輝きは人生後半に放つ!「波乱万丈の人生を送った晩成型の人物・日本編」







武田信玄に欠かせない男「山本勘助」

武田信玄に欠かせない男「山本勘助」

image by PIXTA / 21961754

1493年(明応2年)に駿河国富士郡山本(現在の静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸・安の三男に生まれた(江戸時代の地誌『甲斐国志』の説)山本勘助(やまもとかんすけ)は、三河国(現在の愛知県東部)牛窪城主・牧野氏の家臣であった大林勘左衛門(大林貞次(おおばやしさだつぐ)とも言う)の養子に。

37歳になった1536年(天文5年)、勘助は駿河国(現在の静岡県)主・今川義元に仕官(官職について役人となること)することを希望して駿河国に向かいますが、事はそう簡単にいきません。
勘助の風貌は色黒で低身長、そして片目が見えない状態であったため、義元は勘助の要求を受け入れなかったのです。
こうしたことから仕官は叶わず、勘助はその後9年にわたり駿河に留まることに。

しかし兵法家としての名声は全国に広まってくると、その話は武田家の重臣・板垣信方を通じて甲斐国国主・武田晴信(信玄)に伝わることに。
そして1543年(天文12年)、武田家から召抱えとして採用されると、知行(ちぎょう。
武士に支給される土地)200貫を授かるほど高い評価を受けます。
このとき「領地はいくらほしいか」と聞かれた勘助は「領地は少なくても良い、働く場所がほしい」と晴信に伝えたとされており、勘助はそれだけ「働く場所」を欲していたのですね。

ようやく仕事を得た勘助は流浪時代に得た諸国情勢の知識を存分に発揮、晴信の信濃侵攻時には城を次々に攻め落とし、知行は300貫に増加。
手柄を挙げ続けた足軽大将(足が隊を率いた武将)となり、晴信が出家して「信玄」と名乗った際には自身も出家。
その後上杉謙信との「川中島の戦い」で戦死するまで信玄に欠かせない人物として活躍しました。

「長寿社会」の現代だからこそ注目したい

無一文から世界的ヒット商品を生み出した人物、自分の好きなものを極めて一流を極めた人物と、晩成型の人物でもそれぞれで放った輝きは違うもの。
現代社会は男女ともに80歳前後まで生きる「長寿社会」になっていますが、こうした人物、彼らが送った人生は「長寿社会」になった現代だからこそ見直したいものでもありますね。
photo by PIXTA
Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

この記事のカテゴリ

歴史

関連記事を見る

歴史の記事を見る

敬虔なるキリシタン武将・明石全登、ドラマチックに登場した大坂の陣と謎の行方
苦節55年!?日本を代表する近代建築・国会議事堂は誰が建てた?
落ちぶれた本願寺を再興した救世主・蓮如が歩んだ道のりを徹底解説!
偉大すぎる父とできすぎた弟たちを持った毛利のプリンス・毛利隆元の苦悩
絶対敵にしたくない男No.1!「敵はとりあえず暗殺」の宇喜多直家、でも家臣は大事にした?
秀吉は本当に一夜で城を完成させたの?岐阜・墨俣城を訪ねてみた
出奔されてもコイツが必要!と伊達政宗に思わせたデキる親戚・伊達成実ってどんな人?
冬の立山連峰を越えた男・佐々成政、時代に翻弄された悲劇の最期
負け戦に敢えて挑む男のプライド。秀吉に刃向った武将・九戸政実の生き様
秀吉vs勝家!決戦の地・賤ヶ岳古戦場の歴史を辿る旅
小牧山城で近世城郭の始祖・織田信長の築城技術を学ぶ
公家趣味が彼を滅亡に追い込んだ?大内義隆を殺したのは、かつての愛人だった…!?