迷った心を照らすパワースポット「延暦寺」の姿

現代人の心を照らすパワースポット「延暦寺」とは?
滋賀県と京都府に跨る霊峰『比叡山』にある「延暦寺」は近年のパワースポット巡りの流行から人気の観光スポットになっている場所です。
そんな延暦寺の歴史やスポット、そして歴史の授業で一度は耳にした事のある開祖「最澄」についてご紹介します。

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三塔十六谷からなる比叡山「延暦寺」

三塔十六谷からなる比叡山「延暦寺」

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日本で初めて年号を冠した霊山である「延暦寺」の正式名称は『比叡山 延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)』で、京都市から5kmという近距離にありながら標高848mの山、東京ドーム約363個分(約1700万㎡)の土地とすべての堂塔を合わせて「延暦寺」という巨大なお寺であり、山全てが僧侶が修行をする聖域『伽藍(がらん)』なのです。

そんな大きなお堂から小さなお堂まで合わせて、約150塔堂もある延暦寺の中でも代表的なお堂をご紹介します。

秘仏が眠る延暦寺の中心「東塔」

秘仏が眠る延暦寺の中心「東塔」

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多くのお寺の本堂にあたるものが無い延暦寺では、第一駐車場から歩いて直ぐにある東塔の地域の延暦寺最大のお堂『根本中堂』が総本堂としての役割を担います。

延暦寺を開創した「最澄(さいちょう)」が太古から神山として崇められていた比叡山に入山した際に、修行の傍らで東塔の北谷にあった霊木を自ら刻んで作成した『薬師如来像』を本尊として二重の厨子に厳重に納められており、一般公開されない秘仏として信仰を集めている荘厳なお堂です。

厨子の前に安置されている『薬師如来立像』は江戸時代に本尊の写しとして作成された『お前立ち』と呼ばれるもので、本尊を見る事が出来ない一般の人はこのお前立ちの像を参拝します。

特にこの厨子の前にある三つの釣り灯篭には比叡山の象徴である『不滅の法灯』が灯っており、その清浄な空気に包まれた幽玄の空間に一歩踏み込むと自然と背筋が伸びて厳粛な気持ちにさせてくれるので、延暦寺に来た際には必ず参拝されるとよいでしょう。

また根本中堂の前にある『文殊楼』は中国五山の文殊菩薩堂をモデルにした日本で最初期の重層門で、延暦寺の山門となり圧倒的な存在感を持って参拝者を迎えてくれます。
この重厚な門も他の堂塔と同じように何度か焼失をしていて現在の楼門は1668年以降に再建されたもの。
その中には勇ましく口を開けたどこか愛嬌のある獅子の上に剣と経巻を持った『文殊菩薩坐像』が納められています。

さらに東堂の代表的なお堂として『大講堂』があり、ここでは『五年一会』や『法華大会』などの法義が行われる道場で根本中堂と同じ頃に創建されたものでしたが1956年焼失。

現在の建物は1956年(昭和31年)山麓の坂本にあった1634年建造の賛仏堂を移築したもので、本尊の『大日如来坐像』の左右に『十一面観音坐像』『弥勒菩薩坐像』、その周りにはかつて延暦寺で修行を行い自らの教えを広めた各宗派の始祖の木像を祀っており、宗派問わず厳かな気持ちで法義を体感する事ができる場所となっています。

焼き討ちから唯一逃れた堂塔がある「西塔」

焼き討ちから唯一逃れた堂塔がある「西塔」

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比叡山の西側にある『西塔』は、かつて比叡山で起きた災禍の中で最も凄惨だったと言われる「織田信長」による焼き討ちから唯一逃れ残った『瑠璃堂』がある地域で、西塔の秘仏が納められている『釈迦堂』から山道を10分ほど下った所にある室町末期の特徴を残した小さな建物です。

江戸時代に再建されたという説もありますが、瑠璃堂が焼き討ちから残ったのは事実であり閑静な森の中に苔むした屋根と濃い飴色に染まったお堂の壁でひっそりと佇む姿は、過去の災禍を慮るような気配を感じます。

そしてこの西塔にある『釈迦堂(転法輪堂)』は西塔地域の中心となる建物。

焼き討ちの後、1347年に造営されたこのお堂は現在の大津市にある三井寺にあった『弥勒堂』を「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」の命令によって1595年に延暦寺へと移築した、比叡山の中で現存する最も古いお堂になりまます。

中には秘仏である本尊『釈迦如来立像』が二重の厨子の中に大切に納められており、根本中堂の薬師如来像と同様に公開されていない仏像なので厨子の前にある本尊の写し『お前立ちの像』を参拝します。

黄金に輝く神秘的な釈迦如来立像の写しの周りには十六善神像や四天王像などの木像の仏様神様が祀られていて、根本中堂の荘厳さとは少し違う、静謐な雰囲気に包まれたお堂は俗世で疲れた心をの淀みを払ってくれるような気持ちにさせてくれますよ。

またこの西塔からドライブウェイに添って横川方面へと下る途中に『黒谷青龍寺参道』という道が見えてきます。
この参道の先には比叡山で修行をしのちに『浄土宗』の開祖となった「法然(ほうねん)」が修行したお寺があり、ここは比叡山の三塔十六谷に含まれず浄土宗の総本山である『知恩寺』が管理している建物です。

このお寺もまた「織田信長」の焼き討ちの際に焼失していますが、1967年(昭和42年)に延暦寺の好意により再建され、現在は青少年修練道場として若い世代の浄土宗の信徒達へ「法然」の教えを伝える場所となっています。

他の宗派の寺院を受け入れるところに延暦寺の懐の深さ、「最澄」の目指した『法華一乗』の思想が今も息づいている証拠のように思えますね。

新たな延暦寺へと発展させた「横川」

新たな延暦寺へと発展させた「横川」

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西塔よりさらに4kmほど下った場所にある横川地域は、静謐な修行場としての役割を持つ聖域です。

この横川の中心となる『横川中堂』は、1604年に「豊臣秀吉」の側室だった「淀君(よどきみ)」が寄進したお堂だったのですが、1942年(昭和17年)に落雷によって焼失。
現在の建物は1974年(昭和49年)に「最澄」の1500年の遠忌を記念して落慶法要を行ったもので、焼失前を復元した朱塗りの美しい外観をしていますがその構造は鉄筋コンクリートの現代的な丈夫なお堂となっています。

この釈迦堂の本尊である『聖観音立像』は落雷火災の際に炎に包まれたのですが、僧侶たちの懸命な努力のかいがあって奇跡的に焼失を免れ助け出された仏像です。

この聖観音立像は公開されており、その平安初期の特徴を残す柔和な観音様の優しい表情は参拝者の心の疲れをふんわりと癒してくれるような気持ちにさせてくれます。

この横川中堂は新西国三十三観音霊場の18番札所となっており、多くの巡礼者が参拝に訪れる聖地なのです。

横川を開いたのは「最澄」の弟子にあたる「慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)」であり、『根本如法塔』には彼が写経した法華経が納められています。

さらに横川には天台宗の最高位の「座主」となった第18代天台座主「元三大師(がんざんだいし)」こと「慈恵大師良源(じえだいし りょうげん)」が横川を整備した際に自身が住んでいた住坊跡地に建てた通称『元三大師堂』があり、四季に合わせて法華経の講義が行われる事から『四季講堂』という名前が付きました。

ちなみに現在いろいろな神社やお寺で引ける誰でも気軽に吉兆を占える『おみくじ』の考えたのが「慈恵大師良源」といわれ、この元三大師堂が発祥の地とされて現在「慈恵大師良源」が鬼に姿を変えて疫病の神様を払ったとされる『角大師』の護符がもらえ、御朱印をいただく事もできますよ。

内部は非公開となり拝観する事ができませんが横川には『恵心堂』というお堂があり、「慈恵大師良源」の弟子で後の浄土宗や浄土真宗へと繋がる基礎を作った「恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)」が修行し『往生要集』を執筆した道場が近くにあるので、一緒に参拝されるのもおすすめです。

「延暦寺」の開創した天台宗の祖「最澄」

「延暦寺」の開創した天台宗の祖「最澄」

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それでは延暦寺を開創した「最澄」とはどのような人物だったのでしょうか。

若くして才気に溢れ『天台宗』という教えを広めた「最澄」と、比叡山が『延暦寺』と呼ばれるようになった理由についてご紹介します。

若くして開いた仏への道

若くして開いた仏への道

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「最澄」の本名(俗名)は「三津首 広野(みつのおびと ひろの)」と言い、生年には諸説がありますが一般的には766年頃に現在の滋賀県大津市坂本本町のあたり、比叡山の麓に生まれました。

生まれた家系についてはあまり詳細な情報が無く、ほとんどが一次史料に乏しいもので良く分かっていません。

しかし12歳で滋賀県(近江国)にあった国分寺というお寺に入門し「行表(ぎょうひょう)」の弟子となって僧侶としての道を歩み始めます。

その後14歳で補欠の僧侶となって『得度(とくど)』を行い名前を「最澄」と改め、19歳の時に奈良県の東大寺で『律(具足戒)』という僧侶が集団で守らなくてはならない規則を受けました。

この得度とはいわゆる出家の為の儀式で、これを行う事で髪を剃り落とし国家に正式に認められた『公務員僧侶』となるのです。
ちなみに得度を行うにはある程度の身分がある家の生まれで身元がしっかりしている事、先輩僧侶の承認が必要でその後様々な役所を通して身分証『度牒(どちょう)』が交付されます。
この交付を受けると課役というお仕事や納税が免除されたりといった特権が与えられるもので、それを目当てに出家する下層階級の人や農民が多くいたそうです。

そういった人たちは『得度』を受ける事ができないので変わりに『私度僧(しどそう)』と呼ばれていましたが、きちんとした僧侶としての活動をしていれば特に処罰を受ける事はありませんでした。

「最澄」の生まれた奈良時代後期にはすでに仏教が伝わっていましたが、現在のように貴賤に関係なく誰でも信仰できるものではなく、生まれた階級によって死後に極楽行きか地獄行きか、仏の救いの有る無しなどが決まっているという考えであり前述の『得度』も現在では出自に関係なく受ける事が出来るものでも、当時は多くの身分差別があったのは言うまでもありません。

『律』をはじめとした旧来の「鑑真(がんじん)」が日本へ持ち込んだいわゆる『南部仏教(奈良仏教)』が本来の『人々を苦しみから救済する事を目的とした仏教』から『特定の人物だけが救われる仏教』また『僧侶が利権を得られる仏教』という俗化していた姿に対して疑念を抱いていた「最澄」は、公務員僧侶になってわずか3か月後に辞職して奈良から地元の滋賀へと戻り、比叡山で『本当の大乗仏教』を求めて独自の修行をはじめます。

仏教を学ぶ為に選ばれた遣唐使

仏教を学ぶ為に選ばれた遣唐使

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比叡山に籠った「最澄」は霊木から薬師如来像を掘りながら『本当の大乗仏教』を求めて修行を続け、3年後の788年に彫り上げた薬師如来像を山頂の小堂に安置し『一乗止観院(いちじょうしかんいん)』と命名。
この場所が後の根本中堂となる場所で『延暦寺』の始まりの場所になります。

この20代の若者が『本当の仏教』を求めて修行と研究を行っているという話しは時の天皇であり、僧侶へ集中していく政治的な権力や利権に危機感を募らせていた「桓武天皇(かんむてんのう)」の耳にも入り南部仏教とそれを擁護する貴族への対抗札として、また民衆の救いになるようにという「桓武天皇」の思惑により、天皇に直接仕える『内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)』に任命され、801年には『一乗止観院』で天皇が主催し南部仏教の僧侶も大勢参加する供養が初めて行われてその存在は大きく広められました。

797年に近江の領地を賜り個人で建てたお寺が国公認の『官寺』に準じる扱いを受けるようになった事で名前も『比叡山寺』と改められ、遷都した平安京の丑寅の方角にあった事から『王城鎮守の山』としての役割を担うように。

その後「桓武天皇」に遣唐使の一員に選ばれて804年に中国の唐へと後の真言宗の祖となる「弘法大師 空海(こうぼうだいし くうかい)」と一緒に仏教を学ぶ留学生として旅立ちました。

約1年の間で中国の『天台教学』『大乗菩薩戒』『密教』『禅』を学び帰国。
この時に学んだ事や写した経典などをさらに研究と修行を続け806年に『天台宗』を開宗したのです。

それまで勢力を振るっていた南部仏教は「最澄」や「天海」といった新しい仏教の流れに押され、徐々にその権勢は弱まっていきました。

この裏には「桓武天皇」の思惑があった事も確かですが、ここからいわゆる『平安仏教』が生まれ後の『鎌倉仏教』へと続く礎となっていくのです。

次のページでは『平安仏教を作った「最澄」と「空海」』を掲載!
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