日本の文学史に多大な影響を与えた「正岡子規」とはどのような人物?

明治時代に俳人・歌人として活躍した「正岡子規(まさおかしき)」彼の生涯はわずか34年とたいへん短いものでしたが、彼はその生涯の間に短歌・小説など多彩な分野で活動を行い、日本文学史に大きな影響を与えてきました。それではその「正岡子規」とはどのような生涯を送ってきたのか、今回はゆかりのスポット、エピソードなどについて見てみましょう。


生まれから

政治家を志した少年時代

正岡子規は1867年(慶応3年)に伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚と母(藩の儒者・大原観山(おおはらかんざん)の長女)八重の間に長男として誕生。
4歳であった1872年(明治5年)に父・常尚が亡くなると大原家や叔父の貢献を受けて家を相続することに。

子どもの身でありながら家を継ぐことになった子規ですが、学びを怠ることはありません。
祖父・観山の営む私塾に入塾すると漢学(中国より伝わる学問)を学びながら末広小学校へ入学(後に勝山学校へ転校)、このほかでは漢詩・小説などにも親しみ友人と雑誌作成も行います。
この当時からすでに創作意欲の活発さは見せていたのですね。
またそうした活動の一方で当時盛んとなっていた「自由民権運動」にも関心を示しており、運動に関する演説会を開催したことも。

その中で1880年(明治13年)には松山中学(現在の松山東高等学校)に入学しますが、政治家になることを志した子規は1883年(明治16年)に同校を中退して上京。
大きな志を持った子規は弱冠16歳の若さで大きな街へ飛び出していくのでした。

上京後・歌を学び小説も執筆

上京後・歌を学び小説も執筆

image by PIXTA / 14412606

上京を志した子規は1883年(明治16年)6月10日に三津浜港から東京へ向けて出発。
神戸を経由し横浜へ、その後横浜から東京まで汽車を乗り継いで東京に到着します。

東京へ到着した子規は受験勉強のために共立学校(現在の開成高等学校)に入学。
ここでは松山中学時代からの友人で後の海軍軍人・秋山真之(あきやまさねゆき)がおり、翌年に東京・日本橋に住んでいた旧藩主家・久松家の給費生に。
ここでは月額7円の生活費、教科書代の支給を受けながら生活することに。
この年の9月には東大予備門(のちの第一高等学校、現在の東京大学)に入学、この学校時代の同級生にはのちの国文学者・芳賀矢一(はがやいち)や小説家・山田美妙(やまだびみょう)、菊地謙二郎、夏目金之助(のちの夏目漱石)とそうそうたる顔ぶれが揃っており、それだけでも子規のすごさは想像できますね。

また入学の翌年1885年(明治18年)夏の帰省時には秋山の紹介で歌人・井出真棹(いでまさお)から歌を学び、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の小説「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」に感動。
その後自身で小説『月の都』を執筆、幸田露伴(こうだろはん)のもとを訪問し小説を見せますがあまり評価されず、小説家の道は断念。
それでも「自分で書こうとする」行動力は見事と言えますね。

俳句活動の開始・子規誕生

1890年(明治23年)に第一高等中学校を卒業した子規は9月に「東京帝国大学」文科大学哲学科へ入学(のちに国文科へ転科)。
この頃に夏目金之助(漱石)と出会っており、子規が手がけた漢詩・俳句などの文集『七草集』に漱石が批評を巻末に漢文で書いたことから始まり、その関係は子規が亡くなるまで続くことに。

学業では1892年(明治25年)に学科試験で落第すると退学を決意、叔父・加藤拓川の紹介で新聞『日本』の記者に就任すると1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載するなど紙面や姉妹紙『小日本』などで俳句・短歌活動を開始。
記者としては1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の際に近衛師団付きの従軍記者として遼東(リャオトン)半島へ向かいますが、上陸2日後に下関条約が調印されたことで帰国することに。

取材中に体調を崩していた子規は帰りの船の中で喀血、病院に入院したのち故郷・松山へ帰郷。
この頃数か月間の寝たきり生活を送ることになります。
このあと喀血した様子から「鳴いて血を吐く」と言わるホトトギスと自分を照らし合わせてホトトギスの漢字表記「子規」を自身の俳号とするように。

病気に悩まされながらの活動・晩年

病気に悩まされながらの活動・晩年

image by PIXTA / 17947026

病気に悩まされながらも子規は創作活動を続けることになります。
1897年(明治30年)に創刊した雑誌『ホトトギス』を創刊するとここで自身が注目した与謝蕪村(よさぶそん)の作品などを研究、1898年(明治31年)には『歌よみに与ふる書』を発表。
古今集を否定するなど俳句・短歌の革新活動に取り組むことに。

しかしそうした活動の中でも病状は悪化の一途をたどって行きます。
創刊前年には結核菌が脊髄に入り込み脊髄を腐らせてしまう「脊椎(せきつい)カリエス」を患うようになり、1899年(明治32年)頃からは起き上がることもできず寝たきり状態が続くように。
創作意欲が湧いてきながら「体が言うことを聞かない」状況は子規にとっては大変厳しい状況であったことでしょう。

こうした中でも死に臨んだ自身の肉体・精神を客観視した『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』を書き記すなど活動を続けた子規でしたが、1900年(明治33年)8月には大量の喀血をするなど限界は近づき、ついに1902年(明治35年)9月19日、34歳の若さで帰らぬ人に。

死の前日9月18日の朝に「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をととひのへちまの水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」)の3句を詠んだのち昏睡状態になったとされており、今にも命が消えようとする中で最後まで創作への意地を見せた人生でした。
またこのとき親友であった夏目漱石はロンドン留学中で、子規の死に立ち会うことは叶わず。

子規にまつわるエピソード

写真はなぜ横顔なのか

写真はなぜ横顔なのか

image by PIXTA / 489825

歴史教科書などに登場する子規の画像は「横顔」のものが多くみられますが、これには理由があると言われており、1つは「脊椎カリエス」に悩まされ背骨を延ばすことが困難であったため横向きで撮った説。
当時は背中を無理に伸ばそうとすると痛みが出たと言われており、そうした背景を知って見ると彼の苦悩が少しわかるかもしれませんね。

そのほかの話では子規の弟子であった河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の著書に「子規は目と目が離れていた」ため、それを気にして横向きにしたという説が出ています。
写真は後世に残る可能性もあるわけですから「自分が気にするところ」を写したくない心理もわかりますね。

横顔写真以外では正面から撮影された写真も存在しており、学生服を着ていた姿や着物姿で座る姿、野球に熱中していた頃のユニフォーム写真は正面を向いた状態のもの。
「正面を見られたくない」と本人が考えていたならば、撮られるのは相当恥ずかしかったかもしれません。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

この記事のカテゴリ

歴史

関連記事を見る

歴史の記事を見る

敬虔なるキリシタン武将・明石全登、ドラマチックに登場した大坂の陣と謎の行方
苦節55年!?日本を代表する近代建築・国会議事堂は誰が建てた?
落ちぶれた本願寺を再興した救世主・蓮如が歩んだ道のりを徹底解説!
偉大すぎる父とできすぎた弟たちを持った毛利のプリンス・毛利隆元の苦悩
絶対敵にしたくない男No.1!「敵はとりあえず暗殺」の宇喜多直家、でも家臣は大事にした?
奈良時代から現存する「東大寺法華堂」ってどんなところ?
秀吉は本当に一夜で城を完成させたの?岐阜・墨俣城を訪ねてみた
出奔されてもコイツが必要!と伊達政宗に思わせたデキる親戚・伊達成実ってどんな人?
冬の立山連峰を越えた男・佐々成政、時代に翻弄された悲劇の最期
負け戦に敢えて挑む男のプライド。秀吉に刃向った武将・九戸政実の生き様
秀吉vs勝家!決戦の地・賤ヶ岳古戦場の歴史を辿る旅
小牧山城で近世城郭の始祖・織田信長の築城技術を学ぶ