【ユダヤ人の歴史】第二次世界大戦で強制収容所に送られたユダヤ人の歴史

第二次世界大戦で600万人ものユダヤ人が殺害されたと言われています。ヒトラーが「ユダヤ人問題の最終的解決」として掲げたことは、この地上からユダヤ人を絶滅することなのでした。とはいえ、絶滅収容所として有名なアウシュヴィッツ強制収容所も、当初はその入口に「働けば自由になれる」というスローガンが掲げられていたのですよ。強制労働をさせるための収容所がいついかなる理由で絶滅収容所になったのか。第二次世界大戦の推移との関係でそのことを考えてみることにしましょう。

反ユダヤ主義は選挙の道具でした

反ユダヤ主義は選挙の道具でした

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選挙のときに候補者はスローガンを掲げますね。
それによって選挙人から票を集めようとするのですが、19世紀末のウィーンではキリスト教民主党のカール・ルエガーが、反ユダヤ主義をスローガンに掲げて市長選で勝利。
しかし、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、3度もルエガーの市長就任を拒否。
オーストリア帝国ではユダヤ人も大事な市民であり、反ユダヤ主義を掲げる者をウィーン市長などにはできないというのが皇帝の判断だったのですね。
しかし結局1879年には、反ユダヤ主義者であるルエガー市長が誕生してしまいました。

ヒトラーはウィーンの反ユダヤ主義に学びました

反ユダヤ主義をスローガンに掲げてついにウィーン市長になったルエガー。
しかしこれでウィーンのユダヤ人たちが悲惨な状況に陥ったかというと、必ずしもそうではありません。
反ユダヤ主義を掲げて選挙に勝ったということは、市民の間に反ユダヤ感情が存在していたわけです。
ルエガーはこれをうまく選挙の道具に使ったのですね。
反ユダヤ感情が広がっていたからといって直接的にユダヤ人を迫害することはなく、それどころかルエガー市長は、ユダヤ人の貧民層への救済策さえ行っています。
ここにもう一人反ユダヤ主義を掲げて大人気を博した人物がいました。
ゲオルク・リッター・フォン・シェーネラーで、リッター(騎士)という貴族の称号を持っていた彼も、おおいに人気を集めていたのですよ。

ヒトラーはオーストリアの生まれなので、ウィーンで画家として生きていこうとするのですが、もちろんそれはそう簡単にできることではなく、貧民救済施設にいたこともあるようです。
このときヒトラーは、反ユダヤ主義をスローガンに掲げて選挙戦を勝ち抜いたこの2人からある種の霊感を得たのですね。
反ユダヤ主義的感情が市民の意識の根底に根強く広がっているのを利用すれば選挙戦に勝てる、ヒトラーはその確信を得たのですね。
やがて第一次世界大戦が起こり、ヒトラーは隣のバイエルン王国で志願兵となり、この戦争に加わったのでした。

ヒトラーの政党は選挙で大躍進しました

まだドイツ国籍を取得していなかったヒトラーでしたが、ミュンヘンに戻ったのち、第一次世界大戦中にドイツ軍の支配権を握ったルーデンドルフとともに、1923年のミュンヘン一揆に加わったのでした。
これはクーデターになることはなく、たった半日で制圧されてヒトラーは逮捕されましたが、国家反逆罪で死刑になったわけではありませんね。
敗戦国となりおもにフランスによって多額の賠償金を課せられたうえ武装解除されたドイツには、あちこちに軍隊に戻ることのできない軍人集団があったのですね。
ヒトラーは刑務所に入っている間に『わが闘争』を書き、これで一躍ヒトラーの名前を高める役割を果たしたわけです。
禁固5年の刑を宣告されていたヒトラーでしたが、1924年12月にはもう仮釈放。

1925年にはナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)が再建され、ヒトラーはこの党を率いていくことになったのですね。
「ナチス」という言葉はよく知られていますが、これはナチ党員に対する蔑称であり、この当時ナチ党はまだ一般の国民の人気を集められるような政党ではなかったのですよ。
ちょうどこの頃のドイツは「黄金の二十年代」と呼ばれて、大衆文化が花開いていたのでした。
しかし、1929年にニューヨークでの株価暴落をきっかけにして始まった世界大恐慌ですべては一変。
過激なナチ党のスローガンが国民にアピールし始めて、選挙戦での大躍進が始まったのでした。

ワイマル共和国首相ヒトラーの誕生

ワイマル共和国首相ヒトラーの誕生

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1932年にヒトラーは大統領選に出馬。
しかしさすがに当選することはなく、飛行船の名前にもなったヒンデンブルクが当選したのですが、ヒトラーは他の候補に大差をつけて第2位だったのですよ。
アメリカの大統領とは違って現在のドイツの大統領にはそれほど大きな政治的権力はないのですが、当時のドイツの大統領には例えば首相を任命するというような力があったのですね。
ヒトラー率いるナチ党が大躍進し、党首であるヒトラー自身も大統領選で第2位になったとはいえ、ヒンデンブルク大統領が握っていた政治権力がもしもなかったならば、ヒトラーはドイツの首相にならなかったかもしれませんね。

ヒトラーは一気に政治権力を掌握しました

歴史に「もしも」は存在しないとはいえ、ナチ党の大躍進に多少陰りが見え始めた1933年、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命したのですね。
それでもこの時点ではまだ内閣は複数の政党による連立政権であり、ヒトラーの独裁がこんなにあっさりと実現するなどとは、誰も想像していなかったことでしょうね。
1月30日に首相に就任したヒトラーは、3月20日にはもうダッハウ強制収容所を設置。
ダッハウはヒトラーが一揆を起こしたミュンヘンの近郊にありますが、ミュンヘンこそヒトラー自身にとってはウィーンでの挫折から立ち上がった思い出の地。
ここに最初の強制収容所を設置したのも何か意味がありそうですね。

3月24日には全権委任法が成立しましたが、その背景には2月27日の国会議事堂放火事件があったことは確かですね。
この事件は共産党員の仕業とされ、共産党はこれ以後禁止されてしまいます。
第一次世界大戦中の1917年、ロシア革命によって帝政が倒されそれ以後共産党による一党独裁の国家となったソビエト連邦が成立していましたから、ナチ党にとって共産党は身近な脅威。
5月10日には、危険とされる書籍が焼かれる焚書事件が起こったのですが、ユダヤ人の著書や共産主義者の著書がその対象になったのですね。
7月14日にもともと連立政権だったナチ党の一党独裁体制が確立。
9月22日には文化院が設置されて、あらゆる文化的活動からユダヤ人を閉め出すことになったのですよ。

ヒンデンブルク大統領の死によりヒトラーは総統になりました

ヒンデンブルク大統領の死によりヒトラーは総統になりました

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第一次世界大戦中に元帥だったヒンデンブルクですが、さすがにもう高齢。
ヒトラーを首相に任命することで過激な諸政党の均衡を図ろうとしたヒンデンブルクでしたが、ヒトラーはすでに着々と独裁体制を築きつつありましたね。
1934年にヒンデンブルク大統領が死んだときにはもう後継大統領の選挙など行われることもなく、ヒトラーが首相と大統領を兼ねる独裁者である「総統」になりましたから、形式的にはここからドイツは「総統国家」になったのですよ。

19世紀後半にドイツ領邦でユダヤ人解放が行われ、多くのユダヤ人は「ドイツ人」として文化的活動のほか、政治や経済の分野でも多いに活躍し、ユダヤ系のドイツ人を抜きにしてドイツの政治・経済・文化を語ることができなくなっていたのに、ユダヤ人をそこから閉め出そうというヒトラーの政策の過激さ。
しかしその一方で、世界大恐慌以来破綻していたドイツ経済は立ち直り、失業者も見かけ上ゼロになったのですから、ユダヤ人ではないドイツ人たちはヒトラーの政策を受け入れたわけです。
それに、ドイツを出国したユダヤ人たちがドイツに残した財産は没収され、それでドイツの経済は豊かになるということになりますね。

「一つの民族、一つの国家、一人の総統!」

ヒトラーは「総統」になりましたが、ドイツ語で言うと「フューラー」(Führer)。
これは、現在でも観光ガイドなどを言うときに使われるごく普通の言葉なので、直訳すると「案内人」。
ヒトラーはそのごく普通の言葉を、皇帝や大統領と同格いやそれ以上の存在を表す言葉にしたのでした。
ドイツ国民をドイツ国民が思うままに暮らせる国家に導く人、それが総統ヒトラーというわけですね。
事実、あれほど大きかった失業率が、あっという間にゼロになったのでしたね。
そのほか、ドイツ人の家族が年に1回は家族旅行ができるようにしたり、自家用車をすべての家族が持てるようにするという約束をしたり、その自動車が自由自在に走り回れるアウトバーンを建設したり、ヒトラーの巧みな政策にドイツ国民はまんまとだまされたわけですね。

ドイツ車にフォルクスワーゲンがありますが、これは当時のドイツ国民から資金を集めて製造しようとしていたものでしたが、戦争が始まったためにその資金は兵器製造に流用され、ヒトラーの時代には実現しませんでした。
この自動車の名前の「フォルク」(Volk)ですが、これはヒトラーが国民を扇動した有名な演説に用いられている言葉で、ヒトラーはドイツ国民からユダヤ人を排除して「一つの民族(Volk)」にしようと叫んだのでした。
その一つの民族には一つの国家があり、そしてそれを率いていく一人の総統がいるというわけです。
逆に言うとこれまでドイツの政治・経済・文化などに貢献してきたユダヤ人はこのフォルクから排除、ということになりますね。

piaristen

Writer:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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