裏切り者の極悪人?明智光秀の真の人物像に迫る!

日本で明智光秀という名を聞いたら、まず誰もが「主君の織田信長を殺した裏切り者」と思うのではないでしょうか。事実、彼は信長を本能寺で討ちましたが、その真相はいまだに謎に包まれています。そして、主君を裏切った彼には、狡猾な極悪人としてのイメージもついてしまいました。しかし、本当はどうだったのでしょうか。謎多き明智光秀、彼の人物像に迫り、新たな光秀像を解明したいと思います。


謎多き出自

謎多き出自

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明智光秀の前半生は、ほとんどが謎に包まれています。
生年ですらはっきりとはわかっておらず、享禄元(1528)年とも、大永6(1526)年とも、永正13(1516)年とも言われています。
大永6年生まれならば、同年代には徳川家康の父・松平広忠(まつだいらひろただ)がいます。

彼が生まれた明智家のルーツもまた、ぼんやりとしています。
清和天皇から別れた氏族・清和源氏の流れを汲む土岐(とき)氏のさらに支流だと言われており、身分の低い家柄だったんです。
土岐氏自体は超名門で、室町幕府では各国の政治・警備を司る守護を務めていました。

斎藤道三(さいとうどうさん)に仕えた?

斎藤道三(さいとうどうさん)に仕えた?

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というわけで、光秀は生まれてから青年期あたりまでの動向がまったくといっていいほど不明なんです。

一説には、美濃(岐阜県)の守護となった土岐氏に仕え、その後土岐氏を倒して取って代わった斎藤道三に仕えたと言われています。
斎藤道三と言えば、「美濃のマムシ」として恐れられた武将で、信長の正室・濃姫の父親ですね。

しかし、道三が息子との争いに敗れると、道三側だった光秀は一家離散となり浪人となってしまいました。
これが弘治2(1556)年のことでした。

朝倉義景と足利義昭の元で

朝倉義景と足利義昭の元で

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その後、光秀がどうしたのかというと、彼は越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)に10年ほど仕えました。
ここでは徐々に才能を発揮し認められ、後の室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が、永禄9(1566)年にここへ身を寄せた時に顔見知りとなったんですよ。
光秀がなかなかデキる男だということは義昭にもわかったようで、光秀は義昭に仕えるようになりました。

義昭は、兄であり13代将軍の義輝(よしてる)が暗殺されたため、自分が将軍になることを望んでいました。
しかし自分の力だけでは足りないため、当時、今川義元(いまがわよしもと)を倒し飛ぶ鳥を落とす勢いを持っていた織田信長に力を借りようと考えたのです。

その要請をするに当たって、義昭と信長の間に立ったのが光秀でした。
ここで、ついに光秀は信長と接点を持つことになったのです。

ついに信長の家臣となる

ついに信長の家臣となる

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義昭と信長の間で、義昭が上洛し将軍となるのに尽力した光秀は、やがて義昭と信長の両方に仕えるようになりました。
これってちょっと珍しいですよね。

そして、京都とその周辺の政務を任されるまでになり、信長が敗戦を喫し撤退した戦いでは殿(しんがり)を務めました。
殿を務めるというのは、武士にとっては命を懸けた大役であり、それを任せられるということは主からの信頼が篤い証拠でした。
ということは、光秀はすでに信長にとっても重要な家臣となっていたということになりますね。

その後の光秀は、信長にとっては宿敵ともなる石山本願寺との戦いにも参加し、比叡山焼き討ちの際には実行部隊を指揮しました。

この時の功績によって、彼は近江(滋賀県)に領地を与えられ、信長直属の家臣となります。
そして、この地に自分の城である坂本城を建設したのでした。

出自もよくわからないような身分でありながら、自分の才覚だけで出世し、ついに一国一城の主となったのです。
大出世と言えますよね。

信長に尽くしすぎて危うく過労死!?

信長に尽くしすぎて危うく過労死!?

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信長の家臣となった光秀は、信長が出陣する戦に従い、多くの戦場に赴きました。
それに加えて、奉行のような役割もこなし、まさに働きづめの日々を送っていたんです。

そんな中、天正4(1576)年、光秀は過労で倒れてしまいました。
死線をさまようほどの重体となりましたが、妻の熙子(ひろこ)の献身的な看病によって、奇跡的に回復します。
ただ、この時の看病疲れによって、熙子が亡くなってしまうという悲しい出来事にも直面しました。
愛妻家だった光秀にとっては、大きな痛手となったはずです。

そんな悲しみを背負いながらも、光秀は彼にとって最大級の仕事とも言える丹波攻めに取り掛かりました。
丹波(京都府中部付近)は、地形が山がちで攻めにくい上に、元々その土地を支配している土着の武士たちの力が強く、かなりの難関だったんです。
しかし光秀は見事ここを平定し、信長もその働きを絶賛したほどでした。

そして、天正9(1581)年には京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)という軍事パレードの責任者に任命され、しっかりとこれを取り仕切ります。
信長の力を天下に示すこのイベントを大成功させた光秀は、信長の家臣団の中でも5本の指に入る重臣となっていったのでした。

また、光秀は、自分を取り立ててくれた信長に深く感謝し、子孫まで奉公を忘れてはいけないと書き残しています。
茶会の席には信長の書を掛けるなど、信長を尊敬・崇拝していました。

しかし、御馬揃えの翌年。

本能寺の変が起きるのです。

日本中が震撼!本能寺の変

日本中が震撼!本能寺の変

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天正10(1582)年5月、光秀は信長から徳川家康の接待役を任されました。
しかし、その後すぐにその任を解かれ(腐った料理を出したと信長になじられたという説もあり)、中国地方を平定中の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の援軍となることを命じられたのです。

旧暦の6月2日未明、光秀は軍勢を引き連れて坂本城を出発します。

すると、突如行き先を中国地方ではなく、京都の本能寺へと変更したのでした。
本能寺には信長が100人ばかりの供と宿泊していました。

そこを1万3千の兵で包囲した光秀は、寺に火をかけ、一気に信長を攻め殺します。
信長は燃え落ちる寺の中で自害したと言われていますが、遺体は見つかりませんでした。

光秀はさらにたたみかけ、信長の長男・信忠(のぶただ)が滞在する二条御所にも攻め込み、信忠はここで命を落とすこととなったのです。

誰も予想しなかった光秀の謀反に、天下は激震しました。

誰も味方をしてくれない…光秀、大ピンチ

誰も味方をしてくれない…光秀、大ピンチ

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信長を倒し京都を掌握した光秀は、有力大名に加勢を呼び掛けます。
しかし、これは全く功を奏しませんでした。
娘婿でもある細川忠興(ほそかわただおき)、その父で光秀の友人でもある藤孝(ふじたか)ですら、中立を表明したんです。
おそらく、誰もがこの事態を信じられず、また、光秀が本当に天下を取れるのか、疑問だったのでしょう。
また、これを知った秀吉がいち早く信長生存説を流したためとも言われています。

光秀が味方を集めるのに手こずっている隙に、秀吉は本能寺の変からわずか10日余りという速さで兵を返し、京都へと舞い戻ってきました。
これが秀吉の「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」です。

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世界と日本がどのように成り立ってきたのか、歴史についてはいつになっても興味が尽きません。切っても切り離せない旅と歴史の関係を、わかりやすくご紹介していけたらと思っています。

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