発明王トーマス・エジソンの波乱の人生と発明品の数々

子供のころに読んだ伝記は?教科書で習った偉人は?そう聞かれたとき、かなりの数の人がこの名前を挙げるのではないでしょうか。トーマス・エジソン。蓄音機や白熱電球、映写機など、エジソンの発明品を挙げ出したらきりがありません。84歳の生涯で1,300もの発明品を生み出した「発明王」であり、1,000以上の特許を持ち、権利を守るため訴訟を繰り返していたことから「訴訟王」と呼ばれることもあります。80歳過ぎても1日16時間は働いていたというエジソン。その生い立ちや人物像を重ねながら、発明品の数々を追いかけてみたいと思います。


トーマス・エジソンとは

エジソンの生い立ち

エジソンの生い立ち

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トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)はアメリカ合衆国の発明家で企業家。
生涯で世に送り出した発明は1,300にものぼります。
また、発明するだけでなく、多くの投資家や著名人から資金援助を募ってGE(Edison General Electric Company、現在のゼネラル・エレクトリック社)を創設。
電気製品の製造・開発だけでなく、電気そのものの普及にも大きく貢献しました。

偉大な「発明王」として不動の地位にあるエジソンですが、苦学の人としても知られています。

エジソンは1847年2月11日にオハイオ州ミランという街で生まれました。
7人きょうだいの末っ子で、子供のころから「Why」が口癖の異常なほどの”知りたがり屋”だったそうです。
好奇心旺盛と言えば聞こえはいいですが、学校の教師からすればたまったものではありません。
なんと小学校を3ヶ月で退学してしまい、自宅学習をすることに。
そんなエジソン少年に母ナンシーは理解を示し、優しく受け止めたといいます。
母の愛なしでは「発明王」は誕生しなかったかもしれません。

こうしてエジソンは学校へは通わず、図書館に通うなどして自力で学んでいきます。
彼が特に興味を示したのが化学の実験。
12歳頃から、鉄道の駅で新聞の売り子などをして働きながら、自宅で様々な実験を行っていました。
自分で新聞を作って売っていたこともあったそうです。

エジソンは幼い頃から難聴の傾向があったそうですが、それに屈することなく、技術を磨いていきました。

ところで、19世紀中頃というと、世界はどんな様子だったのでしょう。

日本は幕末。
1853年にペリーが浦賀にやってきて、国全体が大きく変わろうとしている頃でした。
中国でも清王朝が大きく揺れている頃で、1864年に太平天国の乱が勃発します。
ヨーロッパでも1856年にクリミア戦争が。
世界は大きな転換期を迎えていましたが、一方で世界初の万国博覧会がロンドンで開催される(1851年)など、新しい時代の到来を予感させるようなイベントも催されています。
また、ダーウィンが『種の起源』で進化論を唱えたのもこの頃(1859年)。
世界のあちこちで殻を破る音が鳴り響いていたそんな時代に、エジソン少年は多感な時期を過ごしたのです。

発明家への歩み

発明家への歩み

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15歳の頃働いていた駅で、彼の人生を大きく変える出会いを経験します。

駅長の子供が列車に轢かれそうになったところを間一髪救出、という出来事がありました。
その折、駅長は子供の命の恩人であるエジソンに感謝し、お礼として、当時の最先端であった電信技術を伝授してくれたのです。
好奇心の塊とも言うべきエジソンが、この技術に興味を示さないわけはありません。
電信とは電気を使った通信のこと。
当時はまだ、電話も無線もなく、電信は情報伝達のための貴重な手段のひとつでした。

エジソンは短期間でこの技術を習得したといいます。

幼い頃は学校教育に馴染めず、「学習障害」とまで言われた少年は、母の愛に包まれ、絶えず好奇心を持ち続け、努力を積み重ねて成長し続けていきました。
そして駅長との出会いを経て、電信技師としての人生をスタートさせたのです。
それと同時に、彼は発明家としての一歩を踏み出しました。

モラルや社会性といった面では評価が分かれるところかと思いますが、電信技師として働き始めてから、エジソンは人生初の発明品を生み出しています。
「自動電信返答装置」です。

17歳の頃、駅で夜間電信係として働いていました。
夜勤中は、勤務についていることを示すために1時間おきに信号を送ることになっていましたが、そんな仕事を退屈に感じたのか、眠かったのか、おそらく不純な動機から「電信機が自動で1時間おきに信号を送る装置」を作って、自分は寝ていたことがあったそうです。
機械ですから時間は正確。
あまりにぴったりに信号が送られてくるようになったことを不審に思った上司が様子を見に来て、居眠りエジソンを発見し、エジソンは大目玉を食らったのだそうです。

発明家に必要なこととは

発明家に必要なこととは

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「楽をしたい」という思いがきっかけとなって様々な技術や発明品が誕生する様は、現代にも繋がるものがあります。
しかしそれがもとで事故が起きたり、事故の発見が遅れて被害が大きくなってしまっては本末転倒です。
当時のエジソンには、高い技術や創意工夫する知識はあっても、それを社会に役立てようという意識が薄かったのかもしれません。

そんなエジソンですが、へこむことなく、その後も様々な研究や発明を続けていきます。
21歳のときに「電気投票記録機」というものを発明して、初めて特許を取得。
投票・開票の手間と時間を大幅に短縮できる画期的な発明のはずが、実際にはまったく採用されませんでした。

政治の世界では、ただ票の数を数えればいいというわけではなく、少数派には少数派なりの戦術があります。
代表的なものが「牛歩戦術」。
日本の国会でもたまにありますね。
投票箱の前まで牛のようにゆっくりゆっくり歩いて進むことで投票時間を長引かせ、時間切れで廃案に追い込むなどの効果を狙った、いわゆる抵抗戦術です。
エジソンが作り出した機械ではこの戦術を使うことができなくなるので、野党から敬遠され抵抗を受けたのでしょう。

ここでエジソンは学びます。
どんなに高性能で優秀な機械を作り出しても、使う人に受け入れられなければ無意味なものになってしまうのです。
人が望んでいることは何なのか、それを知らずして発明は成り立ちません。

エジソンが作った「電気投票記録機」は優れた機械でしたが、誰にも使われなかったという点では、発明品としては失敗。
しかし、この失敗から多くを学んだであろうエジソンが発明家として初の成功をおさめるまで、このとき既に、秒読み段階に入っていました。

前進し続ける発明王

前進し続ける発明王

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22歳になったエジソンはニューヨークに移り住み、ウォール街のゴールド・アンド・ストック相場電信会社に就職します。
当時の株式市場の電信表示機は問題が多く、よく故障していたそうで、これに目を付けたエジソンは電信表示機の改良に着手。
改良版「ティッカー」を完成させ、特許も取得します。

この「ティッカー」がかなりのスグレモノだったため、ゴールド・アンド・ストックの社長自ら乗り出してきて、エジソンが取得した特許の買取の話が持ち上がりました。
提示された金額はなんと4万ドル。
現在の貨幣価値に換算するとおよそ2億円にもなります。
エジソンの驚きようは相当なものでした。

当時のエジソンは、電信技師として確かな技術を持っており、かなりの高給取りだったと考えられていますが、一方で、自宅に実験室を作ったり、高額な書籍を買いあさったりしていたため、懐具合は芳しくなかったようです。
ニューヨークに出てきたときは一文無しに近かったというエジソンは、持ち前の好奇心と努力の積み重ねで得た技術で一躍大富豪となります。

大金を得たエジソンはこの資金をもとにしてニュージャージー州にティッカーの工場と研究所を建てました。
ここでエジソンはさらなる研究を重ね、電信技術を大きく発展させていったのです。

彼が改良した「ティッカー」は、ストック・ティッカー・マシンといい、具体的には、ティッカーテープと呼ばれる紙テープに銘柄と価格情報を刻印する株式相場表示機のことを言います。
ティッカー(Ticker)とはこの紙テープに印字するときの音を表した言葉です。

現在ティッカーといえば「ティッカー・シンボル」のことを指します。
株の銘柄を表す1~5桁のコード(AAPL=アップル、MSFT=マイクロソフト等)で、日本の企業の場合はアルファベットではなく数字が多いようです。
現在ではディスプレイ表示で行っているこの仕組みも、20世紀中頃まではティッカー・マシンが使われていました。

電信表示機自体は、エジソンの登場より前から存在していましたが、長い年月使い続けられ、株式市場を支え続け、今尚その名前が残っていることから、エジソンの功績、影響力の凄さを感じ取ることができるはずです。

トーマス・エジソンの代表的な発明品

電話の発明と永遠のライバル「グラハム・ベル」

電話の発明と永遠のライバル「グラハム・ベル」

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30歳頃、エジソンはアメリカ大陸の電信事業大手であったウエスタンユニオンからの依頼で、スピーカーを使った電話機を作り出します。
しかし、電話は既に1876年に、スコットランドの科学者で発明家のグラハム・ベルと支援者たちによって発明され、ベルは特許も取得していました。
また、ベルとほぼ同時期に、イライシャ・グレイというアメリカの発明家もベルと同じような電話機を完成させていましたが、ベルより特許出願が2時間送れたため特許を逃すという事態も。
企業も学者も発明家も「新しい通信手段の発明が急務である」と感じていた、まさに”電信電話戦争”真っ只中の時代でした。

電話機そのものの特許はベルが取りましたが、電話に関する技術は電話機だけではありません。
その後も、電話に関する様々な技術や発明で、技術者や支援者、通信会社などを巻き込んで、特許の奪い合いや訴訟が続きました。

エジソンは1877年にカーボンマイクを使った送話器を作り出し、特許を出願します。
カーボンマイクは、ベルが開発した電磁石を利用したダイナミックマイクに炭素粒を加えて改良したものでしたが、これによって音質がかなり向上したのだそうです。
また、誘導コイルを用いたことで送話距離が伸び、電話は飛躍的に進化しました。
しかしここでも、エジソンは特許で泣くことになります。
この炭素粒を用いたカーボンマイクの特許を、エジソンより先に取得した者がいたのです。
それがなんと、ベルの開発チームのメンバーであったエミール・ベルリナー。
またしてもベルに出し抜かれてしまいます。
しかもエジソンとウエスタンユニオンはベルの会社から、カーボンマイクの特許を侵害していると訴えられてしまうのです。

結局、訴訟にはベルの会社勝利。
ウエスタンユニオンは電話に関する事業を全てベルの会社に譲り、自身は電信事業に専念するという条件が提示され、エジソンも電話事業から退かざるを得なくなってしまうのです。

エジソンの存在がなければ、電話機の発展はもっと遅れたかもしれません。
数々の発明を繰り出しながらも、電話事業分野では最終的には、ベルの影に身を潜めなければならなくなってしまったエジソン。
彼はこの結果に生涯、納得していなかったと言われています。

Writer:

歴史と歴史小説と遺跡を愛してやまない東京都在住の主婦。子供のころからの大の時代劇ファン。国内外問わず歴史小説を読むようになり、NHK人形劇「三国志」を見て中国史にはまって大学では東洋史学を専攻。愛猫とじゃれながら歴史小説を読み漁る毎日を送っている。趣味は古地図を眺めることとカメラ片手の街散策。

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