【ざっくり理解】世界を揺るがした第1次世界大戦のおおまかな流れとは?

世界史を知る中で欠かせない大きな出来事の1つである「第1次世界大戦」。1914年から1918年にかけて戦いが繰り広げられたこの対戦は「人類史上初の世界大戦」とされている戦いで、約1千万人の戦死者を出す大きな戦争となりました。ではそんな世界を揺るがした巨大戦争・第1次世界大戦とはどのような戦いであったのか、今回は戦争前後の出来事も含めて流れを見てみましょう。

サラエボの事件で始まった大戦

原因は19世紀末にさかのぼる

原因は19世紀末にさかのぼる

image by iStockphoto

世界大戦への道のりは19世紀末にはすでに始まっていました。
この頃のヨーロッパ各国は「帝国主義」の考えをもとに「支配下にする国を増やそう」としていました。
この頃ヨーロッパ各国はアフリカのほぼ全土を支配下に置くようになりますが、多くの国が領地を求めやってくるわけですから争いにならないわけがありません。
こうした争いを避けるために1884年の「ベルリン会議」では「植民地分割の原則確認」の項目を設定、支配下に置く場合は「ベルリン協定調印諸国」に内容を報告、会議で確認された原則を守るように通達します。

しかしこれでも問題解決には至りません。
ドイツはフランスを警戒しオーストリア、イタリアと「三国同盟」を締結。
すると一方のフランスもイギリスと協商を締結、そこにフランスと「露仏同盟(ろふつどうめい)」を結んでいたロシアも加わることとなり「三国協商」がここに完成するのです。

ヨーロッパの火薬庫

ヨーロッパの火薬庫

image by iStockphoto

長い間「オスマン帝国」に支配されてきたバルカン半島ですが、国内では独立へ向けた動きが活発化していました。
19世紀以降に次々と国民国家が誕生すると、国境を巡った争いが増加。
帝国の支配下にあるブルガリア、1878年のベルリン条約によりオーストリア・ハンガリー帝国が占領することとなっていたボスニアとヘルツェゴビナはロシアの指導する「パン=スラブ主義(スラヴ系民族の独立を目指す考え方)」を掲げて独立を求めるように。

その運動をオーストリア・ハンガリー帝国が黙ってみているわけはありません。
帝国はドイツの支えを得て「パン・ゲルマン主義」を唱え独立派を押さえ込むことを考えます。
そうした中で1908年、専制廃止や憲法復活を唱えた団体「青年トルコ」による「青年トルコ革命」が発生。
この混乱に乗じたオーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナ併合を実施、これに独立派の人々は怒ります。

この流れに対抗しようとするロシアは1912年にセルビアを中心とした「バルカン同盟」を締結(ブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロ)、オスマン帝国に戦争を仕掛けることになります。
これが「第1次バルカン戦争」となりこの戦争でオスマン帝国は保持していたヨーロッパ領土のほとんどを失うことに。
さらに獲得した領土の取り分を巡って同盟国内での争いが勃発、「ブルガリア対セルビア・ギリシア・モンテネグロ・ルーマニア・オスマン帝国」の構図で「第2次バルカン戦争」に発展。

戦争に敗れたブルガリアは次第にドイツ・オーストリア側へ付くことに。
こうしてバルカン半島はいつ激しい戦いが始まってもおかしくない「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになっていきます。

サラエボ皇太子の刺殺事件

サラエボ皇太子の刺殺事件

image by iStockphoto

ヨーロッパ中が緊張感漂う雰囲気となった1914年、世界大戦へと向かわせる大きな事件が発生します。
オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が暗殺される「サラエボ事件」でした。

この年の6月 28日,オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントと妻ゾフィーは、陸軍演習を視察するためボスニアの首都・サラエボを訪れていました。
そのことを突き止めたセルビア民族主義者による秘密組織「黒手組」は、オープンカーで群衆の前を通過していた皇太子夫妻を襲撃。
1908年にオーストリアが実施したボスニア併合に対する国民の怒りは、最悪の形で表出されることになったのです。

これに対して7月 23日にオーストリア・ハンガリー政府はセルビアに対し暗殺組織解散などを求める「オーストリア最後通牒」を提示。
全条件の受け入れを求めますが、セルビア側は全条件受け入れに応じず。
そして5日後の28日にセルビアへ宣戦布告,こうして世界を巻き込む「第1次世界大戦」はいよいよ始まっていくのでした。







戦時中に起こった出来事

ドイツ軍のベルギー侵攻・マルヌの戦い

ドイツ軍のベルギー侵攻・マルヌの戦い

image by iStockphoto

いよいよ戦いの火ぶたが切られた世界大戦は、ドイツ軍のベルギー侵略から始まっていきます。
フランスを倒そうとするドイツは8月2日に中立国・ベルギーに対し軍の通過を要求しますがベルギーは拒否、これによってドイツ軍はベルギーの侵攻を開始。
ベルギー側は8月5日からの「リエージュの戦い」でドイツへの抵抗を試みますが、ドイツ軍の前に力及ばず敗戦。

ベルギーを破ったドイツ軍は、フランス・パリ東部から南東部を流れる「マルヌ川」でフランス軍と戦うことに。
西部戦線(ドイツ軍と連合軍とが対峙したフランス北東部からドイツ西部国境沿いの戦線)での短期決戦を目指す「シュリーフェン・プラン」に沿ってフランスを攻めたドイツでしたがこの戦いは敗戦。
フランスはドイツを食い止めることに成功。

ドイツ軍がマルヌの戦いで敗れたことにより、戦いは短期決戦から長期決戦へ流れが変わっていきます。
このころから両軍は塹壕を掘って対峙する戦いとなっていき、ドイツ軍はベルギー北西部・イーペルでの戦いでは初めて「毒ガス」を使用。
ここから世界各国では化学兵器の開発が進められていくことになります。

大戦最大の戦い「ヴェルダンの戦い」

大戦最大の戦い「ヴェルダンの戦い」

image by iStockphoto

ドイツ軍とフランス軍の戦いは、1916年になるとフランス北東部・ヴェルダンでの戦いに移っていきます。
1916年2月21日、ヴェルダン要塞に向けてドイツ軍が総攻撃を始めると司令官フィリップ・ペタン率いるフランス軍が迎え撃ち、12月16日まで続く激しい銃撃戦の末フランス軍36万2000人、ドイツ軍33万6000人の死者を出す大戦最大の決戦となります。
しかしこの戦いでフランス軍の防衛成功によりペタンは「ヴェルダンの英雄」として称えられることに。
一方ドイツでは軍を率いていたエーリッヒ・フォン・ファルケンハインが陸軍参謀総長を辞任、両国で明暗が分かれる形になります。

この後もドイツ、フランス間の戦いは終わらず、続いての舞台はフランス北西部・ソンム河畔へ。
1916年7月1日に始まった「ソンムの戦い」はフランス・イギリス連合軍がドイツに対し総攻撃を開始、イギリス軍は世界初の実用戦車となる「マーク I 戦車」を初めて実戦投入するなど積極的な攻撃に出ます。
11月18日まで続いた戦いはイギリス軍に約50万、フランス軍約20万、ドイツ軍約42万の死者を出しながら決着はつかずに終わりました。

次のページでは『日本の参戦・21か条の要求』を掲載!
次のページを読む >>