オーストリア「インスブルック」観光で是非とも見たい歴史的スポットあれこれ

ドナウ川の支流であるイン川のほとりにあるインスブルック。「ブルック」とは「橋」という意味なので「イン川にかかる橋」というのがこの都市の名前の由来です。ドナウ川の支流の一つであるイン川はスイスのアルプス山脈に水源があり、オーストリアのチロル州の中央を東に向かって流れています。イン川流域は盆地になっていて、北にも南にも万年雪を頂くアルプスの山々がそびえています。スイスにルーツのあるハプスブルク家がウィーンを支配するようになったとき、その間にあるチロル州はスイスとウィーンとをつなぐ重要な通路になったのですね。てすからそのチロル州の中央にある州都インスブルックは政治的にも文化的にも大きな意味をもっているのですよ。


インスブルックにもホーフブルク(宮廷)があります

インスブルックにもホーフブルク(宮廷)があります

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ウィーンには壮大なホーフブルクがあり多くの観光客を集めていますが、これはハプスブルク家の宮廷です。
「ホーフブルク」=「宮廷」だとすると、インスブルックにもそのホーフブルクがあるのはなぜでしょうか。
もちろんハプスブルク家がウィーンではなくインスブルックに宮廷をもっていた時代があったということですね。
ウィーンのあの壮大なホーフブルクに比べると小さな宮廷ではありますが、インスブルックという都市自体が山間の小都市ですから、こんな小都市にどうしてハプスブルク家の宮廷があるのか、その謎を解いていくことにしましょう。

まずは簡単にインスブルックの歴史を見ておくことにしましょう

インスブルックはドナウ川の支流であるイン川のほとりにある都市ですから、ここに人が住み始めたのはおそらく石器時代からでしょうが、青銅器時代の遺跡は残されています。
イリュリア人やローマ人が居住した跡も残っていますね。
ローマ帝国時代には小さな城塞が建設されましたが、それは破壊されてしまいました。
12世紀にその城塞があった場所に修道院ができましたが、それは現在インスブルックの町外れにあるヴィルテン修道院教会。
この名前はこの場所がローマ時代そう呼ばれていたからなのですよ。

川にかかる橋は多くの人が行き交う場所でもありますから、そこに市場ができることがよくあります。
インスブルックもまたその良い例ですね。
イン川にかかる橋というのが都市の名前になったわけですが、1180年にはアンデックスという名前の伯爵がこのあたりを支配。
1239年には市場から都市に昇格し、この都市を取り囲む市壁や見張りのための塔が建設されましたが、それは現在インスブルック中央駅からグルリと旧市街を取り囲む道路にその名残を留めていますね。
ハプスブルク家の傍系の領地になったのは1363年。
その後1420年から1665年に宮殿ができて、皇帝マクシミリアン1世(1459~1519)は1493年にハプスブルク家の宮廷をインスブルックに移したのですよ。
インスブルックを歩くと、この皇帝の残したものを数多く見ることができますね。

マクシミリアン1世はインスブルックに宮廷を移しました

ハプスブルク家はもともとスイスのアールガウの貴族でしたが、1254年から始まった大空位時代は、1274年にハプスブルク伯ルドルフ4世がドイツ王に選ばれてルドルフ1世(1218~1291)になったことで終わります。
それと同時にハプスブルク家がヨーロッパの歴史の表舞台に登場。
この当時のハプスブルク家はスイスからライン川を下り、その上流地域であるアルザスやシュヴァーベンを支配下に置いていました。
この地域がハプスブルク家の元来の領地なのでフォアラントと呼ばれていますが、その後獲得したオーストリアに本拠地を移動。
インスブルックのあるチロル地方はそのフォアラントとオーストリアとをつなぐ重要な通路なのですね。

まだボヘミアやハンガリーを獲得する以前だったので、まさにインスブルックこそハプスブルク家の領土の中心。
何かとウィーンにいい思い出のないマクシミリアン1世は、父であるフリードリヒ3世(1415~1493)の死後インスブルックに宮廷を移したのも当然と言えば当然。
もっともインスブルックはマクシミリアンが宮廷を移す前から都市として半ば独立していたので、宮廷はどちらかというと町外れにあると言っていいかもしれませんね。
都市は市壁で囲まれていますが、同時にその市壁の内部が4分割されてまいす。
その4分割の線は、南北のマリア・テレジア通りとレオポルト通り、東西のザルルナー通りとマクシミリアン通り。
旧市街はルネサンスやバロックやロココ様式の建物で埋め尽くされています。
とはいえ、ウィーンなどに比べたら小さな都市ですから、高原の空気を吸いながら歩いてみるのもいいですね。

マクシミリアン1世の2度目の結婚を祝して金の小屋根ができました

旧市街の中央から北に向かうマリア・テレジア通りの突き当たりに、シュタット・トゥルムすなわち都市を取り囲む市壁に建つ見張りの塔があり、その先に金の小屋根があります。
これはマクシミリアン1世が、1494年3月16日にチロルのハルでミラノ公女ビアンカ・マリア・スフォルツァと結婚したことを記念して建造されたもの。
マクシミリアンは若い頃ブルゴーニュ公国の一人娘であるマリーと結婚して、「中世の秋」と呼ばれるブルゴーニュの華麗な宮廷文化を満喫。
しかし1482年にそのマリーが落馬して死んでしまい、この結婚もたった5年で終わってしまいますが、その後マクシミリアンは独身を貫いたのですよ。

「最後の騎士」というあだ名をもったマクシミリアン1世のことですから、ミラノ公であるスフォルツァ家を救うための結婚とも言われていますね。
もちろんその一方で、ブルゴーニュ家やスフォルツァ家の「財産」がハプスブルク家にもたらされたのも事実。
神聖ローマ皇帝とはいってもそれほど豊かな貴族ではなかったハプスブルク家を有数の豊かな貴族にしたのは彼の功績。
広大なスペイン王国の海外植民地を併せて「陽の沈まぬ帝国」を築いたカール5世(1500~1558)は、このマクシミリアン1世の孫なのですから。
金の小屋根とは、1494年から1496年にかけて後期ゴシック様式の建物に2657枚の金貨を瓦のようにした小さな屋根が付けられたもの。

しばらくこの界隈を散策してみることにしましょう

金の小屋根が付いている建物ですが、これは1996年にマクシミリアン1世を記念してマクシミリアン記念館になっています。
皇帝ともなるといろいろな「許可書」や「特許状」などを出すことができるのですが、マクシミリアン1世のサインが入ったものが展示されていますね。
そのほかには、1507年から1508年に宮廷画家であるベルンハルト・シュトリーゲルによって描かれたマクシミリアン1世の肖像画が見られますよ。
金の小屋根の向かい側には美しいヘルブリングハウスがあり観光客の目を引きますが、これはもともとは後期ゴシック様式で建設されていたものを、1730年にバロック様式で改築したもの。
正面のさまざまな装飾が美しいですね。

金の小屋根の手前にあるシュタット・トゥルムは、14世紀に古い市庁舎と一緒になった見張塔として建てられたものですね。
その後シュタット・トゥルム、つまりこの都市の塔となったのですよ。
57メートルの高さで周囲がよく見下ろせます。
イン川の河畔にはオットーブルクと呼ばれる建物がありますが、ここは現在はレストランになっていて、1809年にナポレオンの支配に抵抗したチロルの戦士たちのブロンズ像が見られますよ。
ナポレオンはチロルをバイエルンに与えたのですが、アンドレアス・ホーファーたちはそれに抵抗。
ハプスブルク家とチロルの強いつながりがそこに見えるような気がしますね。

インスブルックには大聖堂もあります

東京ドームなどというものがあるためにDom(ドーム)というと丸屋根の建物を連想してしまうかもしれませんね。
バロック様式の教会はたしかに丸屋根なのですが、ロマネスクやゴシック様式は丸屋根ではありません。
ドイツ語で「ドーム」というのは司教座のある大聖堂のこと。
キリスト教では世界の各地域をたくさんの教区に分けてそこに教区教会を設置していますが、いくつかの教区をまとめてそこに司教や大司教という高位聖職者を置いて司教区・大司教区を設け、そこに大聖堂を建設するのですね。
インスブルックの大聖堂はもともとは聖ヤコブ教区教会で、1964年に大聖堂に昇格。
ウィーンの大聖堂などに比べたら、ずいぶん新しいですね。

建物自体も、1717年から1722年にかけてバロック様式で建てられたもの。
教会の名前になっている聖ヤコブはキリストの十二使徒の一人で、その遺体がイベリア半島の海岸に漂着し、当時ここを支配していたイスラム教徒との戦いを勝利に導いたという伝説があるのですよ。
その場所は現在はスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラという世界三大巡礼地の一つになっていますね。
ハプスブルク家もバロック時代にイスラム教国であるオスマン・トルコと戦って勝利したのですから、聖ヤコブを祀る教会があっても不思議ではありませんね。
バロック様式の教会にはステンドグラスはあまり見かけませんが、そのかわり天井や壁に独特の絵画が描かれています。
インスブルックの大聖堂に描かれた絵は、このヤコブの物語ということになります。

マリア・テレジアにとってインスブルックは忘れられない都市です

マリア・テレジアにとってインスブルックは忘れられない都市です

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マリア・テレジア通りにその名を残すマリア・テレジア(1717~1780)は「女帝」として知られていますね。
ハプスブルク家の男系が絶えて、広大なハプスブルク家の家領を一人で相続したマリア・テレジアは、一方では16人もの子供を出産。
母親としても存分にその力を発揮したのですが、それとともに6歳のときから恋い焦がれて結婚した夫フランツ1世(1708~1765)への愛を、生涯にわつたて貫いたことでも知られています。
いやそれどころか死んだあともウィーンのカプチン派教会にある皇帝廟に2人で同じ棺に永眠しているのですよ。
それほど愛していた夫とのこの世での別れは、1765年8月18日にインスブルックで突然に訪れたのでした。
次のページでは『マリア・テレジアの三男レオポルトの結婚式が行われました』を掲載!
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Writer:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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