(現在の埼玉県)に生まれた桃介は、若いころから学問に興味を示し、16歳となった1883年(明治16年)に慶應義塾へ入学。
学校で行われていた運動会で活躍する桃介の姿を見た福澤諭吉の妻・錦の目に留まり福沢家の婿養子として迎えられることに。

婿養子に入った桃介は学校を卒業するとアメリカへ渡ることに。
アメリカでは当時国内最大の鉄道会社であった「ペンシルベニア鉄道」の事務見習いを務めたのち帰国、1889年(明治22年)12月に諭吉の次女・房と結婚すると正式に福澤姓に変更。
貞奴と桃介が出会ったのはこの時期に近い1885年(明治18年)頃とされ、野犬に襲われた貞奴を桃介が助けたところから関係が始まったと言われています。

福澤姓を名乗った桃介は次第に商売の才能を発揮し始め、日清戦争後の1895年(明治28年)には株取引で約10万円(現在の勝ちで約20億円)の利益を出す大儲け。
その後は東邦電力(現在の中部電力)、東邦瓦斯(現在の東邦ガス)、愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)などの経営に携わり「電力王」の別名で呼ばれるようになりました。

館内の展示・人々の歴史

デザイナー・杉浦非水作の「ステンドグラス」

デザイナー・杉浦非水作の「ステンドグラス」

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入り口入ってすぐの場所にある大広間に設けられているステンドグラス。
これは桃介の義弟であった杉浦非水(すぎうらひすい)がデザインしたもの。

杉浦非水(本名は杉浦朝武(すぎうらつとむ))は1876年(明治9年)に愛媛県松山市に誕生。
日本画家を目指して四条派(しじょうは、日本画界における大きな派閥の1つ)の画家・松浦巌暉(まつうらがんき)に師事。
その後東京美術学校(現東京芸術大学)日本画選科に入学すると洋画家・黒田清輝(くろだせいき)の指導により図案家へ転向、卒業後に大阪三和印刷所へ入社すると雑誌の表紙に近代的デザインを発表し話題に。

その後は中学校教諭、新聞社を経て1908年(明治41年)には三越呉服店の嘱託デザイナーに就任。
飲料メーカー「カルピス社」や1920年(大正9年)に開通した「東京地下鉄道」のポスターデザインなども手がけ、1935年(昭和10年)には多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)の創設に参加、自身は学校長と図案科主任を兼任し後進の育成にも尽力。
こうした功績から「日本のグラフィックデザインの基礎を気付いた」人物として現代でも高く評価されています。

ゆかりの品々が残る部屋

ステンドグラスのある大広間を抜けると、かつて食堂とされていた展示室へ。
ここには貞奴の生涯を紹介する展示、貞奴が活躍していた時代の資料を展示しており、中には名画家パブロ・ピカソが描いた貞奴のポスター、ドイツ人画家ミュッラーが1900年(明治33年)頃に描いた「サダ・ヤッコ(川上貞奴来演)」ポスター、貞奴が使用した舞台衣装と舞台「深山の美人」で使用した小道具を展示。
彼女がどれだけ世界に影響を及ぼしていたかがわかる内容です。

ここからさらに進んだ先の展示室には、創建当初のまま残されている和室を展示。
貞奴が愛用した着物や帯といった品々、桃介直筆の漢詩(唐代の詩人・崔敏童 (さいびんどう)の作)を書いた「桃介の書」、風景画が描かれた衝立が当時の生活ぶりを思い起こさせる内容。
その他には大理石でできた巨大配電盤、呼鈴と親機の展示もあり、呼鈴はどの部屋から呼ばれているかがすぐわかる造り。
このような電気設備の展示から「電力王」と呼ばれた桃介の姿を思い出すかもしれません。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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