輝きは人生後半に放つ!「波乱万丈の人生を送った晩成型の人物・日本編」

歴史上の人物を見ていくと、彼らが送ってきた人生はさまざま。若くして才能を発揮する者や志半ばで亡くなる者、長く活躍し続けたものとそれぞれが個性的な人生を歩んでおり、それを知った自分たちは自分の人生の教訓として参考にすることもできます。今回はそんな歴史上の人物たちの中から「波乱万丈の人生を送り、人生後半で大きな輝きを放った日本の人物」を見ていきましょう。

40歳を超えて画家として大成「伊藤若冲」

40歳を超えて画家として大成「伊藤若冲」

image by PIXTA / 26749350

伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は1716年(正徳6年)に京・錦小路の青物問屋「枡屋」の長男として誕生。
23歳のときに父・源左衛門が亡くなったことにより4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名することに。

しかし跡取りになった若冲は全く商売に興味を示しません。
大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によれば絵を描くこと以外何も興味を示さず、30歳の頃から本格的に絵の習得を開始。
その後40歳で商売を放棄・弟に譲ると2年にわたり丹波の山奥で隠棲生活。
1758年(宝暦8年)頃から「動植綵絵(どうしょくさいえ)」を描き始めるとこれが若冲の代表作となり、翌年10月には「鹿苑寺大書院障壁画」、1764年(明和元年)には金刀比羅宮奥書院襖絵の制作も担当。

1788年(天明8年)には「天明の大火」に見舞われ私財を失いますが、大阪・豊中の西福寺で金地の襖に『仙人掌(サボテン)群鶏図襖』を描くなど1800年(完成2年)に84歳で亡くなるまで制作活動を行いました。
小さなころから好んだ物事が、自身の名声を高めることにつながったのですね。

インスタントラーメン生みの親「安藤百福」

インスタントラーメン生みの親「安藤百福」

image by PIXTA / 9567580

今では一般的な存在となっている「インスタントラーメン」の創業者である安藤百福(あんどうももふく)は1932年(昭和7年)に繊維商社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立するなど実業家として活動していましたが、1957年(昭和32年)に理事長を務めていた信用組合が倒産。
理事長の安藤は負債を弁済しなければならなくなり、大阪府池田市の自宅を残して「無一文」状態になってしまいます。

47歳という「人生半ば」に差し掛かったところで大きすぎる挫折に見えますが、これでくじけることはありません。
自宅の裏庭に建てた小屋で「インスタントラーメン」の開発を開始。
試行錯誤を1年間繰り返したのち完成したラーメンは「お湯を注ぐだけで食べられる」という当時としては画期的なもので、これが1958年(昭和33年)8月25日に発売された「チキンラーメン」に。
商品は「魔法のラーメン」として大人気商品になり、百福は人生の大逆転に成功します。

大ヒット商品を開発した百福は進化をやめません。
1966年(昭和41年)に海外視察をした百福はラーメンをカップに入れて食べる姿を目撃、これをヒントに世界初のカップラーメン「カップヌードル」を発明。
人々の行動からヒントを得る勘の鋭さは、新しいヒット作を生み出したのです。

その後2007年(平成19年)に96歳で亡くなりますが、亡くなる3日前までゴルフを楽しみ、前日は仕事始めの訓辞を行っていたとされ、生涯現役のまま生涯を全うすることに。
彼がインスタントラーメンを生みだした大阪府池田市には「インスタントラーメン発明記念館」があり、こちらでは当時の自宅の再現、歴代商品の展示などから彼の功績を振り返ることができます。

日本地図で有名な「伊能忠敬」

日本地図で有名な「伊能忠敬」

image by PIXTA / 3098265

日本地図の制作で有名な伊能忠敬(いのうただたか)も晩成型に挙げられる人物の1人。
延亨二年(1745年)に上総(千葉県)で誕生した伊能は18歳で下総の豪農・伊能家の入婿になり、当主として実力を発揮。
50歳まで勤めたのち息子に家督を譲った伊能は、幼いころから興味を持ち続けていた「天文学」の勉強をするために江戸へ出ることを決意。

江戸へ出た伊能は19歳も年の離れた天文学者・高橋至時に入門。
当初入門に難色を示していた至時は伊能の熱心な勉強姿勢に感動。
やがて「推歩先生(すいほ=星の動き測ること)」と呼ばれるようになった忠敬は自宅を本格的な天文観測所に改造、日本で初めて金星の子午線経過の観測にも成功します。

こうして熱心に知識を学んだ伊能は56歳の頃から実地測量を開始。
測量は長い歳月をかけて行われ、彼が73歳で亡くなるまで続行。
死後に完成した日本地図は日本で初めて「国土を正確に表した地図」となり、1863年にイギリスで発行された「日本沿海図」で原図が参考にされるほど正確なものでした。

30年の下積みから這い上がった「四代目・鶴屋南北」

30年の下積みから這い上がった「四代目・鶴屋南北」

image by PIXTA / 7164892

四代目・鶴屋南北(つるやなんぼく)は江戸・日本橋で紺屋を生業としていた海老屋伊三郎のもとに1755年(宝暦5年)に誕生。
もともと芝居を好んで狂言作者を目指していた南北は1777年(安永5年)に初代・桜田治助(さくらだじすけ)のもとに入門、芝居の世界に入ります。

しかし南北にはそこから長い下積み時代が待っていました。
入門して以降は金井三笑(かないさんしょう)、並木五瓶(なみきごへい)といった歌舞伎作者に師事しながら腕を磨きますがその期間は大変長くなり、気づけば入門から30年が経とうとしていたのです。
修業しながら「いつかは活躍できる」と信じていても30年はさすがに長すぎますね。

30年にわたる下積み時代を過ごした南北が世に出たのは49歳のとき。
1803年(享和3年)にようやく立作者になると三代目・坂東彦三郎のために『世響音羽桜』を作成。
翌年1804年(享和4年)には江戸河原崎座で初代・尾上松助(おのえまつすけ)のために書き下ろした『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』が大きな反響を呼び、1811年(文化8年)に四代目南北を襲名。
1829年(文政12年)に亡くなるまで独創的な作品を次々に発表していきました。

ヘレン・ケラーにも影響を与えた「塙保己一」

ヘレン・ケラーにも影響を与えた「塙保己一」

image by PIXTA / 6283249

1746年(延享3年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)で生まれた塙保己一(はなわほきいち)。
5歳の時に患った胃腸の病気が原因で7歳の時に失明、さらに1757年(宝暦7年)には母が病気で他界するなど、幼少期は病気に悩まされることに。

そんな保己一は1758年(宝暦8年)、江戸で『太平記』を暗記・読み聞かせをして暮らす人の存在を知り、「江戸で学問を学ぼう」と考えた保己一は江戸へ向かうことに。
江戸に出た保己一は検校(けんぎょう)を務めていた雨富須賀一(あめとみすがいち)の門人となり按摩(あんま)、鍼(はり)などの修行に励みますが、不器用な保己一は一向に上達せず。
一時死も考えた保己一は師匠に「学問をやりたい」と相談したところ「3年やって見込みがなければ故郷に返す」ことを条件に学問を認められることに。
師匠の気の利いた判断ですね。

学問を許された保己一は国学や和歌、儒学・漢学など幅広い学問を学び、学者としての地位を向上させることに。
そして1783年(天明3年)には38歳で検校となり、1793年(寛政5年)には国学研究する和学講談所を創設し門弟の育成にも従事。
1819年(文政2年)には1779年(安永8年)から取り組んだ国文学・国史の一大叢書(そうしょ)『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』の編纂を完了。
この作品は歴史学・国文学等の研究に大きく貢献する重要書物となっています。

彼の不屈の姿勢は「奇跡の人」と呼ばれたアメリカのヘレン・ケラーにも大きな影響を与え、「塙先生のおかげで障がいを克服できた」と語るほど。
保己一の影響力は国を超えているのですね。

50歳過ぎから名を挙げた武将「北条早雲」

50歳過ぎから名を挙げた武将「北条早雲」

image by PIXTA / 13710148

1432年(英享4年)に備中国(現在の岡山県)に生まれた北条早雲は、室町幕府の政所執事(まんどころしつじ)・伊勢氏の一族であり、将軍御所に参上した者の名前、用件を将軍に取り次ぐ「申次衆(もうしつぎしゅう)」を務めていました。

そんな早雲は応仁年間 (1467~1469)になると妹・北川殿が駿河国(現在の静岡県)の守護・今川義忠(いまがわよしただ)に嫁いだ縁で駿府に下向。
今川家の後継者争いが勃発するとこれを見事に解決。
この功績を買われて駿河・興国寺城(こうこくじじょう)が与えられることに。
このとき早雲は55歳でした。

それからすぐ伊豆・堀越公方の足利政知(まさとも)が亡くなり跡継ぎ争いが起こると、話を聞きつけてここにも参戦。
堀越御所を攻め立て横暴なふるまいをしていた政知の子・茶々丸を倒し伊豆国を占領することに。
その後伊豆に韮山城(にらやまじょう)を築き関東支配の拠点とすると小田原城(神奈川県)、三浦半島(神奈川県南東部の半島)も奪取。
その後は1519年(永正16年)に亡くなるまで自ら兵を率いて戦ったという説もあり、若くして亡くなる人が多い時代では異例と言えますね。

中国地方支配を達成「毛利元就」

中国地方支配を達成「毛利元就」

image by PIXTA / 20001015

1497年(明応6年)に安芸国(現在の広島県)に生まれた毛利元就(もうりもとなり)。
父の死後相続した兄が早く亡くなり、20歳の時に初めて戦いの指揮を執ることに。
その後27歳で毛利家の当主になりますが、当時の毛利家は安芸国の小さな一族にすぎず、そこまで力は持っていませんでした。

しかしここから元就は自身の力を発揮していきます。
当主となった元就は周防国(現在の山口県)・大内義隆の配下に付くと頭角を現し始め、隣国であった小早川家、吉川家を取り込み三男・又四郎を小早川家の養子(小早川隆景になる)として送り込むなど地位を確立。
自身の勢力拡大へ向けて着実に動いていたのですね。

その後1546年(天文15年)には長男・隆元に家督を譲って隠居の身となりますが、ここから毛利・吉川・小早川三家を統括する立場に就任。
1555年(天文24年)には大内義隆を討った陶晴賢(すえはるかた)を「厳島の戦い」で撃破し、1566年(永禄9年)には出雲の戦国大名・尼子(あまご)氏を倒したことで中国地方支配を達成。
この後も豊後国(現在の大分県)・大友氏と戦い、1571年(元亀2年)に75歳で亡くなるまで戦場で活躍しました。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

この記事のカテゴリ

歴史

関連記事を見る

歴史の記事を見る

「平将門」の歴史。天皇になろうとして失敗するも、後世に残した影響とは?
小早川隆景ってどんな人?毛利家内でいちばんの切れ者
京都観光前に知りたい「東寺」の基礎知識。外せないおすすめポイントは?
サンフランシスコの観光で行きたい!「歴史的」観光スポット11選
西南戦争ってどんな戦争だったの?九州南部全域を巻き込んだ、近代最後で最大の内乱
京都観光前に知りたい「三十三間堂」の基礎知識。外せないおすすめポイントは?
世に聞こえたる「鬼玄蕃」佐久間盛政、無敵の若武者の潔い最期
「後三年の役」ってどんな戦い?東北地方の覇者によるお家騒動
明石城観光前に知りたい!日本100名城「明石城」ってどんなところ?
足利義輝の生涯を追う。室町幕府末期に鮮烈に散った剣豪将軍
平安時代中期の反乱「前九年の役」をもっとよく知ろう
「今川氏真」ってどんなひと?桶狭間で全てが暗転、滅亡後は流浪のアーティスト