日本初の西洋翻訳書『解体新書』を送り出した杉田玄白とはどのような人物?

1774年(安永3年)にオランダの西洋科学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳して刊行され、日本では初となる本格的な西洋科学書の翻訳書となった『解体新書』。この翻訳作業は数人の人物により3年の歳月をかけて行われましたが、その中心人物であったのが「杉田玄白(すぎたげんぱく)」です。それではその『解体新書』を送り出した「杉田玄白」とはどのような人物であったのでしょうか。今回は彼の生涯や関係する人物、スポットから見てみましょう。

誕生・翻訳決意まで

生まれ・有名人との交流


1733年(享保18年)に江戸・牛込(現在の東京都新宿区北東部に相当)の小浜藩(現在の福井県などを領した藩)・酒井家の江戸屋敷に誕生した玄白。
母は玄白が生まれてすぐに亡くなってしまい、1740年(元文5年)には一家で小浜へ。
その後玄白自身は家が医者であったことから医学修行を開始、医学を西玄哲(にしげんてつ)、漢学は儒者・宮瀬竜門(みやせりゅうもん)に学ぶこととなります。

修業を積んだのち小浜藩医としての勤務を経て、1757年(宝暦7年)には江戸・日本橋に開業し町医者に。
またこの頃には江戸で開催された物産会(薬草などを展示していた)に参加。
ここで本草学者の田村元雄(たむらげんゆう)、エレキテルで有名な平賀源内(ひらがげんない)、中川淳庵(なかがわじゅんあん)らとの交流を持ち始め、その後も付き合いは続くことになります。

日本初の「人体解剖」に影響を受ける


玄白が町医者を始める3年前の1754年(宝暦4年)には京都で医学者・山脇東洋(やまわきとうよう)が日本で初めての試みを実施していました。
京都に設置された行政機関・京都所司代(きょうとしょしだい)の許可を得て「処刑された罪人の人体解剖」を実施したのです。
当時の日本においては「漢方医術」が主流の医学が行われていましたが、彼はそうした医学に疑問を抱き、当時信じられていた「五臓六腑説」が正しいのかを確かめようとしました。

彼は日本初の試みとなった解剖の成果を『蔵志(ぞうし)』として発表。
これが日本で初の解剖書となります。
この人体解剖は日本の医学界に大きな影響を与え、玄白自身も「五臓六腑説」を疑うきっかけに。

その後1765年(明和2年)に藩の奥医師となっていた玄白は東洋の試みに同じ医学従事者として「心を動かされた」のでしょう。
医学においてより正確性の高いオランダ医学習得を目指すことにしますが、そのためにはオランダ語を習得しなければいけません。
そこでオランダ語習得を考えた玄白ですが、通詞・西善三郎からオランダ語学習の難しさを伝えられ一度は習得を断念。
またこの時期1769年(明和6年)には父の玄甫が死去。
酒井家の侍医(じい。
天皇・皇族などにつく医者。)の職を継ぐことになります。

翻訳の決意・刊行までの道のり


解剖見学・翻訳を決意


一度はオランダ語習得をあきらめかけた玄白ですが、これで彼の野望が終わることはありません。
1771年(明和8年)になると交流を持っていた中川淳庵が、オランダ商館院からオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を借り玄白のもとにやってきます。
語学が読めず詳しい内容は理解できないものの、精密な解剖図に驚いた玄白は本の購入を決意、藩に相談して本を手に入れます。

そして同年、同じ医学書を持った前野良沢(まえのりょうたく)や中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現在の東京都荒川区南千住・小塚原刑場跡)で実施された人体解剖を見学することに。
ここで本を見ながら解剖を見学した玄白らはその正確さに感動。
それと同時にこれまで信じられていた「漢方医術」による医学が実際の人体と異なることを知ることにもなります。
当時の医学常識が根本から覆される出来事ですね。

こうして本の正確さに大きな驚きを感じた玄白は「翻訳して世に出せば医学は間違いなく進歩する」そう確信を持ったのかもしれません。
玄白は本を日本語に翻訳・発表することで「西洋医学を世間に広める」決意をここに固めたのでした。

苦難の翻訳作業・完成へ


オランダ医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業を開始した玄白ですが、その作業はたいへん厳しいものでした。
翻訳用ソフトなどが発達した現代であればすぐに検索して翻訳できますが、この頃は江戸時代。
オランダ語の辞書すらない時代に翻訳するわけですから、それが簡単なわけがありません。
想像しただけで「骨の折れる作業」であることが想像できますね。

辞書すらない中での翻訳作業は3年も続き、ようやく完成したのは1774年(安永3年)。
和訳書『解体新書』として刊行を実現させ、友人である桂川甫三(蘭学者・桂川甫周(かつらがわほしゅう)の父)により将軍家に献上されるに至ります。
医学の発展を信じて粘り強く作業を続けた玄白たちの努力はついに結実のときを迎えたのでした。

大仕事を果たした玄白は1776年(安永5年)に藩の中屋敷を出て「天真楼」と呼ばれる医学塾を開校。
江戸時代後期に蘭学者として活躍する大槻玄沢(おおつきげんたく)などが入塾、高野長英の養父・高野玄斎もここで学ぶなど後進の育成にも力を注ぎました。

回想録の刊行・晩年

回想録の刊行・晩年

image by PIXTA / 18127863

大仕事を果たし後進育成も行った玄白。
1805年(文化2年)には11代将軍・徳川家斉(いえなり)に拝謁(はいえつ。
身分の高い人物に会うことのへりくだった表現)、良薬を献上すると1807年(文化4年)には家督を息子・伯元(はくげん)に譲り隠居します。

隠居した玄白は回想録『蘭学事始』の執筆を開始。
ここでは『ターヘル・アナトミア』を入手してから翻訳作業、刊行に至るまでの苦難の道のりを振り返った内容で、自筆草稿を大槻玄沢に示し訂正依頼。
書は玄白が83歳となった1815年(文化12年)に完成、その後1869年(明治2年)に玄白の曽孫・杉田廉卿(れんけい)による校正を経て福沢諭吉が木版本として刊行することに。

人生の振り返りを終えた玄白は1817年(文化14年)4月17日、84歳で生涯を終えます。
玄白の死後1826年(文政9年)に弟子・大槻玄沢(おおつきげんたく)によって再翻訳、『重訂解体新書(じゅうていかいたいしんしょ)』として出版。
死後も玄白の功績は受け継がれていたのです。

Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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