戦時中の日本で成立した「国家総動員法」とはどのような法律?

1941年(昭和16年)12月8日のアメリカ・真珠湾攻撃から始まり、1945年(昭和20年)の終戦を迎えるまで続いた「太平洋戦争」。これは日本が軍国主義から民主主義へと切り替わる転機となった大きな戦争でしたが、その戦争が行われる前には「国家総動員法」と呼ばれる法律が成立していました。それではこの「国家総動員法」とはいったいどのような法律であったのか、成立に至るまでの背景と内容を見てみましょう。

法律が成立するまでの動き

法律が成立するまでの動き

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1918年に成立「軍需工業動員法」

国家総動員法成立への道のりは、大正時代から始まっています。
1914年(大正3年)から始まった「第1次世界大戦」に連合国側として参加していた日本は、この戦いを通して「戦争に勝つためには、自国の持てる力をすべて出さなければ勝てない」という考えを持っていました。

こうした考えをもとに始まった「国家総力戦体制」構築への過程は、軍需品を管理するための法整備から始めることに。
陸軍省軍務局軍事課と兵器局銃砲課で検討を始めたのち1918年(大正7年)に「軍需工業動員法閣議請議案」として閣議決定、4月16日には「軍需工業動員法」として交付・制定の運びとなります。
これは戦争が勃発していない時期から必要物品を予想して工場・軍需品などの実態調査を実施、必要な軍需産業を保護育成することを目的にしており、戦争時には政府がこれらを管理・使用できるようになっていました。

さらに法案成立後の1918年(大正7年)5月3日には法を施行するための機関として、「軍需局」、軍需工業の調査・実施を管理し軍需局と連携して活動する「兵器局工政課」を新たに設置。
このほかでは動員法についても1918年(大正7年)に台湾、樺太などにも施行地域を拡大、総動員法成立への基礎が少しずつ出来上がっていったのです。

軍需動員を効率的に行う「国勢院」を設置

軍需動員を効率的に行う「国勢院」を設置

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先に成立した「軍需工業動員法」によって戦時体制の基盤を作った政府は次の法整備に取り掛かります。
予想される物資の必要量を戦時にまかなうには「通常時の工業力を準備する」必要がありましたが、そのためには通常時にどれだけの国力があるのか知らなければいけません。

そこで政府が考えた案が1920年(大正9年)5月15日交付の「国勢院官制」によって「国勢院」と呼ばれる機関を設置すること。
これは内閣の「軍需局」と「統計局」を統合・首相の管理下に置かれる機関で、軍需動員を効率的に行う目的で設置されます。
しかし日本国内が世界大戦後の不況により緊縮財政を強いられたこと、終戦後に強まった反戦平和の思想から1922年(大正11年)10月30日に廃止。
政府の総動員実施への計画は思わぬ形で一旦停止することに。

このままでは国力把握や軍需物資の取得・統制は難しくなってしまうことから、陸海軍は国勢院に代わる機関として1923年(大正12年)に「軍需工業動員協定委員会」を設置。
その後も物資の統制に関する議論は続き、1927年(昭和2年)に田中義一内閣において「資源局」を設置。
この機関が設置されたことにより、人的物的資源の統制や運用、計画設定・施行に必要な調査を実施することが可能となり、また一歩総動員への道が進んでいく。

日中戦争の勃発・総動員法が成立へ

着々と総動員への態勢を整えていく日本でしたが、その流れの中で大きな事件が発生します。
1931年(昭和6年)に中国・奉天(現在の瀋陽(しんよう)市)郊外の柳条湖付近にある南満洲鉄道の線路上で「柳条湖事件」が発生、ここから「満州事変」が勃発したことで前年に作成を開始していた「暫定総動員計画」は戦時の軍需品供給を優先する「応急総動員計画」へ移行することに。

急きょ計画変更となった中、1937年(昭和12年)には国政全般にわたる改革案の調査・立案を行った「内閣調査局」を「企画庁」に変更し権限を強化。
さらに7月の「盧溝橋事件(豊台区(ほうたいく)を流れる永定河(えいていが)にかかる橋)」から日中戦争が勃発すると「資源局」と「企画庁」を統合、戦時統制経済を担う強力な機関「企画院」を設置。

少しずつ基礎を作り続けた政府は1938年(昭和13年)の第73帝国議会に「国家総動員法案」を提出、4月1日に公布されたのち5月5日より正式に法が施行されることになります。
ここから国民にとって非常に厳しい時代が始まっていったのでした。







成立過程で発生した事件

審議中のヤジに激怒「黙れ事件」

審議中のヤジに激怒「黙れ事件」

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国家の未来に大きく関わる法律が決まることから、審議を行う国会では大きな混乱も生まれます。
時は1938年(昭和13年)3月3日、この日は衆議院で「第5回国家総動員法委員会」の審議が行われていました。

しかし統制経済について精通する人物が国会内にはおらず、審議が進まないまま時間は経過。
そこに「詳しい者」として説明を求められた陸軍省軍務課政策班長・佐藤賢了(さとうけんりょう)が説明を開始しますが、佐藤の説明は長引き30分経過しても終了する気配はなし。
次第に騒然とし始めた国会からは「いつになったら終わるんだ」と激しいヤジが飛び交い、これに激怒した佐藤が「黙れ」と周囲を一喝、この一見は「黙れ事件」として語られるようになります。

その後発言の主である佐藤は陸軍大臣・杉山元から注意を受けますが処罰は一切なし、審議も事件の影響を受けることなく進行していったのでした。
当時と現在では全く状況は違いますが、国会での議論においてヤジが飛び交う光景はどの時代にもつきものなのですね。

発言を巡って議員が除名「西尾除名事件」

衆議院「第5回国家総動員法委員会」での事件から13日後の3月16日、再び国会で大きな事件が発生します。

国家総動員法に賛成の立場を取っていた「社会大衆党」の議員・西尾末広(にしおすえひろ)はこの日の本会議で法案の賛成演説を行っていましたが、首相・近衛文麿(このえふみまろ)を激励する場面で「ムッソリーニの如く、ヒトラーの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべき」と発言。
いずれも歴史的には「独裁政治」を展開した人物として有名ですが、この発言は立憲政友会・立憲民政党から不適切であると指摘され問題に。

西尾のこのような発言は1週間前の9日に行われた第十回委員会でもされていましたが、このときは全く問題にならず。
発言を追及された西尾はその後発言を取り消しますが、両党は発言を理由とした西尾の除名を要求。
16日の件では西尾の後に登壇した議員・尾崎行雄も「私も言う。
ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべき」「私は言葉を取り消さない。
西尾の前に自分を除名せよ」との発言をしていましたが尾崎は除名されず。
最終的には西尾だけが懲罰委員会に付され、3月23日に議員除名処分。

この騒動については両党が社会大衆党の存在を快く思っていなかったために起こったとも言われていますが、国の今後を左右する国会ですべき話かは判断が難しいところですね。

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