太田道灌って何をした人?文武両道・江戸城を築いた名将の生涯とは

皇居内に「道灌濠」という濠があることをご存知でしょうか。普段は一般公開されていない場所ですが、2014年から、春と秋の数日間だけ(2017年は秋のみ)、皇居乾通りが一般公開されたときに「道灌濠」という立札を目にした人も多いはず。道灌とはもちろん、江戸城の築城にも携わったとされる武将、太田道灌のこと。実はこの太田道灌、名前はよく聞くけどいつの時代の何をした人なのか良く知らない、という人、少なくないのです。知っているようで知らない太田道灌の生涯。一体、どんな経歴の人物なのでしょうか。






太田道灌の生涯(1)

家は代々、関東管領上杉氏の家臣

家は代々、関東管領上杉氏の家臣

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太田道灌が生まれた年は1432年。
日本は室町時代(1336年~1573年)の後半に差し掛かっていました。
幼名は鶴千代と名乗っていたそうですが、生誕の地がどこであるかは不明。
現在の神奈川県の伊勢原市のあたりか、東京都品川付近か、埼玉県入間市ではないかとの説もあります。

父は太田資清(おおたすけきよ)といい、相模守護代を務めていました。
また、太田氏は代々、扇谷上杉家の家宰(かさい:家長に代わって家の中のことを取り仕切る職責の一種)を務める家柄。
資清は学のある人物として知られており、山内上杉家の家宰を務めていた長尾景仲と共に「関東不双の案者(知恵者)」と呼ばれていたほど。
道灌も幼いころから学問に励んでいたそうで、鎌倉にある建長寺や、足利学校でも学んだと言われています。
後々の話ではありますが、和歌を詠んだり歌合せを行ったり、歌の世界でも名を馳せた、文人としても知られる人物だったのです。

ところで、”道灌”という名前は通称で、鶴千代の後、元服後は資長(すけなが)と名乗っていました。
本来なら太田資長と表記するべきところですが、ここでは「太田道灌」という呼称で綴ってまいります。

扇谷上杉家と山内上杉家

扇谷上杉家と山内上杉家

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太田道灌の生涯を語るうえで、避けて通れないのが上杉家の内紛。
この時代の上杉家は分家や宗家がたくさん出てきてややこしいのですが、太田道灌に関係しそうなところを中心に見ていきましょう。

太田一族が使えていた上杉氏とは、鎌倉幕府時代に京都から関東にやってきて将軍に仕え武家化した一族で、もとは藤原氏の流れを汲むとも言われています。
室町から戦国時代、江戸時代に至るまで名を遺した名家で、越後(新潟)・上野(群馬)・武蔵(埼玉と東京の一部)・相模(神奈川)一帯を統治していました。
また、鎌倉時代後期には足利氏に姻戚関係を結び後に足利尊氏が誕生するなど、着々と勢力を伸ばしていきます。

しかし勢力を広げ過ぎたのか、室町時代に入ると身内同士で争いが起きるように。
特に、鎌倉幕府に仕えて関東に拠点を置いていた山内上杉家と、初めは室町幕府に仕えて京都にいた扇谷上杉家が、関東での主導権を争って度々衝突するようになっていきます。
上杉家の力は次第にすり減り、力をつけ始めた他の大名や豪族たちに付け入るスキを与えてしまうことになるのです。

太田道灌が生まれた頃に、力を持っていたのは山内上杉家のほうでした。
扇谷上杉家は押され気味でしたが、父資清と道灌がその才覚と人望を持って扇谷を盛り立てたことで、扇谷は次第に力をつけていくのです。

享徳の乱と太田道灌

享徳の乱と太田道灌

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1454年(享徳3年)、関東管領を務めていた山内上杉憲忠が、対立関係にあった鎌倉公方(室町幕府の出先機関のひとつ)足利成氏に暗殺されるという事件が起きます。
上杉家は挙兵し、武蔵高安寺(現在の東京都府中市)にいた成氏を攻めますが激しい抵抗に合い、扇谷家の当主であった上杉顕房が討たれるという事態に。
駿府今川氏が室町幕府の使者としてこの時代の制圧に乗り出すと、成氏は下総古河城(茨城県南部)に立てこもり、上杉家を良く思わない関東周辺の領主や豪族たちの支持を集めて”古河公方”などと名乗り始める始末。
関東は利根川を境に分断された状態になってしまい、この争いの構図は以後、享徳の乱(きょうとくのらん)と呼ばれ、28年にも渡って続くことになります。
この争いは、関東における戦国時代突入の要因になったと言われています。

道灌が父から家督を譲られたのは、そんな最中の1456年(康正2年)のことでした。
以後、道灌は、扇谷上杉家を支え、結果的に28年も続いてしまった古河公方との争いに対処していくことになります。







太田道灌の生涯(2)

古河公方との争いと江戸城築城

古河公方との争いと江戸城築城

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古河公方に対抗するために、道灌は防衛拠点の設営に奔走します。
城作りの達人としても知られる太田道灌。
利根川流域を中心に城を築き、守りを固めていきます。

話は少し逸れますが、当時の”城”とは、立派な天守閣や土壁の櫓などがある居城としての城ではなく、戦闘時に籠るための山城スタイルが主流の時代。
地形を活かし、狭い街道を隔てた小高い山などに郭や馬出しを設けたシンプルなもの。
山の麓に館を建て、普段はそこで過ごし、敵が来たときに山へ上がって、下を通る敵に矢を浴びせ一網打尽にするという、実質重視のものがほとんどでした。
こうしたスタイルの山城が、関東一円にはたくさん残されています。
一見すると単なる小高い山ですが、ところどころに郭の跡があり、発掘調査によって無数の矢尻や人骨が見つかることも。
古河公方と上杉家との争いが、関東にこうした山城をたくさん残す要因になったとも言われています。

利根川を中心に防衛拠点を固め進めていた道灌にとってどうしても気がかりになっていたのが、利根川下流地域でした。
地元の有力武将であった千葉氏が古河公方側についたため、ここを抑えなければならないと考えたのです。
そこで道灌は江戸氏(えどし:武蔵国の領主)の領地に城を築城します。
これが「江戸城」。
つまり、現在の皇居のある場所。
古河公方に睨みを利かせるため、太田道灌はここに城を築いたのです。

道灌が築いた江戸城と徳川家康

道灌が築いた江戸城と徳川家康

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現在の東京都の地図では分かりにくいですが、江戸城は”麹町台地”と呼ばれる小高い台地の東側に造られた丘城(平山城)でした。
後に徳川氏によって大改修工事が行われたため、道灌が築いた城の全景を見ることはできませんが、残されているいくつかの文書によれば、城は「子城」「中城」「外城」の三重構造となっていて、さらにその外側には水堀や切岸が巡らされていたとか。
単なる山城ではなく、かなり本格的な造りの城であったことが伺えます。

ところで、現在の皇居といえば東京のど真ん中。
かなり内陸にありますし、「利根川防衛のためにこの場所に築城と言われてもピンとこない」という人も多いでしょう。
実は道灌が築城した当時の地形は現在とは違い、日比谷のあたりは深い入り江になっていて、江戸城の目の前は海でした。
現在はビルが建ち並び鉄道や道路が張り巡らされて、平らな土地と錯覚しがちな東京ですが、江戸氏が治めていた頃は何もないススキの原であり、東側は海、西側には武蔵野の山の裾野が広がっていて、平坦な土地が少ない、都市に不向きな地形だったのです。

道灌の目には、狭く、細く、限られたスペースを通るより他ない地形が防衛拠点に適していると映ったのかもしれません。
しかしその後、なぜか家康も、街づくりに適しているとは言えない江戸城を居城に選びました。
道灌の生きた時代より少し後のことになりますが、家康は土地を確保するため日比谷の入り江を埋め立て、江戸城のまわりに大きな城下町を作り、それが現在の東京都の原形となっていきました。

次のページでは『扇谷上杉家の家宰として』を掲載!
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Writer:

歴史と歴史小説と遺跡を愛してやまない東京都在住の主婦。子供のころからの大の時代劇ファン。国内外問わず歴史小説を読むようになり、NHK人形劇「三国志」を見て中国史にはまって大学では東洋史学を専攻。愛猫とじゃれながら歴史小説を読み漁る毎日を送っている。趣味は古地図を眺めることとカメラ片手の街散策。

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