輝きは人生後半に放つ!「波乱万丈の人生を送った晩成型の人物・日本編」

武田信玄に欠かせない男「山本勘助」

武田信玄に欠かせない男「山本勘助」

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1493年(明応2年)に駿河国富士郡山本(現在の静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸・安の三男に生まれた(江戸時代の地誌『甲斐国志』の説)山本勘助(やまもとかんすけ)は、三河国(現在の愛知県東部)牛窪城主・牧野氏の家臣であった大林勘左衛門(大林貞次(おおばやしさだつぐ)とも言う)の養子に。

37歳になった1536年(天文5年)、勘助は駿河国(現在の静岡県)主・今川義元に仕官(官職について役人となること)することを希望して駿河国に向かいますが、事はそう簡単にいきません。
勘助の風貌は色黒で低身長、そして片目が見えない状態であったため、義元は勘助の要求を受け入れなかったのです。
こうしたことから仕官は叶わず、勘助はその後9年にわたり駿河に留まることに。

しかし兵法家としての名声は全国に広まってくると、その話は武田家の重臣・板垣信方を通じて甲斐国国主・武田晴信(信玄)に伝わることに。
そして1543年(天文12年)、武田家から召抱えとして採用されると、知行(ちぎょう。
武士に支給される土地)200貫を授かるほど高い評価を受けます。
このとき「領地はいくらほしいか」と聞かれた勘助は「領地は少なくても良い、働く場所がほしい」と晴信に伝えたとされており、勘助はそれだけ「働く場所」を欲していたのですね。

ようやく仕事を得た勘助は流浪時代に得た諸国情勢の知識を存分に発揮、晴信の信濃侵攻時には城を次々に攻め落とし、知行は300貫に増加。
手柄を挙げ続けた足軽大将(足が隊を率いた武将)となり、晴信が出家して「信玄」と名乗った際には自身も出家。
その後上杉謙信との「川中島の戦い」で戦死するまで信玄に欠かせない人物として活躍しました。

「長寿社会」の現代だからこそ注目したい

無一文から世界的ヒット商品を生み出した人物、自分の好きなものを極めて一流を極めた人物と、晩成型の人物でもそれぞれで放った輝きは違うもの。
現代社会は男女ともに80歳前後まで生きる「長寿社会」になっていますが、こうした人物、彼らが送った人生は「長寿社会」になった現代だからこそ見直したいものでもありますね。
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