日本ではじめての流通貨幣「和同開珎」の歴史と謎に迫る!

「和同開珎」。一度は、名前を聞いた方も多いのではないでしょうか?和同開珎は、はじめて日本で流通した貨幣と言われています。奈良時代のはじめに現在の埼玉県秩父市から自然の銅である和銅(にぎあかがね)が発見され、当時の朝廷があった平城京でその和銅を元に流通貨幣として造られたのが和同開珎です。この貨幣、本当に最古の貨幣だったのでしょうか?本当に流通されていたのでしょうか?今回は、和同開珎の歴史と謎についてご紹介していきます。


和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)とは?

和同開珎はなぜ造られた?

和同開珎はなぜ造られた?

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「和同開珎」とは、日本ではじめてに鋳造された流通貨幣・コインです。
直径が約2.4センチの5円玉のように真ん中に穴が空いています。
この和同開珎の元祖は、唐(現在の中国)で流通していた「開元通宝」(かいげんつうほう)だったと伝えられています。
そして、真ん中に穴があるのは、そこに紐などを通せば持ち運びが楽だったからと言われています。
実は、ヤフオクや古銭商で私たちも手に入れることができます。
興味ある方は、実物を手に取ることも可能なのです。
では、この和同開珎はどのように造られたのでしょうか?

この和同開珎ができる前、日本では税は織物や麦などを納めたり、市場では物々交換が主流でした。
しかし、日本も本格的な律令国家として動き出すためには、自国で鋳造するきちんとした流通貨幣が必要となっていったのです。
当時、日本を治めていたのはの第43代元明天皇(げんめいてんのう)という女帝でした。
この女帝は、有名な聖武天皇の祖母にあたる女性です。
元明天皇が治めていた時代は、唐とイスラム帝国が勢いづいており、アジア全体が華やか文化を誇っていました。
現在でも東大寺正倉院に遺るシルクロードの遺品がそれを物語っています。
このアジアの発展を支えていたのは、シルクロード商人たちでした。
そして、彼らの持っている荷物の価値を保証する公平な枡や明確な法律・そして流通している貨幣がこの発展には欠かせないものだったのです。
長い時間・距離を旅する商人たちは物々交換などでは、適切な買い物はできず、コンパクトで紐でひとくくりに持ち運べる流通貨幣は便利なアイテムでした。
唐やイスラム帝国など、律令政治の土台がしっかりしている国の貨幣は、遠い国でもしっかりと保証され、また信頼が寄せらており、多くの商人や素晴らしい交易品が国に集まっていたのです。
つまり、しっかりした国家が造った貨幣は、諸外国からも信頼される国家の証拠ともいえるものでした。
そして、従来の価値のあいまいな物々交換よりも、銭貨による「価値の統一」を目指したのです。

そのため、元明天皇は日本もしっかりとした律令国家となることを目指しました。
税を作物や特産物で治めるのではなく、市場では物々交換に頼らない、そして従来のあいまいな価値観である物々交換ではなく、「価値の統一」を目指したのではないでしょうか?

偶然ではなかった!出土した和銅とは?

偶然ではなかった!出土した和銅とは?

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流通貨幣の発行を考えている元明天皇をはじめとする当時の朝廷に大変喜ばしいニュースが入ってくることになります。
それが、貨幣を鋳造するのに必要不可欠な自然の銅が国内で発見されたことです。
鉱物資源の発見は、朝廷にとってとても喜ばしいことでした。
なぜなら、国家の力であり財力と密接にかかわることになるからです。
鉄であれば田畑を耕すための鉄製の農具などを造ることが可能であり、それは生産性と税収が増えることを意味します。
また、寺院の仏像の素材・様々な塗料・国防強化の武具、そして貨幣といったように鉱物発見は大変喜ばしいことだったのです。

自然の銅である和銅(にぎあがね)が発掘されたのは、武蔵野国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)でした。
今から約1300年前の708年(和銅元年)のことでした。
朝廷は、このあまりのタイミングの良さとその銅の質の良さなどから、年号を「和銅」と改めることにしました。
そして、すぐに自国貨幣の鋳造にとりかかります。
しかし、鋳造された「和同開珎」はなかなか普及することはありませんでした。
当時の庶民にはただの丸い銅の有り難みが理解できなかったのです。
そこで朝廷は、驚きの特例をだすことにしました。

それが、711年(和銅4年)に発布された蓄銭叙位令でした。
これは、和同開珎をある一定量貯蓄した者を昇進させるという令でした。
簡単に言えば貨幣で官職が買えてしまうという現代では考えられない驚きの法律です。
しかしこの法律は矛盾していました。
和同開珎の流通促進を促したいのに貯蓄奨励をしたのでは、逆に和同開珎の流通を止めてしまうこととなり、800年(延暦19年)に廃止されました。
その後も朝廷は、役人の給料を和同開珎で支払ったりと様々な試みをします。
しかし、和同開珎はあまり出来が良くなく、偽物が出回り始め経済が混乱していく結果となってしまいました。

朝廷は、貨幣価値の下落や混乱を防ごうと和同開珎を廃止して萬年通寳(まんねんつうほう)という貨幣を新たに流通させますが、万年通宝1枚に対し和同開珎10枚の交換比率を設定するなどさらに貨幣流通が混乱する結果となってしまいます。

結局、朝廷は708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて12種類の銅銭を発行しました。
本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)と呼ばれるものです。
和同開珎・万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝・乾元大宝。
しかし、すべて混乱が生じてしまい最期の乾元大寳を最後に、国内鋳造貨幣の配給は廃止となりました。
流通貨幣を全国に広めるということは当時、大変なことだったのです。

この和同開珎の銅が出土した秩父市には、「聖神社」(ひじりじんじゃ)という神社があります。
ここは、「和同開珎」ゆかりの神社とされており、別名「銭神様」(ぜにがみさま)とも呼ばれ、金運上昇にご利益がると言われています。
また、近くには、和銅が採掘された「和銅遺跡」が残されており、和銅採掘にまつわる様々な伝承があり、一帯はパワースポットとしても注目されているので、お時間がある方は一度足を運んではいかがでしょうか?

どの読み名が正しいの?

どの読み名が正しいの?

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「和同開珎」をどう読むかご存知ですか?「わどうかいちん」・「わどうかいほう」どちらが正しい読み方なのでしょうか?実はこの読み方については、江戸時代から論争が続いています。

「わどうかいちん」との読みが正しいという説は、、「珎」は「珍」と読み方や使用方法などが一緒で漢字の一部が異なる字体あり、音としては当然「チン」となると主張しています。
また、正倉院の古い文書に「国家珎寳」という文字が残されており、珎が「ほう」寳の略字だとすると、二つ同じ音を重ねるのに別々の「ホウ」の文字を使うというのはおかしく、「国家ホウホウ」とはおかしいのでこれは「国家チンホウ」と読むので、珎は珍の異なる字体として当時常用されていたと考えられるとしています。

「わどうかいほう」との読みが正しいという説は、「珎」は「寳」の読み方や使用方法などが一緒で漢字の一部が異なる字体あり、そもそも「寳」という文字は、「貨幣」の意味があり、手本とした唐の開元通寳も含め中国銭のほぼすべて、そして、その後に本で造られる皇朝十二銭のすべてが「寳」という文字を使用しており、「珍」を使用している例は皆無であるので「わどうかいほう」が正しいとしています。

では、どちらが正しいのでしょうか?現在では、当時の残された資料の中で、「珍」を「珎」とした事例が多く見えること。
漢字そのものの変化が「寶」から「寳」から「宝 」・「珍」かた「珎 」と流れているので「和銅カイチン」と読む説が定説になりつつあります。
実際に最新の歴史書や歴史辞典等の出版物は、ほぼ読み方はカイチンとしています。
中学校の歴史教科書においても、「和同開珎」(ワドウカイチン)と仮名がふられており、その横に( )でホウと付け加えられています。

実は、もっと前に日本には貨幣があった?

無文銀銭とは

無文銀銭とは

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実は、和同開珎が発行される以前に日本には貨幣が存在していました。
その一つが無文銀銭(むもんぎんせん)です。
これは、滋賀県の崇福寺跡(すうふくじあと)から出土しました。
金・銀・銅のお釈迦様の遺骨を入れるとされる舎利容器とともに無文銀銭が11枚出土しました。
それ以外でも、近畿地方を中心し出土しています。

無文銀銭は、和同開珎が造られる40年以上前、元明天皇の父にあたる第38代天智天皇(てんじてんのう)が治めていた近江京(おうみきょう)で造られたと推定されています。
では、なぜ日本最古の流通貨幣は無文銀銭ではないのでしょうか?

それは、和同開珎と大きく違い、流通貨幣ではなかったからです。
無文銀銭は、国による制度としての通貨ではなく、物々交換を行う手段の一つでしかなく、また祭祀用としても使われていたと考えられています。
無文銀銭が日本の統一通貨とは言えずあくまでも私銭であり、体系的にも制度的にも流通貨幣とは現時点では認められていません。
一番古い通貨・コインは「無文銀銭」であり、一番日本の流通貨幣は「和同開珎」と言えるでしょう。

富本銭とは

富本銭とは

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もう一つ、和同開珎の前に富本銭(ふほんせん)があります。
これは、683年(天武天皇12年)頃に日本でつくられた銭貨と言われています。
そして、1998年(平成10年)奈良県の飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)から約40枚の富本銭(ふほんせん)が出土しました。

この富本銭が実際に流通したのか、祭祀や呪術にしようされる厭勝銭(えんしょうせん)として使われたのかが今も論争中です。

この富本銭は、銅銭表面の上下に「富本」と書かれており、「国家か民が富をもたらす本(もと)となる銭」という願いを込めて中国の古典から引用されたと考えられています。
左右には7つの星が描かれている、陰陽五行(いんようごぎょう)思想における陽(日)と陰(月)・そして火水木金土の五行を総称した7つの天体である七曜星を表している(しちよう)を現わしています。
丸い形からも天地万物すべてが調和のとれた状態であり、中国の伝統的な貨幣思想を具体的に表現していると考えられています。

この富本銭はまだ出土が少なく研究が進められています。
これからの研究によっては、もしかしたら日本で最古の流通貨幣が和同開珎ではなく、富本銭になるかも知れませんね。
この富本銭は遠く海を渡り3大博物館である大英博物館に所蔵されているそうです。

Writer:

二児の母。自他共に認める「歴女」。寺社仏閣巡りが趣味。大学時代は、巫女バイトに励み神社の驚愕の裏側を知る。主人の仕事で、ニューヨーク、カリフォルニアに5年間住むことになる。ナショナルパークなどの世界遺産の素晴らしさを実感。ライターという仕事を通して、歴史や世界遺産の素晴らしさを多くの方と共有できれば幸いです。

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