児童文学の名作を生み出した名作家・宮沢賢治とはどのような人物?

日本の児童文学史を代表する人物として登場することが多い「宮沢賢治(みやざわけんじ)」。彼が残した多くの作品は死後80年以上が経過した現在も読まれ続けており、作品を知らない人は少ない有名な存在です。それではその「宮沢賢治」とはどのような人物であったのでしょうか。今回は生涯や代表作、功績を振り返るスポットから見てみましょう。

賢治が送った生涯とは

多様な経験を積んだ幼少期

多様な経験を積んだ幼少期

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宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日に父・宮澤政次郎と母・イチの長男として誕生。
賢治はイチの実家である鍛冶町・宮澤善治家で生まれましたが、5日後の8月31日に秋田県東部を震源とする「陸羽地震」が発生。
生まれてすぐに大きな災害に見舞われることに。
このとき政次郎は仕事で旅行中であったため、名前は政次郎の弟・治三郎が命名することに。


成長した賢治は3歳のころ婚家から出戻った父の姉・ヤギが「正信偈(しょうしんげ。
親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾にある偈文)」や「白骨の御文章(はっこつのごぶんしょう。
浄土真宗本願寺八世・蓮如が撰述(せんじゅつ。
書物を著すこと)した御文の5帖目第16通)」を唱えているところを聞き覚え仏前で暗唱していました。
随分と大人びた子どもであったのですね。

その後7歳になった賢治は1903年(明治36年)に花巻川口尋常小学校(2年後に花城尋常小学校へ改名)に入学。
6年間の成績は全科目甲(現在の通知表に例えると全教科で「5」を取ったことになる)を記録するなど天才ぶりを十分に発揮。
またこの学校で3,4年時の担任を務めた八木英三が多種類の童話を授業で語ったことはのちの賢治に大きな影響を与え、のちの賢治が「私の童話の思想は先生のおかげで形成されたもの」と語るほど。
このほかには鉱物採集や昆虫の標本づくりを熱心に行い、父が主催する「花巻仏教会」の夏季講習会に参加。
多感な時期に多様な経験を積んだのですね。

石川啄木に影響を受けた中学時代

石川啄木に影響を受けた中学時代

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小学校で天才ぶりを発揮した賢治は、1909年(明治42年)4月に岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学。
この際祖父・喜助は跡継ぎになる予定であった賢治に対し「学問はいらない」と考えており、進学が危ぶまれましたが父の説得により無事進学。
小学校時代から続いた鉱物採集はこの時期にも行っており、岩手山などを歩いて岩石標本を収集していました。

中学2年になると中学の先輩である石川啄木(いしかわたくぼく)が『一握の砂』を出版これに影響を受けたことから短歌の創作を開始。
この間寄宿舎の監督者(舎監)に対する嫌がらせを行ったことで寮を退寮処分になることはありましたが、1914年(大正3年)3月に盛岡中学を無事卒業します。

体調不良による休養・同人誌の発行

体調不良による休養・同人誌の発行

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無事に学校を卒業した賢治ですが、卒業してすぐ体調不良に見舞われます。
4月に肥厚性鼻炎の手術を受けるため入院すると熱が下がらず、発疹チフスの疑いで5月末まで入院。
このときに賢治は病院にいた看護師に好意を抱き結婚を考えますが実らず、このあと実家に戻ることに。
実家に戻った賢治は店番、養蚕の手伝いをして過ごしますが、それは賢治にとっては満足いくものではありません。
その様子を見た政次郎は「盛岡高等農林学校」への進学を認めると賢治は猛勉強を開始。

進学を認められた賢治は1915年(大正4年)4月に盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席入学。
翌年には特待生に選ばれ授業料免除、農学科第二部(のちに農芸化学科)に所属します。
2年後の1917年(大正6年)7月には寮で同室となった保阪嘉内らと同人誌「アザリア」を発行、ここに賢治は短歌や短編を寄稿します。

1918年(大正7年)に得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し農学校を卒業したあとは研究生として学校に残り、稗貫郡の土性調査に従事。
8月には『蜘蛛となめくじと狸』『双子の星』を執筆し、1920年(大正9年)5月に農林学校研究生を卒業。
一方で法華教への信仰を強めるようになり、浄土真宗派の父と口論することもあったとされています。

学校教員に赴任・妹の死

学校教員に赴任・妹の死

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1921年(大正10年)1月23日に上京した賢治は父の知人・小林六太郎家に身を寄せ、本郷菊坂町に下宿。
のちに東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤める。
このあと高知尾の勧めで「法華文学」の創作に取り組む。
この頃の賢治は昼間に街頭布教、夜に国柱会館の講話を聞く生活を送っていましたが、8月中旬に妹・トシが病気であるとの電報を受け取り花巻に帰省することに。

その後は稗貫郡(ひえぬきぐん。
かつて岩手県にあった郡)立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称)に教諭として赴任。
ここでも創作活動を活発に行う賢治は創作童話『雪渡り』雑誌「愛国婦人」12月号、翌1922年(大正11年)1月号に掲載。
このとき生前唯一となる原稿料5円を受け取ります。

一方でこの年の11月27日、結核により闘病中であった妹・トシの容態が急変、治療の甲斐なくこの日他界。
妹の死を悲しむ賢治は『永訣(えいけつ)の朝』『松の針』『無声慟哭』の3部作を詠み妹に別れを告げます。
その後賢治は妹の死から半年間詩作を休止、1923年(大正12年)7月に樺太へ旅行した際には妹を思う気持ちを『青森挽歌』『樺太挽歌』を創作。
妹のことは花巻を離れても忘れられなかったのですね。

作品出版・退職後の自炊生活

作品出版・退職後の自炊生活

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妹の死を経験した賢治は1924年(大正13年)に詩集『心象スケッチ 春と修羅』を刊行。
このほか高騰農林学校の後輩であった及川四郎が設立した出版社「光源社」から童話集『注文の多い料理店』を出版しますが、これらは値段が高すぎることから全く売れず。

その後1926年(大正15年)には務めていた花巻農学校を退職。
退職した理由は「本物の百姓になる」ためでした。
学校を退職した賢治はかつて妹・トシが療養時に暮らしていた別宅での生活を開始、ここでトウモロコシなどの野菜を栽培しながら自炊生活を送ります。
またこの頃は「羅須地人(らすちじん)協会」を結成して農業などの講習、オーケストラ活動を行い(のちに治安当局から「社会主義活動」として目を付けられ解散。)、年末にはタイプライター、エスペラント語(ポーランド人眼科医ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語)を習うために東京へ行くこともありました。
自分のやりたいことをやりたいようにやっていたのですね。

1928年(昭和3年)になると同じ岩手出身で伊豆大島に住む伊藤七雄が「園芸学校建設についての相談」を希望し賢治を島に招待。
この頃伊藤の妹・チヱを気に入った賢治は「結婚するならあの人だ」と考えるほどでした。

病魔に倒れた晩年

病魔に倒れた晩年

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その後も農業相談など活発な活動を続けた賢治でしたが、その賢治に病魔が襲い掛かります。
伊豆に渡った年の8月10日、高熱で倒れた賢治は肺結核を発症。
これが原因となり賢治は地元・花巻へ戻ることに。

地元へ戻った賢治は治療を続けながら詩の創作、肥料相談などを実施。
1931年(昭和6年)に体調が回復に向かうと東北砕石工場の技師になり、製品の改造・広告文作成などに従事します。
しか東京へ出張していた9月に宿泊先で病気が再発、再び花巻へ戻ることに。

戻った賢治は病床で文語詩の制作・過去作品の推敲を行い、11月3日には死後に発表される『雨ニモマケズ』で「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けず 丈夫な体を持ち」と文を続け、最後は「そういうものに私はなりたい」の文で締めくくり。
その後も闘病は続きますが1933年(昭和8年)9月20日に容体急変、翌9月21日になると喀血し午後1時半、37歳の若さで帰らぬ人となりました。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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